2024/12/13
透明な筒
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“待つ”ということの祈り。
自分のなかにそれが訪れるのを待つ。それがやってきたときに迎えられるように、自身のなかを空白にする。空けておく。
“待つ”ことは焦りではない。焦りがあると、そこから遠ざかる。ただ、空けておく。
もう数年まえのことだけど、ある詩人のかたの朗読会に参加したとき、彼女の声、言葉が彼女の自我をこえたところから発せられていると感じたことがあって、それを「透明な筒みたいだ」といったことがあるの。「透明な筒をとおして、あなたの声が発せられているように感じた」と。
彼女が詩を書くとき、詩を読むとき、彼女は“透明な筒”になっているのだろうと。
つまり、自分であって自分でない、自分でないところの源泉とつながっておろす、ということ。そのようにして地上に姿をあらわす。
彼女はわたしがいいたいことを瞬時に察してくれて、「すごく嬉しい」と笑ってくれた。
そしてそのようにとっさに口にしたわたし自身も、“言葉”というものをかたちとしてあらわすとき、そしてenergyとつながっておろすとき、それを(透明な筒になることを)意識し大切にしている自分を自分自身に再確認したことだった。
それは“言葉”やenergyという領域にかぎったことではなく、「“それ”と“つながる”」ために自分を研ぎ澄まし、“透明な筒”になることを、作り手であるならばしているのだと思うし、それは人生だっておなじこと。わたしたちは誰しも、自分自身の人生の作り手。誰だってクリエイティヴな力を人生において使っている。
でもそのことを誰もが意識しているわけじゃない。だからそれをどのように使っているか、はそれぞれに異なる。
意識しているほうがより、自分と“つながる”ことを阻んでいるものを削ぎ落す、研ぎ澄ます、ということを自覚的にしてゆくとは思うけれども。
自分のなかを“空ける”、自分のなかに空白をもつ。そしてどれだけ“待つ”ということの神聖さを自身のなかに招くことができるか。それには“焦り”を溶かす必要がある。焦りを溶かすには自分自身との対話がもとめられる。どこまでも彫りさげてゆくことを。
そうして溶かしていったものが空白になる。その空白と、“透明な筒”をとおしてなにとつなげるか、といえば、それは源泉ともいえるし、真我ともいえるのかもしれない。
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