2026/03/06

『片翅の泉』 Q&A③ 物語を書こうと思った理由










 草舟あんとす号で開催されます『片翅の泉』展の開催まえにご店主からの問いにお答えしている企画、今回は3回目です。

 ①今回の展示のテーマ
 ②展示作品への思い

 もよろしければあわせてお読みください。


 ご一緒させていただく画家のyukaneさんもご自身のBLOGで展示やこの企画のことを綴られていらっしゃいます*





 Q.3 物語を書こうと思った理由





 今回の展示にさいしてわたしがとても意識したのは、「その展示が“どこ”でおこなわれるのか」ということでした。


 準備中に話を重ねてゆくなかで、草舟あんとす号のご店主に「あなたにとって、展示とはどういうものですか」という問いかけをいただいたことがあり、それにもわたしは「“どこ”でそれをするのかということは、重要なことかもしれません」というような答えをお返ししたと思います。


 重要なことというのは、どのような形式で、なにを書くのか、という点において。


 その場所ですることの意味、その場所だからできること、場所と自分とが溶けあって共鳴することで生まれるもの。


 わたしという人間と、草舟あんとす号という場所はそれぞれひとつの点ですが、その点と点を糸でつないで(今回の展示においては「線でむすんで」より、「糸でつないで」のほうがあっているように思います)――もちろんそこにはyukaneさんという点もあって、その点とつなぐ糸があり、そのようにして浮かびあがる「かたち」をあらわすことが、わたしの考える「展示」なのではないかと思いを深めました。


 今回の展示が決まった当初からそうはっきり意識していた、というよりも、長い時間かけて準備してゆくなかで、「自分はそのように思っていたのだ」ということが鮮明になり、それによってより「なにを意図してあらわすか」がさだまったことを感じますし、それはこの展示をとおして育てていただいたもののひとつです。 


 結論だけさきにいえば、今回は草舟あんとす号というお店と、そのお店があるholy gardenという場が展示の舞台としてあってくれたから、「物語を書きたい」と自身のなかから湧いてくるものがありました。


 holy gardenで展示をするのなら、holy gardenの「物語」を紡ぎたかった。



 もう大昔のことですが、過去に物語というものを書いていたことがあります。


 自分のための物語です。


 それはわたしのためのものだったので、自身のなかだけで完結し、誰にも見せることなく、おおやけにすることはありませんでした。


 けれども時が流れて、そのときの文章を人に読んでもらう機会があったとき、「開示したほうがいい」という助言をいただいて、一時的に公開していたことがありましたし、またその時期は現在進行形であらたな物語をやはり自分のために書いていた、書く必要を感じていた時期でもありました。


 そして、その必要を感じなくなったとき、わたしは「自分のための物語」を綴るのをやめました。


 それに対する気持ちを、2022年4月に別の場所で書いていたので、引用しておきます。






 
もう文章を書かないんですか、という問いかけをときどき投げかけてくれるひとたちがいる。――そのような問いかけのなかでの「文章」とは「物語」のこととして。


 ずいぶんと昔のことですが、自分のなかの物語をものがたるために言葉を綴っていたことがあり、貝殻の肖像、夏の鳥籠、蝶のうたた寝、空に種を蒔く、とそういうふうに題をつけて、その題に集った花びらをならべるように言葉を紡ぎ、ひとつのおおきな花とするために文章で束ねたものを過去に読んでくれたひとたちが、そういう問いかけをしてくれることがある。大昔のことなのに、ささやかに編んだあの物語たちを覚えていてくれることはとてもありがたいことだと、感謝しています。


 「もう書かない」とわたし自身の気持ちとしては思ってはいないのですが、でもそれを書いていた当時といまとではあきらかに変化していることがあるのです。


 それはあのころ、「この世にわたしの心にかなう美などないのだから、わたしがその美を創りだせばいい」と思い、わたしの心にかなう美を、その世界や人々を体現するためにそれを書いていた、ということ。


 言葉で構築された堅固な城みたいに美を組み立て、理想をそこに映しだすことで、わたしはわたしを慰めていた。


 わかりやすくいうなら、致命傷となっていたものに、いくばくかの回復と栄養をあたえるために、わたし自身のための物語を書いていた。自身を癒すための自己供給的な手段としてそれを用いていた、ということ。


 自分の心にかなう美などこの現実にありはしないと思っていたから、そうしていた。


 それもある意味でその当時の自身が視界に、すなわち頭と心に纏っていたひとつの膜であり殻であったのだと、いまなら思う。


 現実にないのだから夢のなかでそれを築いてしまおう。贋金をつくるように精妙に、わたしの美意識で統御された夢の魔術をかけて、わたしの規律によって呼吸する“うつつ”を、この世界の裏側に出現させるために。


 けれでもそれは、自分の見ていた世界が狭かったがゆえのことだった、と理解するようになった。自身の世界を拡げたら、美しい場所も美しい人たちも現実に存在することを知ったがゆえに。それも自分が綴った物語よりもわたし自身の心の美に触れるかたちで、物語よりも物語らしく。


 それを理解したとき、わたしは「現実にないものを創りだすための夢」としてわたし自身に物語を紡ぐ必要性を感じなくなりました。


 「自分のための書き手」、自分自身のなかの穢された美とでもいうべきものを再生させるため、涙を結晶のように見せるためのマジックに言葉を用いること、その段階は終わったのだと。


 わたしのもとめていた夢のごときものは、なによりも現実のなかにあったこと。



(2022年4月16日)






 (また、おととしにも『光を言祝ぐ』という題で2022年4月16日に記した上記の文章を一部意図して引用し――そのようには記さず、自分のなかだけでそれを理解しながら――“言葉”について綴っています)



 この文章を書いたとき、間違いなくholy gardenは「美しい場所も美しい人たちも現実に存在することを知った」の場所と人として、わたしの心に浮かんでいました。


 あの場所をいつも「物語より物語らしい」と思ってきたこと。








 だからほんとうは、その場所を言葉にして構築し、再現しなおす必要もないのかもしれない。


 ただそこにあってくれるだけで、その場所は「物語」であるのだし、わたしとおなじようにholy gardenを大切に想っているひとたちのなかに、そのひとだけの「物語」があるでしょうから。


 それでもわたしはやっぱり、holy gardenで展示をするのなら、わたしの目に映るその姿を言葉にしてみたい、自分とこの場所とを糸でつないで「かたち」をあらわすなら、今回は物語だ、と思ったのです。


 長すぎるために割愛しましたが、上記に載せた引用には最後に「もしまた物語を書くなら、それを書く自分の動機が過去とは異なるところにあるから、そこにあらわれる世界もまた、過去とは違うものになるのだろうと思う」とありました。


 このたびの『月の片翅』でそれが果たされているのかはわかりませんが、とにかくいまの自分のすべてで書いたことはたしかです。


 そしてそれがどのようなものであるのかは、お読みくださるかたがそれぞれに感じていただければ嬉しく思います。


 草舟あんとす号、holy gardenという場をあたえてくださったこと、しじまから語りかけてくるyukaneさんの絵を挿画としていただけたこと、この物語にとってとても幸せなことでした。











2026/03/04

『片翅の泉』 Q&A② 展示作品への思い









 草舟あんとす号で開催されます『片翅の泉』展の企画として、展示開催まえにご店主からの問いにお答えしている前回からのつづきです。


 なお、ご一緒させていただく画家のyukaneさんもこちらで展示やこの企画から感じられたことなどを、ご自身の言葉で綴られていらっしゃるので、ぜひあわせてお読みくださればと思います*




 Q.2 展示作品への思い



 この問い、この展示についてお話するためには、桜のことをお話する必要があるのかもしれません。


 ある山桜の木のことを。


 そしてそのことを辿りなおすには、そのまえに2017年の秋、やはり草舟あんとす号でyukaneさんの個展『繭の森 1』がひらかれたときに出逢った『sleep song』という題の絵のことからはじめたほうがよさそうです。


 その絵には黒い月と白い月の下、鹿の角が樹木となって白い枝と黒い枝を天にむかって伸ばし、その背に眠りに就いたちいさな女の子が身をあずけている――sleep songにゆだねている姿が描かれていました。わたしはとても心惹かれ、なぜ惹かれるのか理由は説明できないけれどもその気持ちにしたがうことにして、わたしのもとにきていただくことになりました。


 これも言葉で説明するのはむつかしいのですが、yukaneさんの絵はその持ち主となるかたの、ある予感みたいなものを顕してくれるように、わたしには感じられます。


 そのひと自身の鏡、すこしさきの未来の姿、つまりはそのひとのなかにある種や芽や花や実を映しだしてくれ、みずからの空間、家や部屋に飾られているその絵を見つめるたび、「そちらにいけばいいんだよ」と無意識に働きかけ、いざなってくれる、“そこ”へ運ばれてゆくことを自分が自分にすこしずつ認め、その方向に進んでゆくことの手助けをしてくれるような。


 「気持ちが惹かれる」ということには意味があり、自身の泉の底にある、いまはもしかしたら眠っているのかもしれない「なにか」に導かれているということ。


 2019年の『繭の森 2』のあと、しばらくしてからわたしはそれをはっきりと理解して、2022年『繭の森 3』で『澪 ー散華ー』を目にしたとき、「理由はわからないけれど惹かれる」の自分の心にしたがう必要があることを、そこでも強く自分自身からうながされました。


  ( yukane 『sleep song』『澪 ー散華ー』 )


 後日部屋に飾るときに気づいたことなのですが、ふたつの絵をならべると、黒い月と白い月のあいだに黄金の月が浮かびあがり、樹木となった鹿の角のうえに桜の木が配置される、そういう構図になって、それが偶然ではなく、わたしのもとに来るべくして来てくれた絵であることを感じ、胸がいっぱいになりました。


 地中深く眠っていた種、それが地上に顕れ、開いてゆく。


 黒い月と白い月がひとつになる。





 『澪 ー散華ー』の桜の木は、ある神聖な場所に咲いていた山桜を描いたものであるのだと、yukaneさんより教えていただきました。


 その場所に桜の季節のときに行ってみたいとわたしはいい、けれども翌年の春、あの絵の山桜の花はもう見られないかもしれないとyukaneさんからご連絡をいただいて、桜の木がひとつの命を終えたこと、もうその木から花は咲かず、巡りを終えて、またつぎの巡りに入ったことを知りました。


 yukaneさんがその絵を描かれたのは、山桜が最後に花をつけたとき、だから“散”る“華”だったのかもしれないと、最後の年に撮られた山桜の映像をyukaneさんが送ってくださったのですが、桜の花びらが天女みたいに舞っているのを眺めながら、すごく切なく、けれども同時にあたたかなものを感じたことを覚えています。


 またつぎのどこかの春にむかって、山桜は花びらを散らしながら昇っていったのだと思いました。


 「またいつかの春に逢える」というような言葉を、そのときyukaneさんもおっしゃっていたような記憶があります。


 そしてそれから、いつもわたしのどこかに、桜のことがありました。


 だからのちになってこの『片翅の泉』展のことが決まり、今回この展示で言葉を紡ぐなら、それは物語の形式をしているだろうと思って、それはどのような色を帯び、風景が広がってゆくのだろうと想いを馳せ、みずからに問いかけていたとき、澄んだ泉のそば近くにあるあたたかなお店へと、やさしいかたに案内していただく機会があり、そこで「桜」をモチーフとする陶器の作品に出逢ったとき、それを目にした瞬間から自分の意識が深く吸い寄せられるのを感じたことも、それとつながりをもっていったことのひとつでした。


  (作品 MAJO)



 yukaneさんの絵に対して感じる「理由はわからないけれども惹かれる」と似た磁力を放っていた、みっつの桜。


 そのときはまだ心決まらず一度はそのまま家へと帰ったけれど、そのみっつの桜のことが意識から離れていかなくて、この感じはきっとお迎えする必要があるのだろうと思い、近いうちにあらためて再訪しようと決めたとき、yukaneさんのあの桜とこのみっつの桜がわたしのなかで結びつき、この文章ではつたえきれないほど、それはわたしにとって、とてもおおきな啓示でもありました。


 あの桜をお迎えしにいかなければいけないと、自分だけがわかる理由でそう思い、それからすぐにその場所へ再訪したのですが、それが11月の満月の日だったことを覚えています。


 みっつの桜。


 命を終えて土に還った桜が、ふたたび土から陶器として逢いにやってきてくれたのだと思いました。


 ひとつはわたしに、ひとつはyukaneさんに、ひとつはある湖の水の底に、必要があってお返ししました。


 このみっつの桜も、yukaneさんの白い月、黒い月、黄金の月とおなじ構図をもっていると気づいたとき、自分自身からの答え合わせをもらったことを感じつつ。


 「土からやってきてくれたことに、とても意味を感じる」とyukaneさんもおっしゃられていたこの陶器の桜を迎えたとき、わたしは『繭の森』の繭から生まれようとする翅の、ひとつの蝶の“片翅”として、森の奥深くにある泉の、『片翅の泉』の物語を紡ぐことができるだろうと、確信できました。


 これはわたしにとって、この展示、そしてこれからの自分自身にとっても、シンボル、お守りみたいなものです。


 その翌年の冬と春のはざまで、雪と桜をめぐるふたつの旅をしたのですが、それもわたしのなかではこの展示と深く結びついていて、だからこのたび綴ったお話も、雪と桜のはざまの物語になりました。


 さまざまな流れを経て、この展示の開催が冬のおわりと春のはじまりの中間、春分をはさんだ季節、桜の兆しを感じる時期になったのも、そのようななりゆきだったのかもしれないと思ったりします。


  (『月の片翅』 B6版 123頁)



 余談ですが、よく見るとyukaneさんの『sleep song』の絵のなかにも雪が降っているのです。


 『澪 ー散華ー』とならべると、桜のはなびらと雪のひとひらが境界をこえて「はざま」のなかで溶けあっているよう。


 「展示作品への思い」というより、「展示への思い」といった文章になりましたが、それはどちらもわたしにとって、共通するみなもとを持つ問いであり、答えでもあるといえるのだと思います。そしてこれらのことをどこまで言葉というものをとおしてつたえきれたかわかりませんが、開示することが大切なことであるともまた感じました。


  (写真 草舟あんとす号)


 昨日の満月、皆既月食の日に展示にむけた本『月の片翅』を草舟あんとす号さんにお届けし、yukaneさんの詩画集『金の糸』とふたつ、無事に揃うことができました。


 ならべると鏡あわせになる2冊の本。黒い月と白い月、そしてこのたびの展示のDMに描かれた白い蝶と黒い蝶みたいに。













2026/03/03

地のひと










 『片翅の泉』展のために紡いだ本、『月の片翅』は、展示開催の場所となる草舟あんとす号があるholy gardenを舞台としています。


 多くのひとにとって、そして自分にとっても大切なこの場所と物語の世界をつなぎあわせる、という試み。


 『わたしは彼女を心のなかで「地のひと」と呼んでいた。』の“彼女”は、わたしから見たあんとす号さんの人物像として綴りました。