2024/12/31

アウロラの暁、アリアドネの冠










 今年の最後に、青い花冠オディールとペルセポネの花冠につづく、赤の花冠について記しておきたかった。


 この花冠をつくっていただいたのは2022年の6月の新月のことと、記録にはある。


 なぜそれを自分に迎えたいか、そう思った理由を自分以外の人間に理解してもらえるような説明は、たぶんむつかしい。


 ペルセポネの花冠を頭上に載せてから、わたしのなかでその女神への親愛が深まり(そしてある種のイニシエーションとともに彼女のエネルギーを感じられるようになり)、目に見えるかたちで彼女をより身近に感じたくてペルセポネの肖像が象られたコインをお迎えした。


 そのコインの裏側に、タロットカードの“戦車”を感じさせるものが彫られていたけれど、それがなにをあらわしているのか、そのときにはわからなかった。


 でもあるとき、それが女神アウロラを象られたものであるのだと理解した。


 そのことは以前にも記しているので割愛するとして、コインの表裏を完成させるために、ペルセポネの黒に対応するアウロラの暁の花冠を迎えたい、と感じたままに、それをかたちにすることにした。


 夜と朝。


 表と裏。


 陰陽をなす、ふたつの花冠を戴くことで溶けあい、統合されるもの。





 あれはもう2年以上まえのことなのに、わたしのなかでこの花冠の物語はまだ終わっていないように感じていたのだけど、今年の最後の日になって突然、この赤の花冠はアウロラの暁でありながら、アリアドネの冠でもあったということに気づいた。


 オディールの花冠のなかにペルセポネがいたように、アウロラの花冠のなかにアリアドネがいたこと、気づくのにここまで時間がかかっていたのは、わたしにまだその準備ができていなかったから。





 なぜだかわからないけれどアウロラの花冠のことを想うとき、薔薇の花をみっつときたので(それから“薔薇星雲”の薔薇と赤、アンドロメダ、ルビーとブルームーンストーンというようなキイワードをあげていたみたい。ほかにもいろいろ意味があったのだと思うけれど、自分の手もとに記録されていないことは忘れてしまった。そして、それでいい)、それを考慮して編んでいただくようにお願いした。


 “みっつの薔薇”は数年を経て、いま現在のわたし自身のここ最近つづいているキイワードのひとつで、今月、自分の“ポータル”に桜色の薔薇と白鳥色の薔薇をそれぞれみっつずつ捧げたのだけど、それがこの花冠からつづいていた流れであったことには気づかなかった。


 アウロラの暁と、アリアドネの愛の色をした薔薇。





 いつにも増して自分にしかわからないような文章かもしれなくて、でも、今年の最後の日にこれを綴るのは大切で重要なことだった。


 教えてくれてありがとう。受けとれて嬉しかった。


 この冬はそういうことの連続だから、このまま流れに身をまかせてみる。





本年もありがとうございました







 本年も大変お世話になりました。


 ご縁をいただいたかたがた、いつも見守ってくださるかたがたに心より感謝しています。


 目に見えるもの、目には視えないもの、いろいろなものに護られていることをあらためて感じる年でした。


 たくさんのものを与えられていること、その与えられたもの、わたしが受けとったものを、自分と縁を結んでくださったかたがたにシェアして拡大してゆくこと。


 それをこれからも大切にしたいと強く思います。


 来る年が喜びに満ちていますように、そしてその喜びをあなたもわたしも両腕をひろげて自身を抱きしめるようにして受けとれますように。


 ありがとうございました。


 よき年をお迎えください。





 氏神さまへの年末詣で出逢った南天の子。


 南天は音にすると「難転」とも読め、「難が転じる」「そして福となす」という祝いの植物です。


 大難を小難に、小難を無難に、そして「福となす」よう、すべてのひとが平和であるように、新年への祈りとともに。





2024/12/30

瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリングのご報告







 12月にLuna Somniumのセッションをお受けくださったかたへの瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 今回のこのエネルギーヒーリングの作用として、もっともつたえられているものとして「古いパターンを手放す」「自分自身のなかで使い古されたものを手放す」ときていて、それはみずからの“真実”とつながり、洞察の力を取り戻すことと連動しています。


 わたしたちのなかに「終わらせなければいけない」ものがあるとき、人生はそれを“想いだす”――理解をうながすための環境や出来事、他者、状況をつくりだし、“繰り返し”のサイクルを壊し、問題を克服するための機会を提供してきます。


 自分の人生に責任をもつこと、“外”に明け渡していた主導権を自身のなかに取り戻すことと、わたしたちが自分自身の“真実”とつながることは連動し、「古くなっているものを手放す」とは、人生のなかに自身を閉じこめているあらゆるものを“取りのぞいて”ゆく、ということですが、それは人生に反映されている自分自身の内面にあるものを“片づけて”ゆくということと同義語です。


 自身のなかが整理され、クリアになっているとき(つまりそこには“不要”なものはないということですから)、わたしたちは自分の“真実”とつながることができる、ということです。


 “直感”と呼ばれるものも、わたしたちが自身の“真実”とつながる力と連動していて、不要なものを削ぎ落してゆき自分の“真実”とつながるパイプが太く丈夫になってゆくごとに、“直感”――こうするといいような気がする、これはやめておくといいような感じがする、という言語化できないものを受けとめ、そしてその受けとったものを思考に妨げられず行動できる力も拡大してゆきますが、それは自分自身と“つながっている”ということです。


 そしてそれは主導権は自分にある、ということを知っているありかたであるといい換えることもでき、そのとき、人にどのように思われようと、どのように言われようと「気にしない」というありかたであることができます。


 そのためには整理されていないもの、罪悪感、混乱、非難などをクリアにしてゆく必要もあるでしょう。


 もっとも大切なことは、自分を赦す――してしまったことやしなかったことについて思い悩むことがあるならば、その自分を赦すということです。


 自身ではもう忘れてしまっていると思っている過去であっても、そこに残っているエネルギーが潜在意識に蓄積されている、ということもあるかもしれません。


 今回はこのように、今年最後の“大掃除”にふさわしいような内容としてつたえられていて、わたし自身もこれを書きながら、自分自身のなかに振り返るものも感じます。



 12月の瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリングはこれらの領域のすべてにアプローチし、作用をおよぼしました。



 お受けとりくださり、ありがとうございました。


 どうぞよい大晦日と新月を、そして新年をお迎えください。


 あなたがいつもあなたでありますように。





 

2024/12/27

沫雪の耳飾り








 失くしたと思っていた沫雪の耳飾りが思いがけずに返ってきた。


 とても意味のあること。


 発見してくれたかたが、「もう耳飾りが姿を消さないように」とちいさなガラスドームのなかに入れて保管しておいてくださり、星の王子さまや美女と野獣の野獣が薔薇を納めていたそれを連想した。


 そしてそのお部屋のアンティークのキャビネットの硝子扉のむこうには『The Little Prince』の古書が飾られていて、こんなふうにまたひとつ、“物語”の扉のさきの風景が日常のなかにあらわれる。





2024/12/26

注連縄





 双子の星さんで開催された、武井直美さんの注連縄つくりのWSへ。


 おひさまのようなかたが慈しんでお育てになられた稲で稲藁を編み、そのときの自分自身と親和する植物たちを飾ってゆく。


 光を浴びて育まれたそれを隙間なく編んで祝うことで聖域をつくり、みずからが纏う空気もきめ細やかにされて、それよりさきに“侵入”されない結界を自分自身のなかから呼び起こす、ということ。


 やさしいひとたちと温かくて美味しい食事を囲んでいたとき、「聖なる儀式のあとには美しいものを食み、好きなひとたちと話し、笑いながら過ごすこと。それをふくめて“祝福”となり、それはさらにおおきくなるのだから」と、いつか誰かがいっていたことを想いだした。


 あたらしい年をまえにした準備。


 神聖な日。










2024/12/22

研ぎ澄ますためには





 *



 去年のあのとき、ほんとうにとても苦しくて、その苦しみを詳細に語ることはできないし、また聞いて楽しい話でもないでしょうから省略するけど、こんなに苦しかったのはいつ以来だろうというくらいに、長期間、物理的にも精神的にも苦しかった。


 そして、自分のなかにこんなにもまだクリアリングしなければいけないものがあるのだということを、現実をとおして教えてくれているのだと感じた。


 だから今年は年のはじまりから覚悟を決めて、一年をとおして寝ても覚めても自分のなかを削ぎ落してゆく、研ぎ澄ましてゆく、ということをやっていた。


 自分のなかにあった重いエネルギーが出てゆくたびに、まだこんなにも…と愕然とするほどだった。


 でも起きた事象そのものに対しては、ほんとうはなにも思っていないの。


 現実に起きた出来事を話していると自分のなかの“反応”が引き出されて、自分の“外”にむけて思っていることがあるように見えても、本心ではそうではなくて、ただ、あらゆるネガティヴな出来事というか、自分にとって“苦しみ”をもたらす事象は、それをとおして自分のなかを見つめるため、そしてクリアリングするために生じているのだということを、すでに知っている。


 その事象に他者としての対象があらわれるとき、相手はそのための“役割”を演じてくれているだけだと。


 相手がそれを意識してそうしているわけではないけど、わたしのなかにあるものが、それを引き出していた、ということを。


 去年の一連の流れも言葉にできないほど苦しかったけど、だからこそそれをとおして自分を徹底的に大掃除しなくてはいけないと決め、そのために今年は体感としては一年が一瞬だったと思うほどにあっという間に過ぎていって、おかげさまでこれまで生きてきたなかでいまがいちばん元気だと感じるくらい(ほんとうに年々元気になってゆく。不要なエネルギー、重たいエネルギーを削ぎ落すたびにそうなるのだということを、もう身をもって知っている。そして、それなら過去のわたしはどれだけ自分のなかに重たいエネルギーを握りしめ、抱き込んでいたのかもいまだからこそわかり、労わりたいような気持ちになる。)でありがたいことだと思ってる。


 ネガティヴな事柄も、「それがなぜ起きたのか」ということがわかれば、そういう視点をもてれば、のちのちになってありがたいことに変わる、というのはこれまでにも何度も経験してきたことで。


 さまざまな出来事や他者のネガティヴな側面が立ちあがるとき、それは自身のなかにある傷が招いている、引きあわせている、ということはたしかにある。


 個人的には今年は自分のなかにあるものを深く深く炙りだすことを意図して、エネルギーを徹底的にデトックスして、それが自分のためにとてもよかったという意味でいい年だった。


 来年もまた“外”側で起きる現象というか、世界的にというか、おのおのにおおきな変容をもとめてくる年になるのでしょうから、あるひとたちにとっては試練の年だったり浄化の年だったりするのだろうし、そしてそれに真に気づかないかぎりそれはつづくのでしょうから、だから主題は愛になるんでしょうね。


 愛。――言葉にすると嘘っぽく空虚に感じるひともいるようだけど、それはつまり自分とつながるということよね。


 “愛”って自分といかにつながれるか、親密になれるかということなのだと思うの。



 *



 誰かに宛てた手紙の断片から、固有名詞やこの手紙を宛てた対象のことは省略し、加筆修正を加えて。







2024/12/21

夢見つつ深く植えよ





 冬至。


 夏至に摘んだ7種類の植物、太陽の力がもっとも高まる日から太陽が復活する日までの期間を護ってくれたハーブたちを土に還した。


 眠りに就く植物たちを見つめ、土に触れていたとき、「夢見つつ深く植えよ」という言葉が浮かんだ。


 昔読んだメイ・サートンの書物の題名。


 今日はわたし自身が“太陽”を感じる石と首飾りを身につけていた。


 いつか、暁の女神であるアウロラを薔薇の花冠であらわしてほしいとつくっていただいたことがある。


 あの赤い花環は、いま思うと太陽そのものだった。


 土に還った暁の花冠が今日、またふたたび戻ってきたような、そんな今年の冬至。


 どこにも書いたことがなかったけれど、あの花冠のこともいつかの記録としてなるべく残しておこうと思う。





『西川勝人 静寂の響き』 at DIC川村記念美術館








 『西川勝人 静寂の響き』展

 DIC川村記念美術館へ。


 白で統一された部屋に静謐に配置される作品を辿ると、“中心”にむかって巡るクノッソスの迷宮に入り込む構造がなされていて、空間そのものもひとつの作品だった。

 そしてこの展示においては空間だけでなく、時間も射しこむ光も作品の一部なのだと。

 ラビリンスであればミノタウロスがいるのであろう場所に敷きつめられていた無数の花びら。

 薔薇、百合、菊、デンファレ、トルコ桔梗、胡蝶蘭、カーネーション。

 7種類の白い花。

 会期の最初のころは純白だった色が、朽ちて黄金の色に。時を重ねることで輝く、花びらの色。


 たくさんの美しい貝殻からできた翼。空を飛ぶためのものであるそれが、海から生まれたものからつくられていること。

 クリスタルガラスのフィザリス(鬼灯)に窓辺からの光が反射し、眩しくて目を細めたときの気持ち。


 自分でも説明がつかないままに、涙がこぼれそうだった。

 尊いものをまえにしたときにあらわれる余白を自分のなかに迎え入れるような。


 展示のメインヴィジュアルである「根」という作品を目にしたときから、うかがわなければと無性に自身のなかから急き立てられるものを感じていたけれど、叶ってほんとうによかった。


 正確に記憶できていないけれど、西川勝人をあらわす言葉として光(それと対をなす影、闇)、自然、教会、ラビリンスがある、みたいな説明を最後に読んで、その文章が作品(展示作品のほか、空間、時間、自然光と陰影、水、そしておそらくは香りも)として具現されていることが深く感じられて、とても素晴らしかったです。





 “静寂の響き”からのおみやげ。

 西川勝人の世界観からイメージして植物やクリスタルガラスみたいな氷砂糖でつくられたキャンディス。

 透明な白と黄金色のものとふたつ種類があり、“迷宮”の中心に敷きつめられた白い花、時の経過とともに金色に変化していたあの花びらたちが、わたしのなかで連想されて。

 ガラス壜のなかの森。




 白い幻影のように水面を渡っていた白鳥さんに、もう一羽近づいてゆくことに気づいたとき空気が薄く柔らかな薔薇色を帯びはじめて、それは束の間のことだったけれど、花びらのお裾分けをいただくような気持ちで二羽ならんで泳いでゆく白い後姿を見守った。


 水の匂い、気配。水のそばにいると神経がいつもより鋭敏になり、研ぎ澄まされるのを感じる。“静寂の響き”も水の匂いと気配が水底から漂っている展示だった。




 いつかの“ラビリンス”の記憶。

「入口と出口はおなじ場所にある」という言葉が、ずっと心のなかに残っている。





2024/12/18

logos





 *


 わたしは自分のなかの傷を意識的に結晶化させて美しく見せるためのマジックで、近づいてよく見れば醜悪なものを、きれいな物語に化かす、という手法をもちいていたから。

 いまはその当時のような言葉は綴れないだろうし、綴れたとしても、いまはそうしたいとは思わない。

 わたしは言葉に真摯でありたいの。

 いつかのわたしは言葉に対して不誠実だった。

 そしてその不誠実さゆえに美しく見えるものも、たしかにあるのよ。言葉にかぎらず。

 でもそれは贋物の美だわ。

 本物も贋物もないことをわかっているうえで、あえて「贋物」といったけれども。


 *






2024/12/16

オディールの羽根をペルセポネに捧げる





 青い花冠、後刻。

 これも古い記憶の一部だけれど、確実に“いま”につながっているもの。そして青い花冠とこのオディールとペルセポネの花冠のことは、わたしのなかで連なる物語でもあるから。

 『葡萄酒色の花冠の、菫と柘榴』という題で2021年4月7日に綴った文章の再掲として。


 ✣


 春分の翌日に“オディールの花冠”をつくってもらうことを、植物たちに魔法の呪文を唱えて愛の円環をつくられる、わたしが“蝶の庭のあるじ”と呼ぶかたにかねてからお願いしていました。


 なぜ“オディール”なのかといえば、そのまえに2月の誕生日の贈り物として“オデットの花冠”をつくっていただく機会があり、白鳥の純白の翼を思わせるその祝福の花冠がかたちになるまえ、まだ想像のなかだけに存在する夢であったころから、その花冠に対応する“黒”があってほしいとわたしが感じたためです。


 オデットとオディールの“オディール”。



      ✣白鳥乙女より贈られたオデットの花冠✣



 けれどもひとつだけ、気がかりなことがありました。


 蝶の庭のあるじには去年の誕生日にもお願いして花冠をつくっていただいたのですが、そのときわたしがお頼みしたのは“青い花冠”でした。


 そしてそれからひとつの年輪が刻まれるとき、もしふたたび花冠をつくっていただくことがあるのなら、その色は赤、あるいは紫をしているのではないかと薄い靄のごとき予感をどこかで持っていたがために。


 「青に赤がまざってむらさきになる」——去年の“青”に、またあらたな色を溶かして、さらに異なる色へと昇華すること。青が懐かしい郷愁を感じさせる色なら、赤は燃える情熱の色で、どちらかだけではなく、そのどちらの花も心にもっていることが、愛を知っているということなのではないか、というようなことをいつか考えたことがあって、あの青い花冠に捧げるひとつの願い、ひとつの祈りのための“赤”、ふたつの花輪からなる“むらさき”を迎えたいような気持ちもあり、それが気がかりだったのです。


 でも、それよりもまず、いまは“黒”なのかもしれないと結局わたしが思いなおしたのは、去年の秋から冬にかけて“黒鳥”というキイワードを深く受けとる機会があり、白鳥を思わせる“オデットの花冠”がわたしのもとにやってきてくれるなら、黒鳥のオディールも存在しなければならず、それによって黒と白、陰と陽の円環を自分自身にあらわしてみたい。そのために黒い“オディールの花冠”がわたしには必要であるかもしれないと。



 さて、ここまでは本筋のための長い前置きです。


 わたしはそのように考え、オディールの花冠をと蝶の庭のあるじにお願いしたものの、なにか“見えない意志”みたいなものが動いて、予定は「予定どおり」にいかなかった。


 春分の日に蝶の庭のあるじが連絡をくれ、彼女がいうには「“オディールの花冠”のために取り寄せた花たちの色が、自分の思っていた色とは違う」とのことでした。自然界に“黒”のお花はなかなかなく、そのなかでも“黒”と思われる花を用意したのだけども、実際に確認したら黒というよりも紅のかかった紫、黒でありながら紅、みたいなお花たちだったの、というような彼女の説明を受けとりながら、わたしの頭のなかにひらめくものがありました。


 黒でありながら赤、という言葉が浮かんできたのです。


 ご想像と違うかもしれない、と蝶の庭のあるじはいったけれども、わたしは失望どころかむしろ、気がかりがひとつ晴れた気持ちとともに彼女にむかっていいました。


 「純粋な黒ではなく、赤味がかかった黒いお花。その“黒”はオデットの白に対応するオディールで、“赤”は去年の青い花冠に対応してくれているのよ。黒くて赤いお花。きっと、ひとつでふたつのお役目を果たしてくれる花冠なの」


 「青い花と赤い花の中間にあるむらさきは愛の色。その青のための赤。オデットのためのオディール。ふたつに呼応してくれてるの。わたし、その黒で赤のお花で編まれた花冠にきていただきたい」


 そんなふうにしてこの花冠はやってきてくれ、それは嵐の日でした。





 たくさんの雨とおおきな風のにおいを授けられて、わたしのもとにやってきてくれた花冠をひと目見るなり、「素敵! オディールの花冠で、ペルセポネの花冠みたい」と考えるよりもさきに、わたしの心が感じたことを口に出していました。


 「そうなの」と蝶の庭のあるじがいいます。「編んでいるうちにどんどんペルセポネに、オディールのなかの女神が顔をだしたような花冠になっていたの。あなたもそう感じたのね。リクエストと違うことは承知しながら、手が指が勝手に動いてそのように“つくらされた”。心に添わなかったらごめんなさい。こういったことははじめてだから、それにもなにか意味があるのだろうと感じ、あなたにお届けしたほうがいいのだろうと思ったの」





 わたしがなぜとっさに“ペルセポネ”と思ったのか、その女神の名が自分のなかから浮かんできたのかわからないけれど、わたしはこの花冠を心から好きだと思い、自分のためのものであることがわかりました。


 そして“ペルセポネ”という名から一冊の書物のことを連想し、花冠を傍らにそれを本棚から引っ張り出して眺めていました。それはその時、その瞬間、花冠を手にしたわたしにあたえられたひとつのOracleにも感じたものです。





 “ペルセポネ”という女神に、なぜか昔から親しみみたいなものを感じてきたけれど、自分のなかにあの春の乙女でありながら冥界の王妃でもある女神の要素を感じたことはなかった。でもその花冠がどこをとってもわたしのためのものであることがわかり、ひと目見るなりその女神の名を思い出して、その名をもつひとにわたしが思っている以上に自分が呼応していることを感じました。


 たとえば去年の夏だったと思うけれど、ちいさなルビーが3粒刻まれたアンティークの指輪が頭から離れず、お迎えしたことがありました。そして理由もわからないままに、その指輪がなにかの“お守り”になることを「感覚」としかいいようのないわたしの直感みたいなものが感じとり、いつも左手のひとさし指に嵌めていました。ただ「そうしたほうがいい」と感覚で思い、そういったことはこのことにかぎらずわたしにはよくあることだから、理由はわからないけれども、そうしていた。そのとき説明はできなくても、“意味”はあとから遅れてやってくることを、経験で知っているから。





 “ペルセポネ”の名に想いを馳せながら、いつもわたしの指におさめられていたその指輪に気づいたとき、「まるで3粒の柘榴のようだ」と、考えるよりもさきにわたしの心がいいました。


 ペルセポネは柘榴を食べたがために冥王ハデスの妃になった。


 「それはつまり“自由を奪われた”ということ」と、そんな言葉がわたしの心のなかでつづきました。


 ハデスによって地上から冥界に攫われたペルセポネは、地下の国の食べ物——柘榴を4粒口にしたがために、完全に地上に戻ることができなかった。


 ハデスは冥界の王でありながら、繊細でシャイでやさしいひとだとわたしは感じます。でも繊細でシャイでやさしいひとだからこそ、誰かに強く自分の心の磁力が惹かれたとき、強引に攫ったり食べ物で否をいわせないかたちで、つまりは支配とともに相手にそばにいてもらおうとした。かれのなかには生身の自分では愛されることはないと諦めが最初からあって、そのようなかたちではない方法で自身の心をあらわす術がわからなかったのかもしれない。


 ペルセポネのことをいうなら、彼女もハデスを想っていたような気が、わたしにはするのです。でも柘榴を食べたから逃れられなくなったというのは、その関係は“支配”からはじまっている。最初にゆがみから入った関係が愛へと結実するためにはどのような段階が必要なのだろうかと考えるとき、相手を想っても、相手は支配で自分を手もとに置いたことは、その“結実”のための傷となるのではないかと感じる。自由を奪われることでそばにいることは愛とは異なるなにかで、それは悲しみをふくんでいます。


 柘榴はペルセポネの血の色のよう。血は“生”のあかし。“死”の国の妃となった彼女が、そのために流した血。


 彼女が口にした柘榴の“4粒”。


 わたしが勝手に自分の“お守り”にしている指輪に刻まれた“柘榴”はみっつ。花冠を傍らにペルセポネからのOracleのごとき本を眺めながら、自分の手に嵌められた指輪を見たとき、そこにペルセポネが4粒の柘榴を口にするまえに「時をとめる」ためのまじないが施されているように、なぜだかわたしには感じられました。彼女が“自由”そのものであったころの時間で。その時間軸のなかで彼女が自分の“自由”な意志でハデスの花嫁となることを決めたとき、はじめて愛のための結実への道がひらかれる。


 これはわたしのいつもの想像の話、わたしが紡ぐ夢のお話。


 なにかの“歪み”をただすためのみっつの柘榴。意味の通じないことをいっているかもしれないけれど、わたしはわたしの感じたことをそのままここに綴っておきます。どうせいつも、想像と夢のさきに意味はあとからついてくるのだから。


 それを肯定してくれるように、花冠が届けられてはじめて頭上に載せるとき、持ちあげたそれから菫の花がみっつ微笑むみたいにこぼれたことだけわたしの記憶にとどめておけば、充分なのかもしれないとも思います。





 白と黒の陰陽をつくろうとして、青の記憶に溶けあうための柘榴のあかと葡萄酒色のむらさきを呼び出した花冠。オディールとペルセポネ。すべてが神秘的で、黄泉の妖しさと成熟した美しさを放っていました。


 まるで物語のように。





 これを綴った数年まえには思いも寄らないほど、“ペルセポネ”という名から出発したひとつの旅は、わたしのなかを深く浄め、癒し、そしてわたしを導いてくれた。


 先日展示で柘榴の絵を目にしたとき、そこから飛びたつ白い蝶を見たとき、その“旅”のひとつの重要なポイントに辿りついたような気がした。旅はまだつづくだろうけれど、「ここまできたのだ」と自分自身に確認するようなこと。


 それをわたしに教えてくれたこと、それを受けとり、受けとったものを信じて“柘榴”に逢いにいったわたし自身にも感謝を。


 先月からそういう流れのなかに入ったことを感じていて、「ああ、これでいいのだな」と思わせてくれた言語化できないさまざまを、大切に胸にしまいながら。


 不思議なことに、ルビーの指輪は展示におうかがいする直前から行方不明中です。


 そして自分にとって大事なアイテムが大事な節目に姿を隠したり壊れたり(割れたり)、といったことはわたしにはほんとうによくあって、そんなふうにしてなにかを教えてくれているようだ、ということ、それにも意味のあることなのだと、これを綴りながら感じつつ。





2024/12/15

青い花冠のこと





 いまとなっては過去生よりも遠い記憶であり、これを綴ったいつかのわたしはその記憶のなかに甘さと切なさをふくんで“見えないティアラ”のように完全に溶けていますが、自分自身を構築するひとつのピース、大切な意味をもつものとして残しておきます。

 双子座の満月の日に。

 2020年6月5日記。


 ✣





 “蝶の庭”の女主人にわたしのための花冠をつくっていただいたのは、今年の2月のお誕生日のこと。


 そしてその花冠に捧げられた“物語”を紡ぐためには、それよりさらにまえに時をさかのぼって、はじまりの5月のことから。


 おととしの5月、マリアさまのお庭を傍らに臨む中世の聖堂のような場所で、「Jardin éterne~永遠の庭~」という美術展がありました。「絵画のなかの花は枯れることなく、永遠に咲きつづけている。だから《Jardin éternel》――永遠の庭」という意味とともにひらかれた展示は、聖堂のごときその場所をあまたの“枯れることのない花”で満たしていました。


 わたしが訪れた日、おなじように“花々”を愛でるために足を運ばれた淑女と遭遇する機会がありました。


 その女性はやってくると軽やかに聖堂の扉をあけ、踊るような足どりでマリアさまのお庭を臨む聖堂のあるじであり、silent musicという名のそのギャラリーのオーナーであり、マリアさまのお庭のマリアさまでもあるかたにむかって歩をすすめ、微笑みながらなにかを差しだしたのでした。


 それはジャスミンと鳥の羽根からつくられた花冠で、その淑女がご自分で育てられたお花でつくられたものであるということでした。


 「すてきな花冠!」とわたしがいうと、聖堂のあるじはそれを頭上にかかげその冠をやさしく両手で支えながらクラシカルなドレスの裾とともにふわりと回転してみせたのでした。


 そのうつくしい瞬間は、“花の記憶”としてわたしのなかに花びらみたいに柔らかな光の種を植えつけました。


 そしてジャスミンと羽根からできたその花冠をつくられた淑女こそ、“蝶の庭”の女主人とわたしが冒頭に綴ったかたのこと。


 “永遠の庭”でお逢いしてからすこし時間が進んで、その年の夏。そのかたとお話する機会がありました。わたしが自分の知人や友人を相手に「そのひとが書物の登場人物だったらどの本の誰であるか考える」という遊びをしていたおり、声をかけてくださったのです。わたしはそのかた――“蝶の庭”の女主人をメリングの『妖精王の月』という本のフィンダファーに喩えさせていただきました。このような言葉を添えて。


 “黒い服を纏う美しき少女は麗しい男の問いにイエスと答え、まばたきひとつで変貌する境界線をこえて選ばれた。妖精王の花嫁。ただひとつの恋が頭上にかかげた花冠の輪のさきにある夢を、つかまえたいの。王がゆかれる。王にさかえあれ。”


 ここでわたしが“花冠”というキイワードを使ったのは、もちろん春と夏のはざまの季節に彼女が手にしていたジャスミンと羽根からつくられたその冠に感じた甘美さを、忘れられなかったからです。そしてそのときの彼女がわたしにはまるで森から出現した乙女のように見えたので、この妖精王の物語に喩えたのでした。


 そんなふうにして“蝶”をご自分のシンボルとするそのかたとの交流がはじまりました。


 そうしてしばらく時が過ぎ、最初の霊感が落ち着けば人間はさまざまなことを忘れてしまうものなので、わたしも日常とともにジャスミンと羽根の花冠のことは片隅に置き、そのまますこしずつ消えてゆくように見えました。


 ところがはじまりの5月からちょうどひとつの年輪を刻むことができるほど季節が円環を描いた去年の、やはり5月(日付を確認すると5月16日とのこと)の眠りのなかである夢をみたのです。そのことは手帖にこんなふうに綴られてありました。


 “今朝、青い花で花冠をつくる夢をみた。その花は誰かが崖にのぼってとってきてくれたもので、その花冠を頭上にかかげたひとは幸せになれる、というより自身の幸せを「想いだす」らしい。だから女の子に花冠をつくろうとするのだけど、大切なのはまず最初に自分の花冠をつくることだよ、といわれた。


 「青い花」といえばノヴァーリス…と目覚めたあとすぐに思った。夢のなかで出逢った青い花の精に焦がれて旅にでた詩人の話。幻の花に無限の憧れを見て、自分自身を目覚めさせる旅に出た男。露草、勿忘草、瑠璃唐草。青い花にはたしかに、不思議な懐かしさがある。”


 それからというもの、ふたたび“花冠”という言葉のなかに宿る観念がわたしのなかに棲みつきました。


 もともと子どものころから花冠というものがとても好きで、白詰草を編んで円環をつくった想い出は幼少期のもっとも幸福な時間だったといってもいいほどに甘やかさに満ちています。花冠の輪のむこうにはこの現実のさきにある夢がひろがっている気がして、その輪をとおせばいつもと変わらない風景があわい祈りをふくんだ特別な光景に見えるような。


 生きてゆくのにかならずしも必要なわけではないけれど、「ただ生きていればいい」というだけの人生は空虚だから、誰にでも“必要”なものではないかもしれないけれど、でもそれがあることで心が潤い豊かになるもの。花もお菓子も絵も本も音楽もそのようなもので、そういったものを“花冠のむこうの世界”などと、自分のなかだけで密かに呼んだりしているのですが、花冠という観念のなかにある美と儚さと微笑みがわたしにそのように感じさせるのだと思います。


 その青い花冠の夢のことは、夏を過ぎてもずっとわたしの頭のなかにありました。そして冬がはじまるころ“蝶の庭”の女主人と話していたとき、不意にいつかの5月のジャスミンと鳥の羽根の冠のことが記憶の奥底から呼び起こされたのでした。


 ジャスミンと羽根の花冠、森、妖精王の月、蝶、夢、青い花冠…。


 わたしのなかでパズルのピースがぴたりと嵌るように、あの夢のなかで出逢った青い花冠をこのかた――“蝶の庭”の女主人につくっていただきたいという気持ちがその瞬間、抑えきれない衝動のように湧き、そして自分のなかの火がうながすままにそうお願いすると、彼女は快く引き受けてくださった、というなりゆきをとおしてこのような会話をしたことを覚えています。


 「花冠にはふたつある」と彼女はいったものです。


 「ひとつはウェディングなどでつかわれる一般的な花冠。もうひとつがもっと深い意味あいをもつ、いってみれば守護と浄化のお守りとしての役割をもつ花冠。前者はつくるのにワイヤーを用いて生花を使うけれど、限りなく人口的。けれど水枯れしない処理を施すから長い時間きれいで、そのままドライにしてもおおきく形が崩れることはない。後者は北欧の夏至祭などで編まれるもので、自然の花や茎、葉、蔓などで編むから萎れやすいし、ドライにできても形は崩れてしまうかもしれない」


 「あなたのご希望はどちらの花冠?」


 その問いかけに、「もちろん後者のほう」という返事は考える間もなく瞬時にわたしから飛び出ていました。


 かたちが崩れたらそれにも意味のあることだと思うし、自然なままにつくってほしい。花はそのままで美しいのだから、と。


 そして花冠にこのような意味をもたせてほしい、ともお願いさせていただいたのでした。


 夢にでてきたのとおなじ青い花冠であること。


 その花冠をわたしだけの“見えないティアラ”にしてほしいこと。


 女のひとは誰もが“自分だけの見えないティアラ”を頭上に載せているのだとわたしは信じているのですが、でもそれは「見えない」のでそれが自身の頭のうえにあることを信じられないときもある。「“見えないティアラ”をわたしは戴冠しているのだ」と信じることのできる女性は、自身がどのように振る舞い、どのような姿勢でいればその“ティアラ”を輝かせることができるか、ということを知り、自分のことを大切に育んでいける。


 だからわたしはその“ティアラ”の重みを、わたしだけの花冠をとおして感じてみたかったのです。その願いは叶えられ、とくべつな花冠を特別な日に、ということでお誕生日につくっていただくことになり、それが今年の2月のことでした。


 「戴冠式ね」と“蝶の庭”の女主人はいいました。


 矢車菊、勿忘草、リューココリーネ、羽衣ジャスミン。


 “青い花”ということだけお願いして、どのようなお花で編んでほしいか、ということはこちらからは申しあげず、ただ「わたしにぴったりなものを」とお願いさせていただいた花冠に託された花たち。


 どの花も“愛”のメッセージをもつ花たちなのだというのは、“蝶の庭”の女主人の言葉です。


 それはわたしの頭にぴったりおさまり、「ああ、わたしのための花冠なんだ」と感じつつ、「この重さを忘れないように」とわたしはわたしにいいながら、こんなことを考えていました。


 誕生日に戴冠することができたこの花冠は、たしかにわたしの“見えないティアラ”となり、いまもわたし自身の一部となってくれているように感じます。






 ✣





2024/12/14

幸福の王子







 『幸福の王子』の鳥みたい、とひと目見た瞬間に思った。

 かわいい燕。鏡のうえにいてもらっている。





2024/12/13

透明な筒





 *


 “待つ”ということの祈り。


 自分のなかにそれが訪れるのを待つ。それがやってきたときに迎えられるように、自身のなかを空白にする。空けておく。


 “待つ”ことは焦りではない。焦りがあると、そこから遠ざかる。ただ、空けておく。


 もう数年まえのことだけど、ある詩人のかたの朗読会に参加したとき、彼女の声、言葉が彼女の自我をこえたところから発せられていると感じたことがあって、それを「透明な筒みたいだ」といったことがあるの。「透明な筒をとおして、あなたの声が発せられているように感じた」と。


 彼女が詩を書くとき、詩を読むとき、彼女は“透明な筒”になっているのだろうと。


 つまり、自分であって自分でない、自分でないところの源泉とつながっておろす、ということ。そのようにして地上に姿をあらわす。


 彼女はわたしがいいたいことを瞬時に察してくれて、「すごく嬉しい」と笑ってくれた。


 そしてそのようにとっさに口にしたわたし自身も、“言葉”というものをかたちとしてあらわすとき、そしてenergyとつながっておろすとき、それを(透明な筒になることを)意識し大切にしている自分を自分自身に再確認したことだった。


 それは“言葉”やenergyという領域にかぎったことではなく、「“それ”と“つながる”」ために自分を研ぎ澄まし、“透明な筒”になることを、作り手であるならばしているのだと思うし、それは人生だっておなじこと。わたしたちは誰しも、自分自身の人生の作り手。誰だってクリエイティヴな力を人生において使っている。


 でもそのことを誰もが意識しているわけじゃない。だからそれをどのように使っているか、はそれぞれに異なる。


 意識しているほうがより、自分と“つながる”ことを阻んでいるものを削ぎ落す、研ぎ澄ます、ということを自覚的にしてゆくとは思うけれども。


 自分のなかを“空ける”、自分のなかに空白をもつ。そしてどれだけ“待つ”ということの神聖さを自身のなかに招くことができるか。それには“焦り”を溶かす必要がある。焦りを溶かすには自分自身との対話がもとめられる。どこまでも彫りさげてゆくことを。


 そうして溶かしていったものが空白になる。その空白と、“透明な筒”をとおしてなにとつなげるか、といえば、それは源泉ともいえるし、真我ともいえるのかもしれない。


 *






An Ancient Pottery Bowl Filled With Fresh Violets.







 先日お迎えした白い星のすみれと、いつかの冬至の季節に草舟あんとす号さんでひらかれたtegamiyaさんの個展『闇と光のユール』できていただいたネクタルと名づけられた葡萄酒の杯をならべると、わたしの太陽のサビアンシンボルみたいになるなと感じて、なんとなくそのように飾っている。


 An Ancient Pottery Bowl Filled With Fresh Violets.――菫で満たされた古代の陶器。


 黒い杯の葡萄、白い星の菫。


 その陰陽の対比も、太陽というものを象徴しているように感じられて。


 やっぱりなんとなくで薔薇色のリボン(そしてそこに一輪の矢車菊)を結んでいたら、隣のお月さまと握手しているみたいに。


 ふと自分の誕生石がアメジストであることを思いだし、葡萄も菫もその石に通じているものがあるなと感じたりした。紫はわたしの色だとよくいわれるけれど(そしていつしかわたし自身もそのように思うようになったけれども)、なにか呼応しているものがあるのだろうか。





 葡萄酒の杯を迎えたとき、その作品に捧げられた言葉も一緒にいただいて、それを折に触れて想いだす。


 「遠く道を追い求める人よ 永遠の秘密 心にまつわる謎 愛の行方 解き明かす目覚めの味をどうぞ」




 アメジストはアルテミスにつかえた乙女の名を授けられた石で、彼女とディオニュソスにまつわる神話の顛末から、お酒の悪酔いを防いだり、また邪悪さから身を防ぐ石だとつたえられる。


 月といえばアルテミスが想起されるし、ギリシア神話であればなおさらそうだ。でも、葡萄と月がならんだ絵を見て、わたしがその月に感じたのはアリアドネだった。


 わたしが知るアリアドネは月と深く親密な結びつきをもつ女神のおひとりで、そして大好きな女神でもある(もちろんアルテミスも)。


 それに葡萄と月を見て想うのは、邪悪さの結界よりも愛の行方でありたい。


 けれども“VANITAS”というテーマのことを考えれば、もしかしたらあの月はアルテミスの月だったのかもしれない。それでもいいの、わたしが視てなにを感じ、なにを受けとったのかが、わたしにとってはもっとも大事なことだから。





 

2024/12/10

『三浦康太郎 個展 VANITAS』 at atelier utopiano






 『三浦康太郎 個展 VANITAS』 at atelier utopiano


 黄泉を象徴する柘榴からはばたく無数の蝶を目にしたときから、この展示へ訪うと決めていた。


 彼岸が“闇”とあらわされるなら、その果実のなかから飛翔している蝶は、ひとつの世界から脱皮してゆく暗示のようにも受けとれた。


 漆黒より生まれいづる変容の羽は、氷の花びらのような白。


 そのはばたきを軽やかな強さととるか、あえかな儚さととるか。




 入り口で迎えてくれた三浦さんの言葉にも、とても胸をうたれました。


 「一歩立ちどまり天を見あげ、空のキャンパスに星座を描いた先人たちのように心を豊かにし、流行や時代に流されるのではなく、いつも静かにそこにあるもの。どれだけ時間が流れても変わらないもの」


 太陽の花の黒、月の雫をあつめたような葡萄。


 個人的にはギリシアの神話を感じるものがあって、柘榴にペルセポネを、向日葵にアポロンを、月と葡萄にディオニュソスとアリアドネを想い、その重層的なひろがりに、三浦さんが綴られていた言葉が呼応することに気持ちを馳せていました。


 独立した画が水の底で溶けあって織りなしていた物語のまえで呼吸し、それを自分のなかに迎え入れることができて、嬉しかった。




 帰り道、日没のころに空にひろがっていた青が神秘的に美しくて、そこに浮かぶ上弦の半月が白い片翅みたいで、柘榴から飛びたつ蝶の羽のように感じられた。


 でも、この目で見たものの半分もつたえられない。





2024/12/08

ジョン・ウィリアムズ 『ストーナー』







 ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』作品社


 ある彼女とお互いに本を贈りあう遊びで、彼女のための選書の一冊に、この書物を選んだ。


 翻訳の出版当時、いまから10年まえに読んだとき、粉雪みたいな小説だと感じたことを覚えている。


 ただ宙を仰ぎながら静かに降る雪を見つめている。


 次第にそれが積もり、自分のからだがその雪によって冷えてゆくのもかまわずに天を見つめつづけ、そのうちそれは冷たさではなく不思議なぬくもりを帯びはじめ、温かな感触に変わるような、雪に触れたときそのものの読書体験。


 どのようなひとがこの物語を現実に顕したのか調べたら、著者はすでに故人であり、それが1960年に書かれたものであったことを知った。


 彼女に選書するとき、ほかの本は読み返したけれど、『ストーナー』のあのすべてが漂白される雪の感触をそのままにしておきたくて、あえて再読しなかった。


 刊行からずいぶん時間が経っているので、出版社に在庫があるかしらと感じた懸念は懸念のまま終わり、この書物が静かな熱をもって密やかに確実に受け継がれ愛されているのだと再発見できたこと、とても嬉しかった。


 雪の冷たさと温かさは、そこに内包された悲しみと愛のおおきさ。





2024/12/07

本遊び






 おなじ価格を上限とし、お互いのための本を選んで贈りあう、という遊びを友人として、彼女がわたしに選んでくれた書物たち。


 草舟あんとす号さんがこの“遊び”の橋渡しの役を引き受けてくださり、それぞれにお頼みした本を受けとりました。


 これから読むのが、とても楽しみ。





 彼女からわたしへ


 カズオ・イシグロ『クララとお日さま』ハヤカワepi文庫
 サマセット・モーム『人間の絆(上)』新潮文庫
 サマセット・モーム『人間の絆(下)』新潮文庫
 村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫
 今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』筑摩書房
 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』角川文庫
 フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら』ハヤカワ文庫SF
 橋爪大三郎『はじめての構造主義』講談社
 ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮文庫
 綿矢りさ『ひらいて』 新潮文庫





 わたしから彼女へ


 小川洋子『物語の役割』ちくまプリマ―新書
 川端康成『眠れる美女』新潮文庫
 平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』講談社文芸文庫
 ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』ハヤカワepi文庫
 ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』作品社
 レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』筑摩書房


 *


 ちなみに彼女が最初に選んでくれた書物のなかに、レオン・ウォルトの『僕の知っていたサン=テグジュペリ』と桜庭一樹の『青年のための読書クラブ』があったのですが、どちらもいまのところ重版未定とのことで、今回は断念。



 彼女がつくった選書の一覧と理由を綴ったメニューも一緒に贈ってくださり、それもとても嬉しかった。


 最初に書かれてあった『クララとお日さま』の項目だけ、ここにも。





2024/12/06

薔薇と白雪








 薔薇と白雪の結びは、
 火と水の結びでもあったのだと。


 夏至まえのあの夏と、
 冬至まえのこの冬を。



 薔薇と白雪というと、しらゆきべにばら、ゆきしろばらべにを想いだして、Dieter Muellerの絵本をひさしぶりに引っ張り出してきた。


 点滴堂さんの展示もふくめて記憶が遡る。懐かしい。