2026/03/12

『片翅の泉』の展示名について









 3月14日から草舟あんとす号さんで開催される『片翅の泉 katahane no izumi』の展示名について、ご質問を受けることがあります。


 わたしとyukaneさんのあいだでは、この展示のことが決まってすぐのころから「おそらくこういう名前だろう」という気持ちがあり、そこにお互い疑問をはさまずに来たのですが、この「片翅」という響きに不思議な印象を感じられるかたもいらっしゃるのではないかと思いますので、遡って数年まえのyukaneさんとのやりとりをとおして、そこにつながった道筋みたいなものを。


   (撮影 草舟あんとす号)



 まず、わたしのなかにはこれまで草舟あんとす号で3回おこなわれた、yukaneさんの『繭の森』という展示の題のことがありました。


 そのつぎの段階として、繭から生まれる蝶、というアプローチが今回はあるのではないかと感じ、でもそれはまだ繭からあらわれたばかりで完全な羽化というより、「籠り」のなかで育まれた「翅」というイメージもありました。


 飛ぶための翅を育んだ時間で培ったものを外へとあらわす段階、といえばいいでしょうか。


 『片翅の泉』の「泉」のことをいうなら、yukaneさんが描かれた銀と漆黒の一角獣から、ほんとうの意味でこの展示が“はじまった”のだと思っているのですが、二頭のあいだに出現する泉が非常に示唆的で、それは“繭の森”の奥深くに進むことで辿りつくことのできる泉なのではないか、とも感じました。


 



 そこでyukaneさんに、「蝶の泉」や「泉の翅」という感じが展示名としてくる、というようなことを、記録を遡るとおつたえしていたようです。


 繭の森の“繭”は蝶になるまえの護りのもの。それがほどかれて開く蝶。


 泉の水鏡のむこうに映る自分との統合、その自分と「ひとつになる」ことが「蝶になる」ということ。“自分”と“相手”(それもまた“自分”)が溶けあわさることで顕れるもの。


 その自分と相手を「光」と「影」という言葉に置き換えることもできます。


 そして光と影は蝶の片翅ずつだと。


 自身のなかの影を、それもまた“わたし”なのだと認め、受けいれることで光を放つ。「ふたつの翅」の両方があわさることが「蝶になる」ということなのではないかと、そのような話をyukaneさんにしました。


 「蝶は光と影のようなところがありますね」と、そのときyukaneさんもおっしゃっていました。「2片の翅をもち、表と裏があり、変容して、天と地のあわいをどちらにも属さずに漂っている。泉は境界でもありますね。蝶が導く金の糸、『片翅の蝶』、素敵だと思う」と。


 「飛ぶための翅。蝶になるまえに翅がいる、となると“片翅”ということになるのでしょうか。繭のつぎに片翅、片翅のつぎに蝶。そういう順序のような気がするんです」とわたしがいえば、


 「『片翅』という表現に惹かれます。不完全な完全性というか。月も完全な形でなくても完全というか。上手く言葉にならないですけど」とyukaneさんが返してくれました。


 「“片翅”は新月と満月、白い月と黒い月みたいでもありますね。わたしのもとにいてくれるyukaneさんの絵みたいに」とまたわたしがいい、そのようなやりとりをとおして、おそらく展示名は『片翅の泉』なのだろうという共通認識になりました。 





 その題名しかないと、たぶんお互いにそこまで強い意志で思っていたわけではないので、もしかしたら蝶の成長の段階のように名前も変わるのかもしれないと思いつつ、でもそのはじまりのときにかりそめに名づけた『片翅の泉』に、たぶんおさまるのだろうという気持ちで、準備を進めました。


 それは最初のインスピレーションとともにやってきた名であり、どんなものでもそうですが、最初のインスピレーションにこそ魔法は宿っているものですから。


 簡単になりましたが、『片翅の泉』という展示名のこと、幕があがるまえに触れておきたかったので。