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2025/11/25

「つくらない句会」 at 星の樹の下で






 星の樹の下で開かれた「つくらない句会」に参加してきました。


 あらかじめ選ばれた古今の名句。


 そのつくり手が誰であるかわからない状態で参加者は3句、そのとき心に沿う俳句を挙げてゆく、まさに自分では“つくらない”句会。


 俳句を詠まずとも知らずとも、誰でも楽しめるようになっている遊び。





 みんなで句の選評をしているうち、必然的に「そのひとはどのような“視点”で世界をまなざしているか」という内部の紐解きへとつながり、無意識にあるものを意識的に浮上させ、「それでは自身の“視点”の反対側の世界はどのように見える?」という構造が、“枠”の外へと案内する“ひろがり”をみせてくれた。





 安心して思ったことを交感しあえるのも、“句会”がはじまるまえに森を歩いて自然からの贈り物を手に微笑みあい、“句会”のあとには持ち寄った恵みを享受しあえる、やさしくてあたたかなひとたちとの“場”であったからこそ。





 言葉では表現できない領域で、ほんとうにとても楽しかったし、学びにもなった。









2025/11/14

11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ⑥ 氣比神宮ー気比の松原








 旅の最後の日の海。


 気比の松原。


 気比の松原、そして氣比神宮は芭蕉が句を詠んだ場所としても知られ、かれは月見のためにこの地を訪れたのだとか。


 『おくのほそ道』によると、芭蕉がこの地で詠んだ句は「月清し遊行のもてる砂の上」というもので、旧暦の8月14日、15日のこと。中秋の名月の前日に気比で見事な月を眺めたものの、その翌日の名月の日の句に「名月や北国日和定めなき」とあるように、名月と相まみえることはできなかったようです。


 わたしも“月見”はできませんでしたが、今回訪れたのはちょうど下弦の月にさしかかる時季でした。





 気比の松原の海と松を眺めていると、天橋立のそれと重なり、思えば今回も水と松の旅をしたのだなと思いながら、いつからかずっと、その巡りをしているような気もして、ゆらめく波を見て、気高い松を見ていました。


 松の樹々にわたしは翡翠の石のなかに宿る力とおなじものを感じ、それを言葉にするなら“高貴さ”というのかもしれません。





 気比の松原にむかうまえに訪れた氣比神宮。


 この大鳥居は木造朱塗で三大鳥居として数えられているのだとか。


 とても格式高く、凛々しい空気に満ちたお宮で、境内は余分なものをすべて祓い浄めてくれるエネルギーで満ちており、わたしがこの日受けとったのは、武をつかさどる男神のエネルギーでした。


 その影響で帰宅してから調整が入り、すこし体調を崩していますが、ほんとうに隅々まで祓っていただいたなと思うばかり。


 社殿とはべつに“土公”と呼ばれる、境内から天筒山の方角に位置した小丘の聖地があり、そこに神がおわしたことが氣比神宮の創建とのことですが、あきらかにこちらのほうが“本殿”でした。


 古く、社殿造営以前は“ひもろぎ”として祭祀がおこなわれていたようで、さもありなんという感じです。


 土公というのは陰陽道における神の名であるのだそうで、それも気になるところでした。


 前日に眞名井で目にした磐座が重なって、「自然のなかに神を視る」という、この国の古来より受け継がれてきた血、細胞というのでしょうか、「自然とつながる」ことが「神とつながる」ことでもあるという、そのありかたの積み重ねられてきた畏敬の念をも感じられ、思わず「手をあわせてしまう」というのは、こういう場面に使うのだなと感じたりしました。


 氣比神宮もやはり、“水”にまつわる地であり、長命水という御神水が知られています。


 わたしもいただいてきましたが、古くから存在する神聖な場所というのは、この国においてかならず、神聖な水と結びついているのだなと感じます。


 そしてそれはこの国にかぎらず、どこであってもいえることなのだろうと。








 

2025/11/05

菫の月








 草舟あんとす号さんにお頼みして、移ろう季節にならい、すこしずつ集めている春夏秋冬の歳時記。


 今回お迎えした題名は『新年』で、まだもうすこしその一歩手前の季節にいたい気持ちから、以前に受けとった『秋』の本をひらいて、やさしいかたからいただいた菫の押し花を、“月”の頁にはさんでみる。


 今夜の満月は今年もっともおおきく見える特別な月ということだけれど、その満月一歩手前の昨夜の月は、見あげて歩きながらそこに満ちる力の源泉を充分に感じることができる、美しい“待宵月”だった。


 その月のひかりを掬った菫の色。







2025/11/03

言葉を“ひらく”







 「俳句はわたしがいままで言葉を綴るときに使ってきた領域と、まったく異なる脳の領域を使っている感じがあって、それが興味深い」と、ある彼女にいうと、「日本語ネイティヴだから愉しめる領域だよね」と返ってきて、なるほどと思った。


 俳句というものに取り組んでみようと決めたきっかけはいくつかあるけれども、彼女の「独りよがりにならないために、句会というひらけた場所から始めたかった」というような言葉を聞いたとき、すごく共感し、頷けるものを感じたことも、そのひとつだった。


 そういう場で“実験”する機会を自分にあたえてあげることは、それが独りよがりなのか、それとも個性なのか、という境界線の影を、みずからにわかるようにはっきりと濃くしてゆくことでもあると、先月身に沁みて感じたことも記憶にあたらしい。


 人の目によって自分というかたちを浮き彫りにされる、そのようにして自身のかたちを知る、ということはあると思う。


 言葉を“ひらく”

 言葉を“ひらいて”いきたい


 そう感じるようになったために、“ひらけた”場所で試みてみたかった。


 「独りよがりにならない」ということは、なににおいてもとても大切なことだと、あらためて自分自身に。


 俳句、ひとまず1年は取り組んでみようと思う。


2025/11/02

ゆびさきで







 ゆびさきで時季巡りしを知る秋夜。


 いただいたカカオティーの温かさが沁みる季節。


 秋の冷やかさは好きだけど、ついこのあいだまでのずっと振り返りつづけて永遠に去ってゆかないのではないかと思われた夏の名残が心身に残っているようで、まだこの温度にからだが慣れない。