2026/02/13







 数日まえに降った雪。


 銀の世界。


 先日の富士の泉の旅で幾度も眺めた富士山の頂の白、あの富士のまわりの水辺は雪解け水であふれていたこと、去年の諏訪で「雪は祝福なの」といいながら、天から降ってくる白いものに手をかざしてくるくると踊ったこと、“雪”という字が名に入った松と関わりのある、わたしの家系の縁深い女性。


 雪の降る日に生まれたのだとわたしがいうと、ヌナカワヒメもおそらくはそうだったみたい、と返ってきた言葉。


 雪は浄め。


 “道埋まるまで雪は降りつむ”と思えたとしても、


 それは祝福。








2026/02/12

富士の泉







 2月も中旬にさしかかろうとするなんて信じがたいほどで、あの富士の泉で過ごした濃密な束の間が、すごく遠く感じられます。


 それは時間が経ったから“遠く”感じられるというよりも、帰ってきてからすぐ、3日と経たないころにすでにそのように感じられました。


 「まるで竜宮城から帰ってきたような」と去年の11月のふたつの旅に対して思ったものですが、今回もそのような感想が自分のなかに深くあります。


 “竜宮城”という場所は、この現の境目と次元を超えた場所にあり、旅というものは、とくに今回のような目的、旅の仲間となるひとたち、おなじ星座のそれぞれが独立したひとつの星になりうるひとたち、繋がり集えば空におおきな絵を浮かびあがらせ、顕すことができるひとたちとする旅というのは、そのような色を濃く帯びるのだと思います。


 つまりは境目と次元を超える旅。


 ずっとずっとわたしのテーマである、イワナガヒメ、コノハナノサクヤヒメ、そしてかぐや姫。


 長い間惹かれつづけてきたことやものには意味があるのだと、ここ数年答えあわせをしているみたいで、これもそのような“答えあわせ”の旅でした。


 火と水。対となるもの。

 鏡のごとき泉に映るものは。

 人魚と龍神。

 富士山、不死山。かぐや姫はここから月に還ったのだという、天にもっとも近い山。




 写真 坂本憲司『富士山とお月様』





2026/02/07

プロフィール










 3月に小平の草舟あんとす号さんで開催する展示、『片翅の泉』にさいしてプロフィールを出すことになり、


「自分のこと」を“外”にむけて語ることに対するごく幼いころからの苦手意識から「プロフィール」「自己紹介」というものをなるべく避けられるなら避けてきたいままでだったけれど、


 けれども今回、「プロフィール」について真剣に考えてみて、「なにを書きたい?」と自分に問いかけてみた。すると。





 指先から浮かびあがる言葉を文字に記してあらわすことで、この目で見てきたことやものを再構築し、自分と世界との関係を幾度も結びなおしてきました。

 「書く」ことによって、そして「読む」ことによって密やかに解かれ、奥深くに語りかけてくる言葉には、そのような結びなおしがあると思っていますし、普遍的な原風景を宿しています。

 その原風景と、自身の言葉とのつながりを深めてゆくことを願っています。





 と出てきて、「それにしよう」と思った。


 むかし、「あなたの言葉は原風景で幻風景なの」といってくれたひとがいて、このようにプロフィールを書いたあとでそのことを想いだしていた。


 ときに言葉は放たれた角度や温度のままで相手にはつたわらず、いま思うとどこかで、その力を「怖い」と思ってきた。


 その力における影響をもちたくないと。


 それを引き受けることは、そこに責任がともなうからだ。


 すべてのひとに放ったままの角度や温度でつたわる言葉はない。でも、そこにどのようなエネルギーをこめるかは、自分だけが選択できる。


 それとおなじように、放たれたものを相手がどのような角度や温度で受けとるのかも、相手の選んだものであるのだということ。


 わたしは“原風景”にむかって言葉を紡いでいきたい。


 自分の意志でそう思えるようになった。ようやく、といってもいいのかもしれない。



 (2026.1.30記)