2026/09/30

熊野詣(1)











 熊野について、ほとんどなにも知らないで旅に出発したのだな、といまになってつくづく実感している。


 帰ってきてからその土地を振り返ることで、あらためてその土地を知る、ということが熊野に関しては多く、


 またそれが旅をするうえではよいように働いたとも感じられて。


 たとえば、前回の投稿にも記したように、「熊野三山はそれぞれ“過去世”“現世”“未来世”をあらわしている」というメッセージが入ってきたので調べてみるとたしかにそういう話があるようで、


 熊野速玉大社が“過去”を、

 熊野那智大社が“現在”を、

 熊野本宮大社が“未来”を


 それぞれあらわしているのだと説明されていた。


 そしてこの3日間の熊野の旅は、1日目に“過去”である熊野速玉大社に、2日目に“現在”である熊野那智大社に、最終日の3日目に“未来”である熊野本宮大社にお詣りする形式をとっていたこと、


 なにも知らないままに、自然とそのように配置されていたことに、いまさらながら「よくできている」と思ったりなどして。


 熊野行きが決まったとき、そして当日を迎えても「ほんとうに行くのだろうか」と、半信半疑だった旅が、旅の途中でもどこか夢をみているようだった日々が、


 帰ってきてから深く、鮮明に、意味をもって映しだされている。


 熊野速玉大社には樹齢1000年にも遡ることのできるという、梛の木があった。


 巡礼者たちは、その巨樹が落とす葉をひろい懐や袖に入れて、熊野古道を無事越えられるよう、お守りにしたのだという。


 梛の葉は縦に葉脈をもつから、容易に引き裂くことができない。


 だから「円満」であり「魔除け」の意味があるのだと、そんな話に耳を傾けながら、わたしも御神木が落とした葉を1枚いただいた。


 それは熊野の旅の護りというよりも、みずからの“過去”への護りのためにいただいてきたひとひらだったのかもしれない。


 その日の夕方、空を仰ぐと太陽と月のはざまのような光がこちらを見つめていた。











2026/09/29

9月の一斉遠隔Healingのご報告










 (熊野。――太陽と月のはざま。)


 9月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへの、月末の一斉遠隔ヒーリング、無事に完了しております。


 このたびはミカエルマスの日にちなんで、ミカエルの“剣”のエネルギーと、


 今月の熊野の旅からいただいてきたエネルギーを融合させてお届けいたしました。


 ミカエルの“剣”は破邪の力を宿し、わたしたちにまとわりつく不要なエネルギーを光にお返しする役割を担っています。


 すなわち、惑わすもの、邪なものから護り、わたしたちが自分自身の本質とつながり、わたしたち自身の光とつながること、それを妨げているものを断ち切ってくれる力をもちます。


 そしてそれはそれぞれの“自由”へと進ませてもくれます。


 今回、予定になかったことですが、観音菩薩のエネルギーも、このヒーリングのなかに入ってきました。


 熊野という土地の神々を総称して「熊野権現」とお呼びすることがありますが、


 その「熊野権現」と「観音菩薩」の結びつきに、ここ数日想いを馳せるものがありましたので、これにはわたしもいささか驚きを感じました。


 このことはおそらく、また別の折に綴るのではないかと思いますので、機会はそちらに譲ることにして、


 今回のヒーリングのことについてつづけると、「熊野三山」とは過去世、現世、未来世のことなのだ、と入ってきて、今回ご参加されたかたの「過去」「現在」「未来」にそれぞれ癒しを送るように、ともまたつたわってきましたので、そのようにいたしました。


 そして、ここでいう「癒し」とは、やはり「破邪の力」――惑わしや邪なものに引き寄せられない力を自分のなかにもち、みずからの光をおおきくする、ということです。


 今回のエネルギーの作用には、“(悪)因縁”となってきるものをほどき、きよめ、昇華にみちびく、ということもふくまれていたようです。


 熊野の土地がつたえる「よみがえり」とは、過去、現在、未来のすべてに光を届けることで、自身の次元もまた変化して、


 それが「あたらしく生まれ変わる」ということなのだと、つたえられました。


 きっと、ご参加されたかたに必要なことだったのだと思います。


 このたびは以上になります。


 今月もありがとうございました***


 どなたさまもよき秋をお過ごしになられますように。





『美しきシモネッタ』 at 丸紅ギャラリー










 ――時を遡って。


 旅のまえに鑑賞してきた『美しきシモネッタ』


 地上の美を“永遠”にするために聖なるものへと昇華して、普遍的な姿をそこに遺す。


 目に見えるものは滅び、肉体は朽ち、花は枯れても、その核にあるものは“不変”


 「不変の桜草」という言葉がずっと心に残っている。