2024/12/15

青い花冠のこと





 いまとなっては過去生よりも遠い記憶であり、これを綴ったいつかのわたしはその記憶のなかに甘さと切なさをふくんで“見えないティアラ”のように完全に溶けていますが、自分自身を構築するひとつのピース、大切な意味をもつものとして残しておきます。

 双子座の満月の日に。

 2020年6月5日記。


 ✣





 “蝶の庭”の女主人にわたしのための花冠をつくっていただいたのは、今年の2月のお誕生日のこと。


 そしてその花冠に捧げられた“物語”を紡ぐためには、それよりさらにまえに時をさかのぼって、はじまりの5月のことから。


 おととしの5月、マリアさまのお庭を傍らに臨む中世の聖堂のような場所で、「Jardin éterne~永遠の庭~」という美術展がありました。「絵画のなかの花は枯れることなく、永遠に咲きつづけている。だから《Jardin éternel》――永遠の庭」という意味とともにひらかれた展示は、聖堂のごときその場所をあまたの“枯れることのない花”で満たしていました。


 わたしが訪れた日、おなじように“花々”を愛でるために足を運ばれた淑女と遭遇する機会がありました。


 その女性はやってくると軽やかに聖堂の扉をあけ、踊るような足どりでマリアさまのお庭を臨む聖堂のあるじであり、silent musicという名のそのギャラリーのオーナーであり、マリアさまのお庭のマリアさまでもあるかたにむかって歩をすすめ、微笑みながらなにかを差しだしたのでした。


 それはジャスミンと鳥の羽根からつくられた花冠で、その淑女がご自分で育てられたお花でつくられたものであるということでした。


 「すてきな花冠!」とわたしがいうと、聖堂のあるじはそれを頭上にかかげその冠をやさしく両手で支えながらクラシカルなドレスの裾とともにふわりと回転してみせたのでした。


 そのうつくしい瞬間は、“花の記憶”としてわたしのなかに花びらみたいに柔らかな光の種を植えつけました。


 そしてジャスミンと羽根からできたその花冠をつくられた淑女こそ、“蝶の庭”の女主人とわたしが冒頭に綴ったかたのこと。


 “永遠の庭”でお逢いしてからすこし時間が進んで、その年の夏。そのかたとお話する機会がありました。わたしが自分の知人や友人を相手に「そのひとが書物の登場人物だったらどの本の誰であるか考える」という遊びをしていたおり、声をかけてくださったのです。わたしはそのかた――“蝶の庭”の女主人をメリングの『妖精王の月』という本のフィンダファーに喩えさせていただきました。このような言葉を添えて。


 “黒い服を纏う美しき少女は麗しい男の問いにイエスと答え、まばたきひとつで変貌する境界線をこえて選ばれた。妖精王の花嫁。ただひとつの恋が頭上にかかげた花冠の輪のさきにある夢を、つかまえたいの。王がゆかれる。王にさかえあれ。”


 ここでわたしが“花冠”というキイワードを使ったのは、もちろん春と夏のはざまの季節に彼女が手にしていたジャスミンと羽根からつくられたその冠に感じた甘美さを、忘れられなかったからです。そしてそのときの彼女がわたしにはまるで森から出現した乙女のように見えたので、この妖精王の物語に喩えたのでした。


 そんなふうにして“蝶”をご自分のシンボルとするそのかたとの交流がはじまりました。


 そうしてしばらく時が過ぎ、最初の霊感が落ち着けば人間はさまざまなことを忘れてしまうものなので、わたしも日常とともにジャスミンと羽根の花冠のことは片隅に置き、そのまますこしずつ消えてゆくように見えました。


 ところがはじまりの5月からちょうどひとつの年輪を刻むことができるほど季節が円環を描いた去年の、やはり5月(日付を確認すると5月16日とのこと)の眠りのなかである夢をみたのです。そのことは手帖にこんなふうに綴られてありました。


 “今朝、青い花で花冠をつくる夢をみた。その花は誰かが崖にのぼってとってきてくれたもので、その花冠を頭上にかかげたひとは幸せになれる、というより自身の幸せを「想いだす」らしい。だから女の子に花冠をつくろうとするのだけど、大切なのはまず最初に自分の花冠をつくることだよ、といわれた。


 「青い花」といえばノヴァーリス…と目覚めたあとすぐに思った。夢のなかで出逢った青い花の精に焦がれて旅にでた詩人の話。幻の花に無限の憧れを見て、自分自身を目覚めさせる旅に出た男。露草、勿忘草、瑠璃唐草。青い花にはたしかに、不思議な懐かしさがある。”


 それからというもの、ふたたび“花冠”という言葉のなかに宿る観念がわたしのなかに棲みつきました。


 もともと子どものころから花冠というものがとても好きで、白詰草を編んで円環をつくった想い出は幼少期のもっとも幸福な時間だったといってもいいほどに甘やかさに満ちています。花冠の輪のむこうにはこの現実のさきにある夢がひろがっている気がして、その輪をとおせばいつもと変わらない風景があわい祈りをふくんだ特別な光景に見えるような。


 生きてゆくのにかならずしも必要なわけではないけれど、「ただ生きていればいい」というだけの人生は空虚だから、誰にでも“必要”なものではないかもしれないけれど、でもそれがあることで心が潤い豊かになるもの。花もお菓子も絵も本も音楽もそのようなもので、そういったものを“花冠のむこうの世界”などと、自分のなかだけで密かに呼んだりしているのですが、花冠という観念のなかにある美と儚さと微笑みがわたしにそのように感じさせるのだと思います。


 その青い花冠の夢のことは、夏を過ぎてもずっとわたしの頭のなかにありました。そして冬がはじまるころ“蝶の庭”の女主人と話していたとき、不意にいつかの5月のジャスミンと鳥の羽根の冠のことが記憶の奥底から呼び起こされたのでした。


 ジャスミンと羽根の花冠、森、妖精王の月、蝶、夢、青い花冠…。


 わたしのなかでパズルのピースがぴたりと嵌るように、あの夢のなかで出逢った青い花冠をこのかた――“蝶の庭”の女主人につくっていただきたいという気持ちがその瞬間、抑えきれない衝動のように湧き、そして自分のなかの火がうながすままにそうお願いすると、彼女は快く引き受けてくださった、というなりゆきをとおしてこのような会話をしたことを覚えています。


 「花冠にはふたつある」と彼女はいったものです。


 「ひとつはウェディングなどでつかわれる一般的な花冠。もうひとつがもっと深い意味あいをもつ、いってみれば守護と浄化のお守りとしての役割をもつ花冠。前者はつくるのにワイヤーを用いて生花を使うけれど、限りなく人口的。けれど水枯れしない処理を施すから長い時間きれいで、そのままドライにしてもおおきく形が崩れることはない。後者は北欧の夏至祭などで編まれるもので、自然の花や茎、葉、蔓などで編むから萎れやすいし、ドライにできても形は崩れてしまうかもしれない」


 「あなたのご希望はどちらの花冠?」


 その問いかけに、「もちろん後者のほう」という返事は考える間もなく瞬時にわたしから飛び出ていました。


 かたちが崩れたらそれにも意味のあることだと思うし、自然なままにつくってほしい。花はそのままで美しいのだから、と。


 そして花冠にこのような意味をもたせてほしい、ともお願いさせていただいたのでした。


 夢にでてきたのとおなじ青い花冠であること。


 その花冠をわたしだけの“見えないティアラ”にしてほしいこと。


 女のひとは誰もが“自分だけの見えないティアラ”を頭上に載せているのだとわたしは信じているのですが、でもそれは「見えない」のでそれが自身の頭のうえにあることを信じられないときもある。「“見えないティアラ”をわたしは戴冠しているのだ」と信じることのできる女性は、自身がどのように振る舞い、どのような姿勢でいればその“ティアラ”を輝かせることができるか、ということを知り、自分のことを大切に育んでいける。


 だからわたしはその“ティアラ”の重みを、わたしだけの花冠をとおして感じてみたかったのです。その願いは叶えられ、とくべつな花冠を特別な日に、ということでお誕生日につくっていただくことになり、それが今年の2月のことでした。


 「戴冠式ね」と“蝶の庭”の女主人はいいました。


 矢車菊、勿忘草、リューココリーネ、羽衣ジャスミン。


 “青い花”ということだけお願いして、どのようなお花で編んでほしいか、ということはこちらからは申しあげず、ただ「わたしにぴったりなものを」とお願いさせていただいた花冠に託された花たち。


 どの花も“愛”のメッセージをもつ花たちなのだというのは、“蝶の庭”の女主人の言葉です。


 それはわたしの頭にぴったりおさまり、「ああ、わたしのための花冠なんだ」と感じつつ、「この重さを忘れないように」とわたしはわたしにいいながら、こんなことを考えていました。


 誕生日に戴冠することができたこの花冠は、たしかにわたしの“見えないティアラ”となり、いまもわたし自身の一部となってくれているように感じます。






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