2026/03/04
『片翅の泉』 Q&A② 展示作品への思い
草舟あんとす号で開催されます『片翅の泉』展の企画として、展示開催まえにご店主からの問いにお答えしている前回からのつづきです。
なお、ご一緒させていただく画家のyukaneさんもこちらで展示やこの企画から感じられたことなどを、ご自身の言葉で綴られていらっしゃるので、ぜひあわせてお読みくださればと思います*
Q.2 展示作品への思い
この問い、この展示についてお話するためには、桜のことをお話する必要があるのかもしれません。
ある山桜の木のことを。
そしてそのことを辿りなおすには、そのまえに2017年の秋、やはり草舟あんとす号でyukaneさんの個展『繭の森 1』がひらかれたときに出逢った『sleep song』という題の絵のことからはじめたほうがよさそうです。
その絵には黒い月と白い月の下、鹿の角が樹木となって白い枝と黒い枝を天にむかって伸ばし、その背に眠りに就いたちいさな女の子が身をあずけている――sleep songにゆだねている姿が描かれていました。わたしはとても心惹かれ、なぜ惹かれるのか理由は説明できないけれどもその気持ちにしたがうことにして、わたしのもとにきていただくことになりました。
これも言葉で説明するのはむつかしいのですが、yukaneさんの絵はその持ち主となるかたの、ある予感みたいなものを顕してくれるように、わたしには感じられます。
そのひと自身の鏡、すこしさきの未来の姿、つまりはそのひとのなかにある種や芽や花や実を映しだしてくれ、みずからの空間、家や部屋に飾られているその絵を見つめるたび、「そちらにいけばいいんだよ」と無意識に働きかけ、いざなってくれる、“そこ”へ運ばれてゆくことを自分が自分にすこしずつ認め、その方向に進んでゆくことの手助けをしてくれるような。
「気持ちが惹かれる」ということには意味があり、自身の泉の底にある、いまはもしかしたら眠っているのかもしれない「なにか」に導かれているということ。
2019年の『繭の森 2』のあと、しばらくしてからわたしはそれをはっきりと理解して、2022年『繭の森 3』で『澪 ー散華ー』を目にしたとき、「理由はわからないけれど惹かれる」の自分の心にしたがう必要があることを、そこでも強く自分自身からうながされました。
( yukane 『sleep song』『澪 ー散華ー』 )
後日部屋に飾るときに気づいたことなのですが、ふたつの絵をならべると、黒い月と白い月のあいだに黄金の月が浮かびあがり、樹木となった鹿の角のうえに桜の木が配置される、そういう構図になって、それが偶然ではなく、わたしのもとに来るべくして来てくれた絵であることを感じ、胸がいっぱいになりました。
地中深く眠っていた種、それが地上に顕れ、開いてゆく。
黒い月と白い月がひとつになる。
『澪 ー散華ー』の桜の木は、ある神聖な場所に咲いていた山桜を描いたものであるのだと、yukaneさんより教えていただきました。
その場所に桜の季節のときに行ってみたいとわたしはいい、けれども翌年の春、あの絵の山桜の花はもう見られないかもしれないとyukaneさんからご連絡をいただいて、桜の木がひとつの命を終えたこと、もうその木から花は咲かず、巡りを終えて、またつぎの巡りに入ったことを知りました。
yukaneさんがその絵を描かれたのは、山桜が最後に花をつけたとき、だから“散”る“華”だったのかもしれないと、最後の年に撮られた山桜の映像をyukaneさんが送ってくださったのですが、桜の花びらが天女みたいに舞っているのを眺めながら、すごく切なく、けれども同時にあたたかなものを感じたことを覚えています。
またつぎのどこかの春にむかって、山桜は花びらを散らしながら昇っていったのだと思いました。
「またいつかの春に逢える」というような言葉を、そのときyukaneさんもおっしゃっていたような記憶があります。
そしてそれから、いつもわたしのどこかに、桜のことがありました。
だからのちになってこの『片翅の泉』展のことが決まり、今回この展示で言葉を紡ぐなら、それは物語の形式をしているだろうと思って、それはどのような色を帯び、風景が広がってゆくのだろうと想いを馳せ、みずからに問いかけていたとき、澄んだ泉のそば近くにあるあたたかなお店へと、やさしいかたに案内していただく機会があり、そこで「桜」をモチーフとする陶器の作品に出逢ったとき、それを目にした瞬間から自分の意識が深く吸い寄せられるのを感じたことも、それとつながりをもっていったことのひとつでした。
(作品 MAJO)
yukaneさんの絵に対して感じる「理由はわからないけれども惹かれる」と似た磁力を放っていた、みっつの桜。
そのときはまだ心決まらず一度はそのまま家へと帰ったけれど、そのみっつの桜のことが意識から離れていかなくて、この感じはきっとお迎えする必要があるのだろうと思い、近いうちにあらためて再訪しようと決めたとき、yukaneさんのあの桜とこのみっつの桜がわたしのなかで結びつき、この文章ではつたえきれないほど、それはわたしにとって、とてもおおきな啓示でもありました。
あの桜をお迎えしにいかなければいけないと、自分だけがわかる理由でそう思い、それからすぐにその場所へ再訪したのですが、それが11月の満月の日だったことを覚えています。
みっつの桜。
命を終えて土に還った桜が、ふたたび土から陶器として逢いにやってきてくれたのだと思いました。
ひとつはわたしに、ひとつはyukaneさんに、ひとつはある湖の水の底に、必要があってお返ししました。
このみっつの桜も、yukaneさんの白い月、黒い月、黄金の月とおなじ構図をもっていると気づいたとき、自分自身からの答え合わせをもらったことを感じつつ。
「土からやってきてくれたことに、とても意味を感じる」とyukaneさんもおっしゃられていたこの陶器の桜を迎えたとき、わたしは『繭の森』の繭から生まれようとする翅の、ひとつの蝶の“片翅”として、森の奥深くにある泉の、『片翅の泉』の物語を紡ぐことができるだろうと、確信できました。
これはわたしにとって、この展示、そしてこれからの自分自身にとっても、シンボル、お守りみたいなものです。
その翌年の冬と春のはざまで、雪と桜をめぐるふたつの旅をしたのですが、それもわたしのなかではこの展示と深く結びついていて、だからこのたび綴ったお話も、雪と桜のはざまの物語になりました。
さまざまな流れを経て、この展示の開催が冬のおわりと春のはじまりの中間、春分をはさんだ季節、桜の兆しを感じる時期になったのも、そのようななりゆきだったのかもしれないと思ったりします。
(『月の片翅』 B6版 123頁)
余談ですが、よく見るとyukaneさんの『sleep song』の絵のなかにも雪が降っているのです。
『澪 ー散華ー』とならべると、桜のはなびらと雪のひとひらが境界をこえて「はざま」のなかで溶けあっているよう。
「展示作品への思い」というより、「展示への思い」といった文章になりましたが、それはどちらもわたしにとって、共通するみなもとを持つ問いであり、答えでもあるといえるのだと思います。そしてこれらのことをどこまで言葉というものをとおしてつたえきれたかわかりませんが、開示することが大切なことであるともまた感じました。
(写真 草舟あんとす号)
昨日の満月、皆既月食の日に展示にむけた本『月の片翅』を草舟あんとす号さんにお届けし、yukaneさんの詩画集『金の糸』とふたつ、無事に揃うことができました。
ならべると鏡あわせになる2冊の本。黒い月と白い月、そしてこのたびの展示のDMに描かれた白い蝶と黒い蝶みたいに。





