2026/05/15








 記録しないでいるうちに、ほんとうにすべてのことがあっという間に過ぎ去ってしまう。


 先月の終わりに、ほんの一瞬空に見ることができた虹のことも。


 その日、いらしてくださったお客さまはちょうど1年ぶりにお顔を見せてくれたかただった。


 彼女はわたしがsessionをはじめたその最初から、規則ただしいルーティンのようにほぼ月に1度いらしてくだり、間が空いたときでも3か月以上は空いたことがなかった。


 けれども去年の4月、いつものように施術を終えて彼女を見送ったあと、「あのかたはもういらっしゃらないかもしれないな…」と漠然とした予感めいたものを感じ、そのとおりそれ以降、2019年の秋から周期のごとく顔をあわせていた彼女の姿を見なくなった。


 理由はわかりすぎるほどわかっていた。


 彼女が「みずからの“問題”の核心」に近づく必要性を、自分自身からもとめられる段階に入ったからだ。


 自身の“外側”に闇を見つけることはたやすい。


 “闇”という言葉でなくとも、自分以外のものからもたらされるものによって、悲しみや怒り、不満や寂しさを感じるのだと、わたしたちは思っている。


 けれどもそれをつくりだしているのは、自分自身でもあるのだということ――


 自分がなにに“反応”するかが、自身の心とからだが教えてくれるメッセージでもあるのだということ。


 その“反応”するものが、自身のなかにも「ある」のだということ――


 世界は「ひとつ」ではなく、そのひとの段階、階層、つまりは眼差しの焦点やありかたによって変化する。ひとりにひとつ、世界はある。


 だから“外側”にあらわれるネガティヴティを溶かしたいなら、みずからの闇こそを精査することをもとめられる。


 しかしそれを見つめ、触れるより、「現状」のなかに留まっていたいと誰しもが思う。


 それはしかたのないこと。人間の脳の構造というのは「変わる」ことを「怖い」と感じるようにできている。そしてその抵抗力は、自分が意識しているよりもとても深くておおきい。


 無意識の抵抗力は現状維持のためなら、どのような理由も生みだしてしまう。


 そして彼女も「“問題”の核心」に迫ってゆく段階になって、外側や他者より自分自身を精査しなければいけないと、彼女のなかの“光”では理解していることが見てとれた。


 その領域と思考とのあいだに葛藤が生じていることが。


 彼女自身はそれを意識していなかったかもしれない。渦中にいるとき、みずからを俯瞰的に見つめるのは至難のわざだし、またそのためには、まずは自分を徹底的に精査することが重要なことでもあるから。


 だからこそ、“外側”に受け入れがたいことがやってくる。


 そしてそれを見たくない、蓋をしたいという気持ちも、わたしには充分に理解できた。わたしもそういう段階をいくつも経験してきたことから、彼女がどこかのタイミングで長期間いらっしゃらなくなるだろうときがくるだろうことを初期の段階から感じていたし、実際にそのような段階に入り、このままもうお逢いすることはないかもしれないなと思っていた。


 もしまたやって来るとしたら、孤独と戦っていたであろう彼女が別の段階に入ったときか、ほんとうに緊急事態のときか、いずれかだと。


 ひさしぶりに対面したとき、彼女がおおきな殻を破ったのだということをすぐに感じることができた。


 それは見るからにあきらかで、わたしは彼女が彼女に還ってゆくための旅を彼女自身が進んでいることを、とても嬉しく思った。


 sessionが終わり、彼女を見送ったあと、雨あがりの空に虹が出ていて、わたしはそれを「祝福だ」と思い、一瞬の光景を写真のなかにおさめると、彼女にそれを送った。


 誰かを祝福することは、自分自身へも祝福を贈ることだ。


 逆もまたしかり。


 彼女のための祝福は、いつかのわたし自身へ贈る祝福でもある。





 その日が旧暦の3月11日、勝頼公のほんとうの意味での祥月命日だったことを、虹が消えてから想いだした。きっとそれも、なにか意味のあったこと。


   








双子のかたわれ、あるいは少女と乙女










 いつか、少女という生き物について「空を飛ぶことを祈りながら背中に羽がある自身を疑い、反世界に出奔しようとするのが少女。」と綴ったことがある。


 当時の言葉にしたがうなら“少女”――いつもその肩越しに“空”を感じるひとから、双子の薔薇のかたわれをいただいた。


 彼女が手ずからおつくりになられたもの。


 ちなみに「夢を見ることを願って心臓に翅がある自身を信じ、世界を空想しようとするのが乙女。」


 少女と乙女はずっとわたしのおおきなテーマのひとつだけど、最近またあらためてそれを意識することがつづいていて、これはどういうことだろうと観測している。


 ***


 少女は拒絶する、乙女は受容する。

 世界を、時間を、他者を、そしておそらく自分自身を。

 自分を縛る何者かに首を横に振り、
 ときにはおのれの美しささえも拒み背け、
 空を飛ぶことだけを祈り、
 その背中に羽がある自身を疑い、
 反世界に出奔しようとするのが少女。

 自分が愛す何者かに首を縦に振り、
 ときにはおのれの穢なささえも迎え入れ、
 夢を見ることだけを願い、
 その心臓に翅がある自身を信じ、
 世界を空想しようとするのが乙女。

 少女は高潔で勇敢。乙女は慈悲と夢。



 (大昔のアリス・リデルの誕生日に記した言葉から。――そのころのわたしにとって“少女”はアリス・リデル、“乙女”はクシー・キッチンでした。)


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 『月の片翅』

 ©Yume tsukino
 ©yukane







桜貝の蝶








 清らかな心でいつも世界を見つめたいと祈るかたから、海辺でご自身が拾われた桜貝を贈っていただいたのは、もう何年もまえのこと。


 そこにこめられた想いとともに大切にするあまり、おさめられた箱と一緒にしまいこんで行方がわからなくなってしまっていた貝殻たちが、さきの新月の翌日に還ってきた。


 このタイミングで。


 いつからか自分が物語より物語らしい現実を生きているなと感じているけれど、世界に散らばるうつくしくてやさしいものをとおして、あらためてわたしに幾度もそのことを囁きかけてくれる。


 ***



桜のはなびらは
風とともに
天と地のあわいを
舞いながら
のびやかに流れてゆく

そしてときに
水に沈んだはなびらは
桜貝となって砂浜に流れ
土に姿をあらわし
はなびらと貝の名残を
その断片に宿した
翅を手にいれ蝶となり
やわらかな火のごとく
空へと羽ばたいてゆく


“そんなことがあるわけがない”
そう思うことでも起こりうる
“流される”ではなく“流れる”

どんなことでも起こりうると
みずからに ゆるすということ

そしてそれも
自分自身のなかに揺るぎない
おおきな樹が育まれたからこそ
できること



 (――『片翅の泉』に寄せた、まぼろしの28の翅のひとつから。)


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