2026/05/25

日野まき個展『ふりかえってみると』 at コトリ花店











 花にあふれた白い部屋の壁に佇む少女たち。


 すぐそこに迫る夏の陽射しに身を翻してひんやりと透きとおったその部屋の温度と、彼女たちの温度が通いあっていて、そこは彼女たちが棲むために用意された森の奥の秘された“部屋”のようだった。





 今年も再会できたholy gardenのカシワバアジサイ。


 また逢えたことが、なにかの約束の成就のように感じつつ。









フランスガム個展『桃幻花』 at 草舟あんとす号











 季節の揺らぎにあらわれた、桃源郷の入り口。


 ガムさんの「桃源郷」は安曇野からはじまっていて、去年月とビスケットさんで開催された今回の「桃幻花」のプロローグ的な展示にもとても興味を抱いていたので、わたしも大好きなあんとすさんでこうしてまたその「つづき」を拝見できたことが嬉しい。


 月とビスケットさんでの展示の準備期間のさいに、ガムさんと「桃源郷ってなんだろう」という話をしたこと、ガムさんが“水”のきれいなところはその場所につながっているように感じる、ということをいっていたことを覚えている。


 今回わたしがうかがったのは、桃源郷の入り口が閉じる直前の最終日。


 フィナーレの祝いのように、やさしいかたが祝杯の準備をしてくださっていた。


 日没にholy gardenのお庭で杯を酌みかわしたとき、桃源郷で輪になって盃をかわす乙女たちの絵と現実の風景が重なり、あちらとこちらが溶けあっているのを感じて、それはとても幸せなことだった。





 “異界”に舞うひとときに、天女気分で帰路に。


 “あちら”(そして目には見えないけれど、きっと“こちら”にも)に咲く桃幻花の手引書をおみやげにして。


 ガムさんの作品の絵も好きだけれど、言葉も大好きで、どちらにも彼女の人柄がつくるやさしい“影”が浮かびあがっている。








2026/05/23

記憶の巡礼











 母の誕生日の日、夜は両親と食事の約束をしていて、そのおなじ日の昼に、子どものころの記憶の巡礼をしようと、それをしたほうがいいと数日まえから自分自身が囁いてくるのを感じ、それにしたがうことにした。


 幼少期に縁のある場所を巡ることで、自分自身の子ども時代の鎮魂すること。


 どうしても足を運びたかった公園があって(わたしが「そこに行きたい」というよりも、「行かなければ」とうながされて)、そこが最初の目的地。




 小学生以来だというのに、場所も景色もしっかりと覚えていた。


 なにも変わってない。


 子ども時代によく遊んだ友人の家がこの公園の近くにあったなと思いつつ、記憶にしたがって道を歩いてゆくと、また別の公園に行きあたって、その場所自体は覚えていたけれど、どこにあったのかはうろ覚えだったから、なんとなくで進んでいた道のむこう側に懐かしい(そしてすこし切ない)その場所を発見したときのはっとした気持ち、

 辿りついたときに自分のなかから湧きあがってきた、当時の忘れたかったこと、でもいまは感情をまじえず俯瞰的に見つめることができる想い出の断片が、記憶だけでなく、物理的に訪れることで肉体的に回収されたことを思えば、ほんとうはこちらこそが目的地だったのかもしれない。





 ここにも“獅子”が。


 そして出迎えてくれたパンジーたち。


 自分のなかに封じていたものが浮かびあがってくる。そのために赴いたこともわかっていた。ここ2年ほど、ずっとこのような“記憶の巡礼”をしようと思いつつ、できなかった。時機はいま。自分に自分がそれをゆるしたから。





 そこからすぐ近くにある神社にもお詣りをしに。


 幼いころ、この神社のすぐそばでよく遊んだこと。


 この神社のことは去年の初夏ごろにも想いだし再訪していて、そのときも思ったけれど、やさしくてやわらかい女神のエネルギーが感じられる場所で、境内にいるととても安心する。





 公園とこの神社を巡っておしまいと思っていたのに、せっかくここまできたのだから、すぐ近くにある通っていた保育園に、昔住んでいた家があるところに、と足をのばしているうちに、どうせなら卒業した小学校にと、心がうながすままにむかっていた。


 小学校をあとにすると、そのすぐそばにある神社に。階段途中の狛犬さんにご挨拶。


 こちらの神社も、わたし自身との縁が深い場所。





 最後に“森”へ。




 幼少期の鎮魂もこめて巡っていたからか、春になるとこの森に遠足にきたことを想いだした。


 ピクニックをした広場の芝生は一面のシロツメクサ。


 雨が降っていたからほとんど人の姿もなく、あの森のあるじだとひとり決めしている巨樹の下にわたしだけ。


 子どものころもおなじように、この巨樹を仰いだ。


 なにも変わっていない。でも幼いころに見あげたそれより圧倒的なおおきさは感じず、それだけわたしが“おおきく”なったのだと思った。


 子どもの足ではとても遠かった場所と場所が、いまではこんなにも近くに感じること。


 
   



 古代の記憶が眠る森と、わたしの過去の記憶が振動して、いつもとはすこし違う気持ちで樹々の合間を散策した。


 子ども時代の“かつて”をぽろぽろとあふれさせながら。


 一日中降っていた雨は鎮魂のために。


 雨は好き。雨はいつもわたしにやさしく、大切なときには雨が降り、そのことを教えてくれる。ずっと子どものころから。


 ぐるぐると巡っているうちに、歩数計は1万5000歩近くなっていたけれど、これだけ移動してもまだそのくらいの歩数なんだなと、いまは自分の足でどこにでも行けるんだなと、そんなことをあらためて思ったりした。





 なぜそれをするのかわからないけど、したいと思ったからする。この記憶の巡礼もそう。


 想像以上、自分が意識している以上に、これをしてよかったことがわかる。心がとても喜んでいることを感じるから。