2026/10/01
10月のsessionのご案内
今回は「自分には関係ない」と思われるかたもいらっしゃるかもしれないこと前提で、
このことを記しておきたいと思います。
先月月末のミカエルマスの日の一斉遠隔ヒーリングについて、
「とても強力だった」というお声を複数お寄せいただいています。
ミカエルマスの日のエネルギーは、かなり“重さ”や“ネガティヴティ”の除去、という側面が強く出ており、
お流ししながらわたしも、それぞれのかたの“抵抗”がおおきく出てくるのを感じました。
そしてこのような浄化が、いまとても大切であるということも、あらためて感じました。
エネルギーワークは一期一会なところがあり、おなじエネルギーであっても条件が異なれば、現れかたや作用するものもまったく違うものとなります。
(今回も「ご報告」に記しましたが、予定していなかった観音のエネルギーが入ってきたり、
「ミカエルマス」という特別な日であったこと、
その場の流れ、やってくるもの、受けとるものにまかせる、という即興的なものがかなりあります。
コントロールしようとせず、ゆだねる。
そうすることで、最適なものをエネルギーとしてお届けできるからです。)
そのとき、その段階に応じて必要なものを、それぞれに受けとります。
そのためおなじワークは2度とできないのですが、このたびのミカエルマスの日にしたようなエネルギーワークを、
一斉遠隔という場で、できれば定期的にしていきたいとあらためて思いました。
それがとても求められているように感じるからです。
世のなかの状況や、それが個人にあたえている影響、
そしてその影響が巡って全体にあたえている影響、すべては“つながっている”ために。
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セッションをご希望のかたは、
対面セッション、遠隔セッションもともに、ご希望のお日にち、時間帯を第3希望くらいまでおつたえください。
セッション開始時間は午前11時から午後3時くらいまでを目安にご参照くださると幸いです。
ご予約、お問い合わせはサイトの「Contact」か、各種SNS(X、Instagram)のDMからよろしくお願いします。
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Luna Somniumの10月のセッションお受けになられるかたへの月末の一斉遠隔ヒーリングは、31日(土)の夜を予定しております。
日付が近づきましたら、blog、Instagramでのお知らせとともに、該当されるかたにあらためてリマインドいたします*
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写真は熊野の旅の終わりに、船のうえから。
振り返ると輝きに満ちた太陽が光の路をつくってくれていました。
この道筋に案内されながら、つぎの旅へ*
そしてすべてのひとが、みずからの“旅”の航路を"光の路"の守護とともに進めるよう祈っています。
どなたさまもよき10月をお過ごしになられますように。
熊野詣(2)
熊野古道の苔むした石畳の階段からはじまった2日目。
この平衡でない自然の石のまるみに足の裏を吸いつかせるように歩かなければバランスをとることもおぼつかない階段の傍らには、遠い記憶を宿した杉の巨樹がならび、
ただ無心で石段を登るとき、なにも思考せず、感情もなく、ただただ「先に進もう」という気持ちのみが残り、からだはそれだけを目的に自動的に動く。
「神のおわす場所」とされているところが、その歴史が古ければ古いほど、それと比例するみたいに辿りつくことに困難を要する傾向にあるのは、
聖域として安全に護られていること、巡礼者の覚悟が問われていること、理由はいろいろにあるだろうけれど、
ひとつには辿りつく過程で“無心”になる必要があるからなのではないか、と思ったりした。
その状態であってこそ、「受けとるべきもの」をあますことなく受けとることができる。
神域の核心にいたる道筋で、そのための準備をうながされているのだろうと。
熊野では、暗闇から光へ還る“生まれ変わり”の体験を、何度もした。
“子宮”の沈黙と暗がりに光が射して出ずるもの。
あの古道も“胎道”みたいなものだといわれれば、そうであるのかもしれない。
熊野三山が“過去世”“現世”“未来世”をあらわしているならば、
“現世”である熊野那智大社が、階段の多さのために辿りつくことが、もっともハードルが高いといえばいえるのも、なんだか意味深いことだった。
(それでも昔のひとたちが感じただろう“難航”とは較べるべくもないだろうけれども。)
そして那智の滝。
ずっとあの水流がほとばしるまえに佇んで、いつまでも眺めていたいほどだった。
動画も撮ってみたけれど、なぜだか1秒しか撮れておらず、わたしが見たその姿は、写真や動画に残っているものより、壮大で幽玄で清々しく美しかったけれど、それは自分のなかにだけしまっておきなさい、ということなのだろうと。
霧雨なのか滝の飛沫なのか、水にやさしく包まれて、その瞬間そばには誰もおらず、わたしひとりだけの空間で、目のまえには滝があり、その滝を抱くようで、
とても特別で贅沢なことだった。
2026/09/19
2026/07/30
7月の一斉遠隔Healingのご報告
7月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへの月末の一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
下記に綴りますことは、おこなったエネルギーヒーリングの説明を言葉にして掬いあげたものですが、それは一部分に過ぎません。
言葉にできない領域、それぞれが受けとられたものを大事にされてください。
はじめに、このエネルギーヒーリングは7月29日の満月の日を予定していたので、せっかくだから満月が起きる時間、23時36分から開始するように受けとり、ご参加くださったかたがたにはあらかじめ、夜がふけてからのヒーリングになりますので、かまわずご就寝くださいとおつたえしておりました。
睡眠は意識がもっともリラックスしている状態であり、潜在意識が開きやすい時間であるといえます。
つまり自分が「気づいていないけれど“ある”もの」が浮かびあがりやすく剥きだしになりやすいときなので、今回はそれを活用してあらわれる不要になっているものを調えるといいと入ってきました。
また、暑さでダメージを負った心身、意識への癒し。
そして不眠で悩まれているかたの「リラックスできない」「リセットできない」状態は、この世界的な過度期の状況からくる影響をかなりダイレクトに受けているので、そこにもアプローチを。
エネルギーの施術をお受けになられたかたが、対面でも遠隔でも「すごく眠くなる」「実際に深く眠ってしまった」ということがよくあるのですが、それは意識をオフにすることで、より深い領域までエネルギーを届け、浸透させるため、解放、再生、再接続のためにそういった状態になるということです。
セッション中に眠ってしまって「もったいない」「ちゃんと受けとれたのだろうか」と思われるかたもなかにはいらっしゃるようなのですが、それは思考による疑念であり、なんの問題もありません〇
むしろ、睡眠にかぎらずですが「オフ」にしてサレンダーされているところに自分の「意識の外」から「自分では想定していなかったもの」が入ってくるのです。
「睡眠」は意識のリセット。
だからとても大事なものですが、それに悩まされているとき、脳や肉体が過度な緊張状態にあるということはいえると思います。
エネルギーヒーリングはそれをやわらげる、緩和するもの、そして閉じている部分を開くものでもあるので、施術中、対面でも遠隔でも自然に眠くなられたときは、それに逆らわずそのままに身をゆだねて差しあげてください。
今回のエネルギーは「のろいを解く」、それから「契約を解除する」というキイワードがもっとも優先的につたわってきました。
「のろい」というと不安になってしまう響きかもしれませんが、誰しも知らず知らずに、無意識のうちに、いくつもそういうものを持っています。
それは小さなものから大きなものまで。自分自身の力だけで“気づく”ことは困難なものもふくめて(しかしほんとうの“ほんとう”では、すべて自分で“知っている”のですが)。
わたしたちはそれぞれ、みずからの眼差しをとおして世界を見ています。
そのため、それぞれの“現実”は、そのひとがどのような眼差しで世界を見ているかを反映しています。
自分のなかの“重さ”をクリアにするということは、視野を拡大することでもあり、肉体や意識から不要なエネルギーが取り除かれることによって“軽く”なることは、視線のひろがりを自然にうながします。
だからこれまで気づかなかったことに気づいたり、これまでだったら選ばなかった選択肢を選んで行動したりといったことが起こります。
だから“現実”も変わっていきます。
「のろい」や「不要な契約」をどのくらい“重く”みずからのなかに持っているかは、自身の健康、人間関係、お金の問題、人生のあらゆる面にネガティヴな意味での力をもちます。
今回、それぞれの段階、準備できている領域にそれを「解く」アプローチがあったとのことでした。
また、暑さや紫外線、“外側”の混沌によってダメージを受けている心身に癒しをおくる、ということもいたしました。
そして被災地、被災したかたがたへの祈りも。
あえて言葉にして記してはきませんでしたが、このような機会、場においてはいつも、地球へのヒーリングも同時におこなっています。
自分の癒しが終わったあとで、気持ちに余裕が生まれたから地球のことを考えるのではなく、話は逆で、地球のこと、そこに住むひとたち、生き物、自然のことを考え、想い、行動することでみずからの癒しもまた進むのだということを、ひとりでも多くのかたが知ってくださればいいと感じています。
地球の状態は、そこに住むわたしたちの状態でもあります。
住む場所をお借りしていること、そのことに敬意を払うこと。わたしたちひとりひとりが自覚的になり、自分自身をクリアにしていくこと。
それが地球への“貢献”でもあることを。
このたびは以上になります。
今月もありがとうございました*
いつもあなたがあなたでありますように。
°˖✧
写真は先日訪った聖なる水の場所。
今月もいろいろありましたが、BLOGやSNSに記録として残せていないことがたくさん溜まっているので、ひとまず写真としてシェアいたします*
2026/07/08
『月の片翅をよむ 夏の回』朗読教室 7月5日
四季を巡る大勢待なつみさんの朗読教室、『月の片翅をよむ』の夏の回 、草舟あんとす号にて
「では薔薇は?
薔薇の花はどんな秘密をその渦のなかに隠しているのだろう。」
からはじまる文章を読みました。
“森”のなかに入ってゆく場面を、holy gardenの緑がもっとも濃く繁る季節に。
発声をはじめた途端にささやかに降りだした雨は、“森”の奥深くへと進むほどにはげしくなって、終わりの合図のころに突然やんだ。
「まるで退行してゆくよう」だといっていた誰かの声。
淹れていただいたホーリーバジルのお茶を飲みながら声を放ち、言葉をかわしあうひとときは、
一時的に外界から隔てられた“森”のなか、あるいは泉の水の底を映す“舟”のなかで、自分自身のこだまに心澄ます時間でした。
*
蛇足としての余談のようなもの
『月の片翅』を書くとき、今回の朗読教室で読んだ場面の言葉をおろしてゆくことはとても苦しかったことで、この部分を“読む”のだということになったとき、胸が塞がれるような、呼吸がしづらいような気持ちになり、それはこの場面を記すことが、わたしにとってクノッソスの迷宮のごとき“森”のなかに入ってゆくようなことであったこと、おそらく“声”をとおして文字を“読む”ことで、それをふたたび体験することを知っていたからでした。
漠然と心に靄がかかるとき、自分のなかの“森”が騒めいている。
またひとつ、さらに“奥”へと進むようにもとめてくる。
入口と出口がおなじ場所にある、誰のなかにも存在する迷宮のごとき“森”
――「まるで退行してゆくよう」
声という音にしてみずからの“外”に言葉を放つことによって、その音を、その言葉を自分自身にも聴かせることは、二重の意味をもつ“まじない”のようなものでもあるのだな、と昨日は感じた。
家に帰った途端にとても眠くなって寝床に籠り、長い時間意識から離れる必要があったのも、その“森”の道を、しるべを辿りながら歩いてゆく“つづき”が無意識のなかではおこなわれていたのだろうと。
とても貴重で、重要なことでした。
それは「より呼吸を深くするために」「さらに澄んだすがすがしい風が胸のなかを通るために」起こること、いつだって。
自身からうながされ、“森”の奥へと進み、その景色と対峙して自分のものとするたびに、
奥へ奥へと進み、みずからを研ぎ澄ませてゆくたびに。
次回のお教室は秋も深まるころの、10月25日(日)を予定されているそうです*
またふたたびの“巡り”を楽しみに。
2026/06/23
媽祖廟。海の女神、炎の祓い
横浜中華街を散策。
中国の海の女神を祀る媽祖廟で、黄金の龍に迎えられた。
天に捧げるお金であるという「金紙」なる黄色い紙を最後に燃やして、火がおおきくなってゆくのを見つめていると、その炎で隅々まで浄められるようだった。
そのあと食べたオムライスも黄色で、振り返るとこの色をチャージした日でもあったのだなと感じている。
『透鏡の幽霊』中島綾美個展 at atelier utopiano
宮沢賢治の『オホーツク挽歌』の詩群から着想された作品群。
波の音が響き、白い貝殻がならぶ空間で、“海”の神秘と寂寥の一瞬が額におさめられた絵を眺めるのは、標本を眺めているようでもあった。
此岸と彼岸を寄せては返す波のあわいの静けさに佇んで。
クラムボンという名の白いお菓子に(ポルヴォロンのことを「 私たちはこのお菓子をクラムボンと呼んでいます。」と記してあった )にも心ときめく。
ポルヴォロンは口のなかで消えてしまうまえに、その名を3回唱えることができれば願いが叶うといわれているけれど、この場合は「クラムボン」と唱えるのだろうか、などと思いつつ美しい景色をあとにする。
2026/05/23
記憶の巡礼
母の誕生日の日、夜は両親と食事の約束をしていて、そのおなじ日の昼に、子どものころの記憶の巡礼をしようと、それをしたほうがいいと数日まえから自分自身が囁いてくるのを感じ、それにしたがうことにした。
幼少期に縁のある場所を巡ることで、自分自身の子ども時代の鎮魂すること。
どうしても足を運びたかった公園があって(わたしが「そこに行きたい」というよりも、「行かなければ」とうながされて)、そこが最初の目的地。
小学生以来だというのに、場所も景色もしっかりと覚えていた。
なにも変わってない。
子ども時代によく遊んだ友人の家がこの公園の近くにあったなと思いつつ、記憶にしたがって道を歩いてゆくと、また別の公園に行きあたって、その場所自体は覚えていたけれど、どこにあったのかはうろ覚えだったから、なんとなくで進んでいた道のむこう側に懐かしい(そしてすこし切ない)その場所を発見したときのはっとした気持ち、
辿りついたときに自分のなかから湧きあがってきた、当時の忘れたかったこと、でもいまは感情をまじえず俯瞰的に見つめることができる想い出の断片が、記憶だけでなく、物理的に訪れることで肉体的に回収されたことを思えば、ほんとうはこちらこそが目的地だったのかもしれない。
ここにも“獅子”が。
そして出迎えてくれたパンジーたち。
自分のなかに封じていたものが浮かびあがってくる。そのために赴いたこともわかっていた。ここ2年ほど、ずっとこのような“記憶の巡礼”をしようと思いつつ、できなかった。時機はいま。自分に自分がそれをゆるしたから。
そこからすぐ近くにある神社にもお詣りをしに。
幼いころ、この神社のそば近くでよく遊んだこと。
この神社のことは去年の初夏ごろにも想いだし再訪していて、そのときも思ったけれど、やさしくてやわらかい女神のエネルギーが感じられる場所で、境内にいるととても安心する。
公園とこの神社を巡っておしまいと思っていたのに、せっかくここまできたのだから、すぐ近くにある通っていた保育園に、昔住んでいた家があるところに、と足をのばしているうちに、どうせなら卒業した小学校にと、心がうながすままにむかっていた。
小学校をあとにすると、そのすぐそばにある神社に。階段途中の狛犬さんにご挨拶。
こちらの神社も、わたし自身との縁が深い場所。
最後に“森”へ。
幼少期の鎮魂もこめて巡っていたからか、春になるとこの森に遠足にきたことを想いだした。
ピクニックをした広場の芝生は一面のシロツメクサ。
雨が降っていたからほとんど人の姿もなく、あの森のあるじだとひとり決めしている巨樹の下にわたしだけ。
子どものころもおなじように、この巨樹を仰いだ。
なにも変わっていない。でも幼いころに見あげたそれより圧倒的なおおきさは感じず、それだけわたしが“おおきく”なったのだと思った。
子どもの足ではとても遠かった場所と場所が、いまではこんなにも近くに感じること。
古代の記憶が眠る森と、わたしの過去の記憶が振動して、いつもとはすこし違う気持ちで樹々の合間を散策した。
子ども時代の“かつて”をぽろぽろとあふれさせながら。
一日中降っていた雨は鎮魂のために。
雨は好き。雨はいつもわたしにやさしく、大切なときには雨が降り、そのことを教えてくれる。ずっと子どものころから。
ぐるぐると巡っているうちに、歩数計は1万5000歩近くなっていたけれど、これだけ移動してもまだそのくらいの歩数なんだなと、いまは自分の足でどこにでも行けるんだなと、そんなことをあらためて思ったりした。
なぜそれをするのかわからないけど、したいと思ったからする。この記憶の巡礼もそう。
想像以上、自分が意識している以上に、これをしてよかったことがわかる。心がとても喜んでいることを感じるから。
2026/05/17
北極星、北斗七星
去年の終わりごろから、なぜだか行かなければいけないと思っていた場所、千葉神社へ、今月のはじめに。
「なぜだか」そう思うことには、かならず意味がある。そのときそれがわからなくてもいい。
最初の直感から半年ほど要したけれど、その期間は自分自身の準備期間でもあったのだろうと。
半年のあいだに「行かなければならない」はますます強くなって、そしてその機会に恵まれた。
千葉神社は北極星をつかさどる場所であり、つたわるふたつの紋は「神紋」と「社紋」、それぞれ表と裏をあらわしているとのことで、表の紋である神紋は月星紋だった。
『この紋は北極星の差配する天空の星々のなかで、日・月・星(じつ・げつ・じょう)のみっつの光をあらわした紋となり、もっとも外側の輪郭部が「太陽」をあらわし、左上のちいさな円を隠すと右下に「三日月」があらわれ、逆に三日月を隠せば左上に小さな「星」が残る。「人の生活におおきな影響を及ぼす太陽と月、そのほかの諸々の星々、これらすべてを北極星がつかさどっている」ということをあらわしている』
というような説明がお宮の説明ではなされてあった。
「日月星」――自分ではそのつながりを感じてうかがったわけではなかったけれど、今年1月訪れた富士の泉の旅で案内していただいた場所のことを想いだした。
わたしの蝶の器の“片翅”が“割れた”場所のことを。
あの場所に忘れ物をしてきたように感じてもいて、もしかしたらまた訪れるのかもしれないと感じている。
北極星、北斗七星の「北」は、五行のうちの「水」に配置された方角であるため、水にまつわる玄武、白蛇、亀などはその「使い」とされ、千葉神社の境内には亀(玄武)のかたちをしたおおきな撫で石を見ることができた。
また、湧水の霊泉も。
そして対の獅子の像(狛犬とは呼ばないらしい)。
獅子がわが子を千尋の谷に突き落として鍛錬したという太平記の故事をもとにつくられたとのことで、やはりおなじ故事からつくられた『連獅子』を思い浮かべた。
先月、『連獅子』を鑑賞してから、牡丹の花といい、どうしてか“獅子”のテーマも繰り返しあらわれている。
その理由を探り、あれこれなぜだろうと考えるより、いまは「そうなんだな」と胸にとどめておくこと。
この千葉神社にて、はじめて「御祈祷」というものを受けた。
これまでそうしたものを受けたことがなく、そうしたいという気持ちになったことも決定的にはなかった。でもここでそれを受けたい、受ける必要があると、うかがうまえから強く感じていた。
理由はわからないけれど、そう感じるからする。ただそれだけ。
よほどなにかの縁がある場所なのだと思うし、またうかがうのだろうとも思っている。
2026/05/15
桜貝の蝶
清らかな心でいつも世界を見つめたいと祈るかたから、海辺でご自身が拾われた桜貝を贈っていただいたのは、もう何年もまえのこと。
そこにこめられた想いとともに大切にするあまり、おさめられた箱と一緒にしまいこんで行方がわからなくなってしまっていた貝殻たちが、さきの新月の翌日に還ってきた。
このタイミングで。
いつからか自分が物語より物語らしい現実を生きているなと感じているけれど、世界に散らばるうつくしくてやさしいものをとおして、あらためてわたしに幾度もそのことを囁きかけてくれる。
***
***
桜のはなびらは
風とともに
天と地のあわいを
舞いながら
のびやかに流れてゆく
そしてときに
水に沈んだはなびらは
桜貝となって砂浜に流れ
土に姿をあらわし
はなびらと貝の名残を
その断片に宿した
翅を手にいれ蝶となり
やわらかな火のごとく
空へと羽ばたいてゆく
“そんなことがあるわけがない”
そう思うことでも起こりうる
“流される”ではなく“流れる”
どんなことでも起こりうると
みずからに ゆるすということ
そしてそれも
自分自身のなかに揺るぎない
おおきな樹が育まれたからこそ
できること
(――『片翅の泉』に寄せた、まぼろしの28の翅のひとつから。)
2026/04/22
『月の片翅をよむ』朗読教室 4月19日
大勢待なつみさんの朗読教室。
ちいさな緑の王国であるholy garden、草舟あんとす号さんの書物に囲まれ輪となって座り、巡る番を待ちながら声を解き、聴く。
言葉のうえにそっと音をのせ、ながれるままに。
それぞれの声の色や温度、質感。それに“澄ます”ことは、みずからの内側に“澄ます”ことでもあった。
満月が象られ、雪と桜の色の糸で綴じられたちいさな本。開けば空の色で水の色をした翅の蝶。
きっとholy gardenの目には視えないけれど“ある”、泉のなかからこうして現れてくれたのだろうと思い、嬉しかった。
またひとつ、その日の記憶ごと内包してやってきてくれた、特別な意味をもつもの。
コトリ花店さんの双子の薔薇。心満ちる日の帰り道。
『月の片翅』をテキストに使っていただいている大勢待なつみさんの朗読教室、次回は7月12日を予定されているそうです(追記、訂正。次回は7月5日(日)に変更になりました。ご了承ください)
ひきつづきholy gardenの草舟あんとす号さんで。単発のお教室、そしてとてもやさしいかたたちばかりの場所なので、最初は緊張があっても、次第に声もからだも解けてゆくのではないかと思います。
わたしも自分の“声”というものが長年好きになれずにいましたが、それは“声”には自分のすべてがある、そのひとのすべての情報があるからだったのだ、というのがここ数年の気づきでした。
自分を受けいれてゆくごとに、自分の声もまた、受けいれてきました。そして、声は変わってゆく、自分が変わってゆくごとに。ほんとうに。
“声”をほどくというのは、思っている以上に大切なことだと感じます。
わたしも次回も参加する予定です。よろしければぜひご一緒に*
そしてここのところのさまざまがひと息ついたお疲れさまもかねて、朗読教室に参加された友人と、その日の午後は甘いものを。
白い月のパンケーキ。
やさしく解けた一日。
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