2026/10/09

紅葉








 窓という“額縁”をとおして、一幅の絵のように眺める。


 絵や自然をとおして“対話”が現れる空白、禅の精神と静寂の美意識。


 生きた額縁をとおして眺める景色はその瞬間ごとに移り変わってゆく。


 足立美術館では大観の『紅葉』とも再会することが叶った。あの鮮やかな朱色の余韻が残っている。











2026/10/08

ふたたび旅へ







 秋という季節のなかで、おおきくふたつにわけた旅の後編へ。


 はじまりは和洋が共存して情緒漂う町並みから。





 旅の核となる場所にむかうまえに訪れた、洗練されて趣のある町。


 白壁と柳並木の道を歩いてきたら、迷いこむようにして辿りついたお寺。


 またしても「妙見」というキイワードに遭遇して、なるほどと思いながら、そのお寺からまっすぐにつながっていた道を歩いてゆくと、案内地図があり、すぐそばに神社があったので、そこを目指すことに。


 あとで知ったところによると、そのお寺とつぎにむかった神社は、歴史的、地理的に深い繋がりをもっていて、明治の神仏分離まで神社の別当寺の役割を果たしていたとのことだった。


 そのころ「妙見宮」と呼ばれていたのだという神社の現在のご祭神は宗像三女神(そして、社殿の真裏にはスサノオの摂社)


 まさにこの旅を予兆しているようなはじまりで、その場所へも見えない力によって案内されたのだと思った。


 境内には古代祭祀場があり、そこにあった巨岩である磐境には鶴石と亀石という名がつけられていた。


 その名も、旅を終えてからいまになって知ったこと。


 不思議で必然で意味深い巡りあわせだった。














2026/10/04

熊野詣(3)










 熊野の旅の最終日、すべては夢のなかのことのようで、それが熊野本宮大社にむかうときだったか、あとにするときだったか、もう忘れてしまったのだけど、


 空に不思議な太陽を見たことを覚えている。


 そもそも、そのほとんどをやさしい雨とともに過ごしたこの旅で、太陽が顔を出すとき、その都度示唆的であったし、


 この旅にかぎらず、ここ数年のすべての旅で太陽は旅を見守ってくれる存在だった。


 最後の日、ふと空を仰ぐと、薄い雲に隠れていた太陽が、顔を出してこちらを見つめていることに気づいた。


 それが不思議な太陽で、雲間から現れてもまだ薄絹の紗を纏っているみたいな色で輝き、それは強い光ではなくうっすらと雲に包まれているので目視もできる。


 真昼の月がほんのり見えたときみたいな白なのだけど、白というよりも透けるような色の太陽。


 いまにも消えてしまいそうなのに、たしかな存在感があり、そのとき感じたそれをどのように形容したらよいのかわからない。


 とにかくなにか見入られるものを感じ、見逃したくなくて瞬きもせず眺めていると、太陽はまたすぐに雲のなかに隠れた。


 けれども遊んでいるみたいに、つぎの瞬間、ふたたび雲間から顔を出す。


 太陽はまだ、神秘的な紗に包まれている。見つめていると、再度雲のなかに姿を潜め、そしてまた現れた。


 それが3回繰り返され、そのあとはもうずっと雲のなかに身を伏せて、時間が経ってからつぎに目にした太陽は、もうあの薄絹越しに見た太陽ではなかった。


 わたしは旅の初日に見た「鏡のよう」だと感じた太陽のこと、2日目に熊野那智大社で「みっつの鏡」を拝見する機会があったのだけど、そのことを想いだした。


 わたしのまえに3回現れた不思議な太陽は、あのみっつの鏡みたいだと思ったのだ。


 それはこの旅の象徴であるようにも感じられた。


 *


 旅の途中、そして帰ってきてからも、よく『道成寺』の安珍と清姫の話を耳にした。


 和歌山にその伝説が残るお寺があり、そのことから派生する話ではあったけれど、大蛇になった清姫に逃げ惑う安珍が、結局逃げきれずに火によって散る、あの痛ましい場面よりさきのことは知らないわたしに、青梅の巫女がかれらの顛末を教えてくれた。


 「このふたりは因縁のまま輪廻するのですが、道成寺によって供養され、それぞれ熊野権現と観音菩薩の化身だったことがあきらかにされ成仏されて、もとのお姿に還られるところで話は終わるんです」


 「清姫は観音菩薩の化身だったのですか? それなら、世のなかの不浄をその身に一心に背負っていたがための因果だったということなのでしょうか」


 と、青梅の巫女にいったこと。


 それから数日過ぎたあと、熊野という土地がイザナミという女神の土地でもあることに想いを馳せ、


 安珍と清姫の伝説は、イザナギとイザナミの黄泉比良坂の神話、神々の話を人間の次元に“落として”語られた物語だったのかもしれない、とふと思った。


 男に「裏切られた」と思った女が、それをゆるせず追い詰めて、相手を滅ぼそうとするけれど、魂の光に還ったとき熊野権現と観音菩薩だった、というのは、イザナギとイザナミだった、といっているように、わたしは受けとった。


 神話にはその国に住む人々の魂が宿っていると思う。


 そこで語られる痛みや悲しみ、喪失は、人間の次元に“落として”、その国に住まう人々にも影響をあたえている。


 安珍と清姫の話は、そういうことをものがたっているのではないか、と。


 清姫がなぜ“清よらかな姫”なのかと思ったとき、「世のなかの不浄を背負った存在だったのか」という自分の言葉とともに、


 脳裏に浮かんてきたのは、旅で目にした壮大で幽玄な那智の滝だった。


 あの真っ白で清らかな滝。


 もしかしたらあの滝を大蛇に見立てたのだろうか、そしてその魂が本来の光を取り戻したとき、すべてを清めるようにほとばしる、あの滝に宿る力もまた清姫に返還されたのだろうか、などと思いながら。


 清姫が光を取り戻すのと、イザナミが愛を想いだすのは、おなじことなのではないかと。


 今回の熊野の旅は、あきらかにスサノオの招きにより開かれた旅だった。


 熊野はイザナミの土地だけれども、この女神のことをそこまで意識することなく、だからこの女神の御陵だという花の窟神社のまえを2度も通りすぎる機会があったのに、「今回は違う」と感じて参拝しなかった。


 あくまでこの旅は、3日間で熊野三山のそれぞれに赴くことが目的のようだった。


 三山のそれぞれが過去世、現世、未来世をあらわしているのだという話は後日知ったことだけれど、そのときやはり今回はこれでよかったのだという自分への確認にもなった。


 あの最後の日に3度目にした太陽は、みっつの“世”のそれぞれに光を送ってくれていたのだろうか。


 清姫が那智の滝だったのだと、そして美しいイザナミの姿でもあるのだと思うと、なぜ熊野に行くことになったのか、いまになって理解し、その理解が明確に鮮明にかたちをとりはじめた。


 そしてイザナミは、たしかにこの旅にいてくれたのだとも。


 開示し、つたえられることはほんの一部だけで、多くのエッセンスは言葉にならない。でも、深い領域において、とても重大で必要な旅だった。