2024/11/23

読書の時間







 理由あって再読していた書物。


 『物語の役割』のなかで純化された言葉の祈りに触れながら端々で涙がこぼれ、『センス・オブ・ワンダー』の頁をひらくといつもそこにある新鮮なきらめきに、あたらしくてやわらかい風が心をとおってゆく。


 読むたびにさらに大切な本になる。

 いま読み返せてよかった。


 そして、そういう書物が自分にとっての“親しい友”なのだと。


 宮澤賢治の『双子の星』もここ最近幾度か読み返していたお話のひとつで、そういう友の気配が、この物語にも。


 星めぐりの歌。


 オリオン座にみっつならぶあの星を見ると、わたしにはそれがいつも、過去、現在、未来、というふうに感じられる。


 巡る星も物語も、直線の時間ではなく、すべての時空を同時に翔けている。




2024/11/22

ハトホルの伝言





 記しておこうと思いつつ、すっかり遅れてしまっていたこと。


 今月、Luna Somniumでは女神ハトホルとのつながりを深めていて、すべてのエネルギーセッションにハトホルのエネルギーが副次的にふくまれていますが、今月の遠隔ヒーリングのセッションでハトホルがヴィジョンにあらわれたことがありました。


 ヴィジョンは視たりそうでなかったりで、視た場合、そしてメッセージがあった場合などは、クライアントさんにおつたえしています。


 今回のセッションであらわれてくれたハトホルとそのメッセージは、そのかたがこの女神と縁深く、すでに神聖なつながりをもっているからこそのものだと思いますが、つたえられたメッセージ自体はわたし自身と縁のあるかたとも共通のメッセージであると感じたので、許可を得てそのかたに綴ったものとおなじ文章の冒頭を、そのまま載せておきます。


 *


 まずヴィジョンのことですが、最初に古代エジプトのモニュメントみたいな石? 岩? でつくられたハトホルがあらわれて(頭部だけの石像のイメージです)彼女がいいました。



 「エジプトはアトランティスのもっとも善き形、善き力を受け継いだ文明。アトランティスの叡智を知恵の種とし、誤用しなかった。だからピラミッドは愛によってしか起動しないのです。


 ペレはレムリアの女神。アトランティスとレムリアの融合。それは誰にとっても必要なものです。その融合は聖なる男性性と聖なる女性性の融合なのですから。


 アトランティスが聖なる男性性。レムリアが聖なる女性性。


 どちらが善でどちらが悪であるか、そのような二極で物事は決められない。重要なのは、パワーをどのように使うかということ。パワーが悪なのではない。アトランティスが悪だったのではない。


 アトランティスの恐怖、レムリアの悲嘆。パワーを誤用したがゆえに滅びたもの。


 愛によってしか起動しないものは封じられ、だからそれを解くためにその恐怖と悲嘆を浄め、癒してゆく必要があるのです。誰にとっても」





 

2024/11/21

図書室の貸出カード







 いつも遠隔セッションを受けてくださるかたの“貸出カード”のスタンプがいっぱいになりましたので、おととい持ち主のかたに発送して“お返し”しました。


 Luna Somniumではセッションのたびに図書室の貸出カードにスタンプを捺すという遊びをしていて、対面のかたにはご自身でお持ちいただき、遠隔オンリーのかたの貸出カードはわたしのほうでお預かりし、スタンプがいっぱいになったときにご本人にお送りしています。


 スタンプがいっぱいになると、ありがとうの気持ちをこめて(この“ありがとう”はふたつの意味をこめて。セッションをお受けくださること、そしてそのような時間のスペースをご自身の意識と肉体のためにとってくださること)+20分、そのとき必要なエネルギーや、セッションエネルギーを継続するかたちでお流ししています。


 この貸出カード、セッションを開始した当時は花霞堂さんの「彼女たちの貸出カード」と名づけられた、ある寄宿舎が舞台の物語に登場する貸出カードがロマンティックでそれを使用していたのですが、定期的な入手がしづらくなり、去年だったかおととしだったかすでにうろ覚えですが、市販されている通常の貸出カードに変更しています。


 それだけではなんとも味気ないので月のスタンプを捺してお渡ししていますが、いまだにこつがつかめず満月や三日月が紙にきれいにうつらないときがありますこと、ご了承、お笑いいただけましたら幸いに思います。



 貸出カードのことはいままで記したことがなかったような気がして、“お返し”するものがあったのを機になんとなく書いてみました。



 なぜ図書の貸出カードなのかといえば、当初お運びいただく部屋を“図書室”に見立てていた遊びの延長線上にあるのですが、なぜ図書室に見立てたのかといえば、セッション開始当初の5年まえのわたしはこういっていたようでした。


 「余興ではありますが、わたし自身のかねてからの夢に“いつかわたしだけの図書室をつくりたい”という気持ちがありました。わたしが好きなご本だけを書架に集めた一室。わたしが好きな女の子にだけその部屋の“鍵”を渡して、その子たちがいつでもそこに足を運べればいい、そんなことを夢みたいに語ったことを近ごろ思い出し」



 きっとそういうことが好きな性分なのでしょうね。



2024/11/19

森へ







 森へ。


 上へ上へと昇ってゆくと突然ぽっかりとひらけた場所に出て、そこに遙かな時代からその森の“あるじ”として聳えていた、おおきなシラカシの樹がある。


 幼いころにはじめて仰いだときと変わらない姿で。


 その場所に辿りつくための道がいくつかあって、そのために星が回転するように森をぐるぐると巡るのはまるで巡礼みたいだ、と感じる。


 今日はいにしえの歌にまつわる植物が繁る道から。


 古代の遺跡が土の下に眠っている森なので、ふるい記憶を根に宿した花が咲き、実を落とし、また土に還り夢をみる。


 *


 我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく實にならじかも


 ぬばたまの夜渡る月をおもしろみわがをる袖に露ぞ置きにける


 もののふの八十おとめ等が汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花


 *


 今日はこの三首が目のなかに残った。


 それぞれネムノキ、ヒオウギ、カタクリのそばに記されていた万葉歌。


 初夏くらいから万葉歌への想いが時を経て再熱して、岩松空一さんの『やまとことば』にすこしずつ触れているのだけど、あの古代と親しむ植物たちの道にある木のベンチで本書を読めたら素敵かもしれない、と考えて、それだけで気持ちが満たされた。


 今度そうしてみる。

 あたたかい飲み物でも持って。








2024/11/18







 ときに現実が、物語よりも“物語”らしい伏線とつながりをもって顕れることがある。


 その感覚を完全に言語化することはできず、したとしてもいまは、拡がりを縮めてしまう。


 ただ、ばらばらだった点が結ばれて、ひとつの星座の様相がまた明確になることに、安心してゆだねればいいのだと。


 満月の約束。


 “忘れ物”を迎えに、ふたたび双子の星へ。


 そしてそれはたぶん、満月の日でなければならなかったから。








「そして光」







 「静寂の岸辺 ~そして光~」 silent music


 声楽  松原千紘
 ピアノ 久保田恵子


 目には視えない階段を昇ってゆく歌声。


 どこか高いところを目指して、そこに辿りつくことは、音を天に“お還し”するためであるような音色。


 それが“光”ということなのかもしれないと、お庭のマリアさまのいつかの面差しを想いだした夕べ。


 満月の夜の薄明りのなかでひととき隔絶され、音が空間と自分のなかに満ちることだけを心に傾ける時間は、しあわせでした。





2024/11/12

双子の星






 小金井の「双子の星」という珈琲豆の専門店に連れていってもらいました。


 宮澤賢治の作品名から名づけられたお店は、“すぎなの胞子ほどの小さなお店”


 珈琲豆のほかにもご店主によって厳選されたものたちがならび、そのなかからsputnikさんの「星を巡るジャム」のSpicaが気になって。


 黄金桃、プラム、ドライフィグ、アニスのお酒、黒胡椒、カルダモン、ローズマリー。と記された文字に、すこし『不思議の国のアリス』で出てきた小壜を連想した。


 なによりも大好きなローズマリーが入っていることに惹かれてこれを。


 sputnikさんは熊本のかたで、低農薬栽培のものを使用してからだにやさしいジャムをつくっていらっしゃるのだそう。


 そのくらいの情報しかないまま食して、ケルトの魔女さんがおつくりになったようなジャムだ、と自分のなかに浮かんでくるものがあった。


 不思議な味で、それでいてとてもおいしく、またほかの“星”のジャムをお迎えできる機会があれば嬉しい。


 ちなみに双子の星さんではお買い物したものにお釣りが出ると、星のかたちをしたプレートにお釣りを入れて「いいことありますように」といいながら手のひらに渡してくれるのが習わしなのだとか。


 わたしが「流れ星からの贈り物みたいですね」というと、「そのイメージなんです」と目を輝かせるご店主を見て、素敵なひとだと思った。





2024/11/11

Blooming Specimen






 Hiromi Takeda個展『Blooming Specimen』at 草舟あんとす号


 その植物標本の頁を開くと花も鮮やかにひらき、閉じれば花も密やかにとじる。

 書物を繰る誰かの指先によって目覚め、そして眠る植物たち。

 それを見つめながら、鍵を手にした者だけが来訪できる“秘密の花園”を想いだす。


 草舟あんとす号という「本屋さん」で開催される展示という意味を、とても大事に大切にされている展示だと感じ、書物とポップアップの融合としての動く植物標本、舞台となるあんとす号があるholy gardenの模型などその精緻さ、美意識はもちろんなのだけど、愛にあふれていてすごく感激した。


 最終日の夜になるまえの夕闇の、1週間ひらいていた“秘密の花園”の鍵がふたたび閉じてしまうまえに間に合ってよかった。


 その“花園”の最後の訪問者として、夜の庭をあとにした。




2024/11/10

ハーブティーのあたたかさ






 ENCHANTÉ​さんは食べ物も空間もそこに流れる空気も、植物の気配に満ちている。それを五感で味わう場所。

 おいしいスコーンとハーブティー。

 仰げば空中に吊るされたおおきなヤドリギが見える席にて。

 オーナーのあんじゅさんはわたしにとって、ハーブティーみたいなひと。


 草花の匂いがして、あたたかい。

 ひさしぶりにお逢いできて嬉しかった。



2024/11/08

あの星の森で






 タニガワマリコ個展 『あの星の森で』 at 日本橋Art Mall


 遠い星、懐かしい森。

 清らな少女のような煌めきと、
 年老いたひとだけが纏う静けさを眼差しにあわせもつ、
 もしかしたら森の樹であるのかもしれない、
 その精霊であるのかもしれない、
 星の問いかけを宿した瞳のこのかたが、
 とくに印象的だった。





 展示は今月10日まで。






2024/11/07

眠れる森の周期








 わたしのなかである周期が巡ると、Kinuko Y. Craftの『Sleeping Beauty』を手にとりたくなるようなのですが(ほかにもル・カインの『いばらひめ』もそう)、またその周期がやってきたらしく、先日からこの世界のなかに浸っています。


 この絵本のなかに描かれた眠りと目覚めの美しさ。


“眠りと目覚め。すべての蛹が羽化し、蝶になれますように。”とこの絵本の感想として、いつかどこかで綴ったことがありました。


 “自分が蝶であることを、すべての蛹が信じることができますように。”と。



――――°˖✧



 先日一斉遠隔で企画した、ハトホル、イシス、クレオパトラの三位一体ヒーリングにたくさんの反響をいただいて、正直驚いています。


 毎月一斉遠隔ヒーリングの機会は設けていたものの、たしかにこのような規模と事前準備(ヒーリングをお流しする2時間以上まえに準備をはじめていました)とともに一斉遠隔をするのははじめてかもしれないな、と振り返り、このたびのヒーリングのエネルギーをとおしてわたし自身、いろいろと感じるもの、学んだこと、受けとったものがありました。


 今回の三位一体ヒーリングのご感想をおつたえくださるかたに、不思議と共通しているキイワードがあり、それは“眠り”“夢”というものでした。


 「夢をとおしてヴィジョンを受けとった」「眠りのなかでこうするとこういう未来にすすむ、という人生の縮図のようなものを見た」「夢のなかの自分はエメラルドグリーンの空間のなかにいて、その自分は“すべてを知っている”という感覚のなかで空間と自分自身に身をゆだねていた」


 そういったお声をお寄せくださること、ご自身が受けとられたものをアウトプットしてくださったことに感謝しています。


 ありがとうございます。


 眠りや夢はみずからのなかの“月”とつながっているもの。


 太陽が顕在的な自分、外側にあらわされる光ならば、月は潜在的な自分、内側に流れる水のようで、眠りや夢をとおしてわたしたちは自身のなかに流れる川に触れる。


 今回の一斉遠隔のあといただくお声のなかに“眠り”や“夢”が散見できたのは偶然ではなく、それをとおしてダウンロードされるものがあったのでしょう。



 *



 繭と蕾に閉じた眠りが、蝶と花の目覚めに開く。自分自身の力を育み、取り戻すことが“目覚め”。


 “目覚めた”とき彼女が頭上に戴くべき冠が枕元に置かれている。その冠を頭上に載せるために、すべてのことがあった。


 それを戴冠するために知らなければいけなかったこと。


 その冠にふさわしい者となるために、蕾の眠りのなかに自身を閉じこめ、そして自分自身の力によって花を開かなければいけなかったこと。


 花になるための戦いが静かに眠りのなかでおこなわれていた。


 それは危険なものから身を護るための“籠り”でありながら、もっとも“危険なもの”である自分自身の闇を見つめて、内部の力を高める成熟への道。



 *



 『Sleeping Beauty』の感想としていつかこのように綴った言葉は、わたし“祈り”としてあるものです。


 その“祈り”をかたちにしたくて、わたしは去年、『天の花 地の星』という本をつくりました。


 あれはそれをもつかたのお守り、護符となるように、という意図のもとデザインし、そして上記したように“自分自身の力を育み、取り戻す戦い”のなかにいるすべての姉妹たち(“姉妹”とは性別ではないのです)のために、そしてなによりわたし自身のために書いたのでした。


 その途中、過程において自分自身の心から流血するようなことがあり、経過を辿るごとに「まずは言葉にしたことをおのれから実践せよ」といわれているのだと感じられることがあり、さまざまなかたが「神秘的」だと喩えてくださったあの本に宿るものが、わたしにはあまりにも生々しい現実としてありました。


 それは「自部自身の力によって“開かなければいけなかった”こと」でした。


 だからわたしは、ほんとうのほんとうの本心では、心からあの本を愛することができなかった。


 これをいま、ようやくいえる(しかしそれは、あえていわなくてもいいこと。「ようやくいえる」とは、わたしのエゴだ)


 だって本に対しても、それをつくるために協力してくれたかたに対しても、それを発表する場をあたえてくださったかたに対しても、そんなに失礼なことってないでしょう?


 そんな自分に戸惑い、だから今年は年始からずっと、“内部の力を高める”ということが自分自身のテーマでした。それはつまり余剰を浄め、自分の力を取り戻す、ということです。


 あの本の言葉に宿るものがわたしの“真実”であると、そしてそこに見つめた闇と拓かれた光があると、なによりわたし自身でもって証明する必要があるとうながされました。


 いまわたしはあらためてあの本を、わたしの“姉妹たち”に手渡すことができる自分として開かれつつあることを感じています(でも、それはまだ完全ではない)


 もしあなたが「花になるための静かな戦い」のなかにいるのなら、この本の文を心のなかで読み、唱えてみてください。


 その意味がつかめなかったとしても、ただそばにあるだけであなたの“眠り”の護りになるだろうと思います、といまならいえる。それが“ほんとうのこと”だとわかっているから。


 わたし自身もそうだったように、そしていま現在においてもある部分においてはそうであるように。


 それは「“眠り”の“護り”」のための祈祷書であるといえます。




 『天の花 地の星』(お取り扱いくださっている草舟あんとす号さんの通販サイトへのリンク)





   

2024/11/06

おまかせセッション





 そういえばこちらではお知らせしていなかったようなのですけれども、先月から「おまかせセッション」というものをはじめています。


 クライアントさんのそのときの状態、お悩みにあわせて当日にテーマを決めたり、施術しながらそのかたのエネルギーを見させていただき必要だと感じられるものを流してゆくもので、場合によっては所要時間内で数種類のエネルギーをお流ししたり、現在メニューには記載されていないエネルギーを施術したりなどさまざまです。


 肉体に溜まった思考や感情のクリアリング、グラウディング、リレーションシップ、家系、境界線、罪悪感、固定観念や制限へのアプローチ、過去、過去生からくる傷へのヒーリング、活力の回復、そのほかいろいろなテーマをもとに、そのときのそのかたに最適なものを。


 いまのところ対面のみ90分からのメニューとしていますが、ご興味とタイミング、ご縁がありましたら。


 詳しくはサイトのSessionの項目に説明があります。


 10月はこの「おまかせセッション」をご依頼くださるかたが多く、それをとおしてこのセッションはエネルギーが強烈に立ちあがることがあるため(それによってそのかたの表層意識、潜在意識にあるものをおおきくクリアリングしているということなのですが)、Luna Somniumの対面セッションを3回以上受けたことのあるかたに限定させていただくほうがいいかなと感じたので、このセッションのみ今月からそのような条件でお受けすることにいたしました。


 また余談ですが、以前に「エネルギー調整」というモニター価格で提供していたセッションがあったのですけれども、あれはそのかたの状態にあわせて1種類エネルギーをこちらで決め(やはりメニューには記載されていないエネルギーもふくめて)、そのかたの活力を回復させるために最適なエネルギーを施術するというものでした。


 そのため数種類のエネルギーを溶けあわせるこの「おまかせセッション」とは似て非なるもので、また「おまかせセッション」は活力の回復だけではなく、そのかたの根源にアプローチすることを目的とするものとなっています。そのような次第で先月から「エネルギー調整」はこのおまかせセッションのなかに統合され、メニューからはおろすことにいたしました。ご理解いただけましたら幸いです。



 よろしくお願いします。





三美神





 三美神で三姉妹、いにしえからつたえられる謎多き三女神。

 彼女たちの“美しさ”の側面を、花の祝福で香らせる。

 ジャスミンで結実する繫栄を、
 ゼラニウムで蜜の歓喜を、
 ラベンダーで花開く光沢を。

 彼女たちと縁深きアフロディテの守護とともに。





2024/11/05

おいしいケーキやさん




 家の近くにあるおいしいケーキやさんがもうすぐ移転してしまうのだという話を聞いた夜、自分でもびっくりするくらい落ち込んで、近年そういうこともなかったから、そういう自身の心の動きをとても興味深く感じた。


 家族の誕生日も、いつも足を運んでくださるお客さまが誕生月のときのそれぞれのバースデーケーキも、記念の日も特別な日も、ここ数年ケーキはみんなあのお店で選んでいた。


 種類も相手にカカオ形のショコラのケーキ、ショートケーキ、桃のタルト、モンブラン、モンテリマール、ピスタチオやマスカルポーネのケーキ、季節のフルーツがあしらわれたミルフィーユ、それぞれのイメージにあったもの、それぞれが好みそうなものを、四季とともに移り変わってゆく品揃えのなかから選んできた。





 その日はキャロットケーキを。


 レーズンはまったく好きではないのに、キャロットケーキは好きで、そのなかに入っているならレーズンも食べられるという不思議。


 いつもあってくれるのがあたりまえだと思って、“またいつか”という言葉に託しても、“いつか”がかならずあってくれるわけではない苦みを、甘さとともに呑み込んだ。


 ずっと意識していることではあるけど、行きたい場所には足を運んで、存在してくれて嬉しい場所には存在してくれてありがとう、とさらにつたえていこう。


 場所にかぎらず。


 近年とみにそうすることの大事さを折に触れて感じさせられる。





2024/11/04

翠の石





 大切な石が昨日はいつにも増して澄んで発光していた。

 いつもわたしと同調している、特別な石。




2024/11/03

ハトホル、イシス、クレオパトラの三位一体ヒーリング





 お知らせしておりましたハトホル、イシス、クレオパトラの三位一体ヒーリング、無事に終了しております。


 今回は終了後にご連絡などないものとしてお報せしておりましたのに、終えてみると「受けとったものを文字に書き起こしたい」という気持ちが高まり、結局ご参加くださったかたに一律のメッセージとして送信してしまったことと重複するかたちにはなりますが、綴らせてください。


 今回、開始予定時刻の30分以上まえの準備の段階からすこしずつエネルギーが立ちあがり、流れはじめるのが感じられ、エネルギーに敏感なかたはそれをキャッチされたかもしれません。


 “11分間”という時間の枠組みにとらわれず、必要な領域にエネルギーが流れたと思います。


 まず祭祀女王としてのクレオパトラとつながり、彼女をとおして、イシス、ハトホルの順番で招き、1と11を結ぶ、そのあいだにあったことの断絶を縫いあわせるためのヒーリングをおくりました。そしてハトホル、イシス、クレオパトラで111、それぞれの角を頂点とした三角形、ピラミッドをふたつつくり、重ねあわせる。


 それからわたしたち自身をひらき、バランスをとって調整すること、深い深呼吸の状態になること、最適な状態でグラウディングがなされるように頼み、つぎに目、ハート、全身、脳にヒーリングを流し、愛と美にひらいてゆくこと、そのヴィジョンを深めることをおもに意図いたしました。


 ご参加くださったかたのエネルギーフィールド全体にそれを拡大し、空間にゆきわたり空気を変えるよう設定し、からだの問題へのアプローチ、予防とともにエネルギーを活性化させ、あらゆる時間、次元においてその浄めと癒しが届くように。


 必要でないものが浄化され、自分自身との神聖なるつながりが強化されるように。


 そしてエネルギーを、それぞれが住んでいる家、町、地域にひろげました。


 ほかにもいろいろ意図したことがありますが、蛇の足となりますので割愛します。


 わたし自身、とても楽しく、このヒーリングをしようと思ったときからわくわくして幸せでした。


 またこのような機会を設けられたらと思います。


 ご参加ありがとうございました!


 そしていつもありがとうございます。


 あなたがあなたであることを祈っています。


 最後にこのヒーリングにさいして、嬉しいご感想をいただきました(記載にあたりご本人の許可もいただいております)


――――°˖✧


 この度はありがとうございました。

 ご縁を感じる大好きな女神のヒーリング。


 意識の深いところで受け取っているように感じました。

 私自身の中で最近「ヴィジョン」というキーワードを握りしめていたこともありシンクロを感じたり。


 寝ている間に受け取っていたようで、今朝起きた時にイシスの清々しいイエローゴールド?のヴェールのようなエネルギーのイメージが残っていたり。

 ハトホルは言葉で表現できないあたたかな色だったような。


 クレオパトラはあまり覚えていないのですがイメージするとピーコックグリーンが浮かびます。


――――°˖✧


 色という視覚をとおしてエネルギーを受けとってくださったのですね。


 心からの感謝とともに*





2024/11/01

11月、ハトホル









 Luna Somniumの11月は、女神ハトホルとのつながりを深めます。


 今月セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずハトホルのエネルギーが副次的にふくまれます。


 ハトホルは愛、美、豊かさをつかさどり、ほかにもさまざまな役割をもつエジプトの女神で、ギリシアにおいてはやはり愛と美の女神であるアフロディテと同一視されることもありました。


 彼女は牡牛の角のあいだに太陽の円盤をおさめる姿で知られていて、ファラオ(王)に乳をあたえる者として“恵み”をもたらす存在であり、太陽が示唆する“天空”はハトホルが「天空からの恵み」を宿している女神であることをつたえています。


 母性を象徴する存在でもあり、彼女が守護する領分は“受容”を根源とし、その多岐にわたる守護にすべて恩恵がゆきわたるようにと、ハトホルは自分自身を7つの姿にわけました。


 あたらしい命の誕生を助ける“育む母”であり、死者の魂が心穏やかに旅立つことを助けてくれる“黄泉の守護者”でもあるこの女神は、わたしたちの一生を見守り、すべてのことを受容するということの意味を教えてくれます。


 「歌いなさい、踊りなさい――あなたがあなたであるために」


 真の意味で“歌っている”とき、“踊っている”とき、そこに思考のなかのネガティヴティが入り込む余地はありません。


 自分自身を“受容する”とは、そのような状態――真の意味で歌っている、踊っているような状態、“余白”をみずからのなかに招いている状態である、とハトホルはつたえます。


 愛も美も豊かさも、その“余白”にこそやってくること、そしてそれを喜びとともに享受できるのも、その“余白”があってこそ。


 わたしたちが自身の人生を歌うこと、踊ること、そのようにして生きることを、この女神は願い、そして助けてくれます。


 今年の1月はハトホルとおなじくエジプトの女神であるイシスからはじまっており、1がふたつならぶ11月にこのイシスと深く結びついているハトホルを配置するのは大事なことのようで、そのため副次的に作用してくれるのはハトホルですが、その傍らにはイシスもいてくれる、と入ってきます。


 11月は“遊び心”が大事な月になると思います。


 ハトホルのつかさどる愛や美や豊かさを喜びをもって享受するためにも、“遊び心”は重要なキイワードです。“受けとる”には自身のなかに“余白”がある必要があり、“遊び心”も“余白”がなければ生まれない。


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 先月の女神アテナの一斉遠隔のさい、11月1日の夜11時11分(23時11分)から11分間、ハトホルとイシス、そしてこの二柱の女神と縁の深いエジプトの女王であるクレオパトラの三位一体エネルギーヒーリングを11か月以内にセッションをお受けくださったかたにお送りするよい、と入ってきて(イシスからハトホルのあいだ、今年中にお受けくださったかたは例外なく該当します)、そのとおりにすることにいたしました。


 該当されるかたには昨日中にSNSで連絡がとれるかたにはそちらのDMから、メールのみでやりとりさせていただいているかたにはアドレスのほうからハトホル、イシス、クレオパトラの三位一体のヒーリングのご案内をお送りしております。


 昨日は“魔女の大晦日”と呼ばれることもある万聖節、そして今日は朔日の新月。


 大晦日におわり、新月にはじまる特別な境目であると感じます。


 そして1がみっつならぶ日に1月のイシスと11月のハトホルの結びのためのヒーリングが叶う幸せを感じています。


 「受けとりかた」をお読みになり、ご参加くださるかたはよろしくお願いします。


 無償ですので、ひきつづきたくさんのかたにご参加いただけましたら嬉しいです!




――――°˖✧




 *11月、これからの予定*    


  11月1日(金・夜)* ハトホル、イシス、クレオパトラの三位一体ヒーリング *(該当されるかたにはすでにご連絡済みです)

  11月30日(土・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のハトホルの一斉遠隔ヒーリング *(該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます)


 それではどなたさまもよい11月をお過ごしください。


 いつもあなたがあなたでありますように。







2024/10/31

アテナの一斉遠隔ヒーリングのご報告





 今月、Luna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのアテナの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 自分のなかの勇敢さと情熱につながる、自信をもち、誠実であるために、自身の内側にあるもの、たとえばおのれに課しているタブー、抑制しているもの、そしてデーモンという名の幻想、自分で自分を傷つけているものに気づくことは大切なことです。


 未来への不安や怖れは、「必要なものはあたえられるだろうか」「計画をうまく実行できるだろうか」という懐疑から生まれます。


 それがあってもいいのです。それは自然なこと、とても人間的なこと。


 しかし自身への懐疑が深いとき、生みださなくてもいい現実をわざわざ創りだしてしまうこともあります。


 そしてその懐疑がどこからくるのかと辿ってみると、“安全さ”という感覚、気持ちから離れているときにやってくるものであるのかもしれません。


 警戒しなければいけないこと、つまり危機にそなえてあらかじめ用心したり注意しておかなければいけないことを多く経験してきたなら、「寛いでいなさい」といわれても、それがどういうことなのかわからない、ということや、「情熱にしたがいなさい」といわれても、それにストップをかける言葉が頭から聴こえてくる。


 懐疑はいつも、思考からやってくる防御です。


 そして思考は過去から紐づかれた怖れにしたがって現在、未来への忠告をしてくることがある。


 その“紐”を手繰り寄せた場所に、課しているタブー、抑制しているもの、デーモンという名の幻想は存在しています。


 だから自分が「傷つかない」ために自身を守っているはずの思考が、自身を「傷つけている」ということが起こりうる。


 思考(マインド)が悪なのではありません。ハート(心、肉体)が善なのでもありません。


 そのふたつが“つながっている”とき、わたしたちは「自分が自分である」という状態に寛いでいることができる、ということです。


 それを妨げているものに光、浄め、癒しをおくる。


 今回の女神アテナの一斉遠隔ヒーリングはそのようなものであったようでした。


 このたびもありがとうございました。


 今日は万年節。「魔女たちの大晦日」ともいわれる日です。


 10月最後の日、11月の境目の日である今日がよき日となりますように。


 そしてよき11月を!





 

2024/10/30

そのひとが




 「そのひとがなにをしているか、そのひとがなにをいっているか、ということよりも、そのひとがどういう人間であるか、ということが大事なの」ということから枝葉してゆく話を最近よくするから、その一文のみここにも記しておくことにした。大切なこと。





2024/10/28

fimbria




 石倉和香子さんの詩集、『fimbria』の朗読会。新小平のHory gardenへ。


 頭上を仰げば彼女の本の装丁のような錫色の空。


 その場所を横切る鳥の影を眺めつつ、静謐でありながら重心をもつ声から示される音を聴いていた。


 囁くようでありながら、放たれた瞬間から底よりひろがり、そして沈黙に還ってゆく音。


 日香里さんの絵や版画作品ともひさしぶりに再会できて嬉しかった。


2024/10/03

10月、アテナ








 Luna Somniumの10月は、女神アテナとのつながりを深めます。


 今月セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずアテナのエネルギーが副次的にふくまれます。


 先月の終わりにホワイトターラ一斉遠隔ヒーリングをお受けになられたかたには事前におつたえいたしましたが、この10月は当初、異なる女神を予定していました。


 しかしここのところマインドの混乱や停滞を感じやすい流れがあり(去年後半、今年、来年にかけて一貫してそのような流れではあるようですが)、それが肉体の疲労にも直結していて、無自覚、無意識にいろいろなものをキャッチしてしまい疲れやすかったり体調に支障が生じやすい傾向があること、マインドとハートをつなげてゆくことが今後においてさらに重要になってくること、マインドのクリアリング、癒しを優先するのがいいように受けとり、急遽アテナに変更になりました。


 だからアテナは、わたしたちのマインドに働きかけてくれる女神です。


 彼女が知恵と戦いの女神であるのは、“争い”というものが競争、比較、支配、コントロールといった癒されてないマインドから発生するものだからです。


 それは主語を「世界」としても「個人」としてもおなじところから発生し、自分の周囲に争いや諍いがあるとき、それが自分自身との内なる対立が表面化してみずからにわかるように見せてくれている、ということも多々あります。


 自分が自分と対立しているから現実にそれが起こるとき、けれどもわたしたちはほとんどの場合、そのことに無自覚です。そしてそのようなことが現象としてあらわれたとき、その出来事や周囲、他者を責めるかもしれません。


 しかし争いが表面化するとき、自分のマインドが過剰に働いているのがつねです。


 マインドが過剰に働いているとき、ハートはおざなりにされている。


 “外”との比較、競争、そして外にあるものを「自分の思いどおりに動かそう」とするコントロールがマインドのなかに争いの種を植えつけているのなら、その比較や競争、コントロールがどこからくるのかわたしたちは知っている必要があります。


 奥深くを探ってゆけば、そこから自分自身の過去のストーリーが立ちあがることがあり、それが内包する傷や痛みが立ちあがることがあり、そのようなとき古いストーリーはわたしたちに承認されるために浮上します。


 それがあることが「いけないこと」なのではなく、だからそれがあることを抑えつけて「なかったことにする」のではなく。――抑えつけられたものは抑えつけられた量と時間のぶんだけ増幅してゆくため、それを適切な方法で溶かしたり手放したり昇華するにも、やはり時間を要します。


 自分が自分に「見つめられていない」と感じるとき、「わたしの声を聞いてくれない」と自分が自分に思うとき、自分と自分の対立は生じ、それが深まるほどに分断になる。その内なる分断が周囲をとおして外にもあらわれる。


 アテナの力である「知」は、調和の力でもあります。


 知恵と調和はおなじものであるともいえる。


 分断のある場所に、知恵をもって調和をもたらす。物質的にも精神的にも。内にも外にも。


 武力で問題を解決するのではなく、知恵をもって平和をもたらす、「戦いを開始する」のではなく「戦いを収束させる」という意味での戦いの女神なのです。


 みずからの知性をつながるには自分自身もクリアであることが大切であることことを、彼女は教えてくれます。


 表面的な物事に惑わされず、その背後にある意図や真意を理解する力。


 アテナの力は知性と分別であり、それは不調和のある場所に修復をほどこす力です。







 *10月、これからの予定*    


  10月30日(水・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアテナの一斉遠隔ヒーリング

 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。


 それではどなたさまもよい10月をお過ごしください。


 いつもあなたがあなたでありますように。







2024/09/29

ホワイトターラの一斉遠隔ヒーリングのご報告





 今月、Luna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのホワイトターラの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。




 今回はかなり強く“浄化”というキイワードがきています。

 ネガティヴなエネルギーを洗い流す、浄める。


 心の奥深い場所で、
 「わたしは“疎外”されている」
 「わたしは“愛されない”」
 「わたしの真価が“認められていない”」という燻ぶりの感情があるかもしれません。


 苦しみの感情を受けいれる、認めるには、あるいは自分のなかの苦しみを生みだす原因、パターンを知るためには、「自身がなにを“拒絶”しているのか」に気づく必要があります。その“拒絶”がみずからの人生の障壁となり、苦しみを生みだしているからです。


 わたしたちは多くの場合、「自分が“苦しい”」ということを認めず自身を麻痺させようとします。


 そのようにして肉体が訴える声に心傾けずにいるとき、マインドは堂々巡りをはじめます。そのとき思考の領域は“過去”から換算した“いま”をつくりだし、それによって“未来”を予測しようとするでしょう。


 今回受けとったメッセージに「“いま”を怖れずに進む」とあり、そのために必要としているクリアリング、ヒーリングがおこなわれたとありますが、同時に「子供時代に教えられたこと、信じたことが、“いま”のあなたにとっても適切かどうかを自分自身に問いかけてください」とつたえられています。


 その“過去”が自分の“いま”をつくりだしているからです。


 わたしたちの多くは、時間は過去から未来に流れていると思っています。


 それは過去――現在――未来、という縦方向に進んでいる、というものの見方です。


 過去のあなたの行動や選択、放ったエネルギーが“いま”をつくりだしている。それはたしかにそのとおりです。


 しかし、“いま”のあなたの行動や選択、放つエネルギー、そして浄めや癒しが“過去”のあなたへ捧げることのできる花束になることがあります。その“過去”をどのように捉えるかで、あなたの“いま”は変わり、“いま”に変更が起こるから、“未来”もまた当初の予定から変化する。


 その“過去”を捉える眼差しの変更は、自分自身を浄め、癒すことでおこなわれるもの、おとずれるものでもあります。


 それが進むと、“未来”のあなたが“いま”のあなたにむける微笑みが深くなる。より温かく、慈しみとともにそのあなたは、“あなた”を見ている。


 あなたの浄めと癒しが進むごとに、“過去”のあなたに“いま”のあなたがそう感じられるように。


 “いま”の自分を浄め癒すこと、そして喜びや楽しみを受けとってゆくというのはつまり、“過去”のあなたに捧げる花束の花を大輪にしてゆくこと、“未来”のあなたがむける微笑みをおおきく深くしてゆくことなのです。


 時間は「縦」に流れていると多くのひとたちは思っている。


 けれども時間は「横」に広がっているともいえるのです。


 あなたが“いま”のあなたのためにひとつ進めば、“過去”、そして“未来”のあなたもそれに応じて進む。


 過去は変えられないと思っているひとたちがいる。


 たしかに起きた出来事自体を変えることはできないかもしれない。でも、“いま”のあなたが変化するごとにそれに対する捉えかたが変わり、捉えかたが変わればあなたの“過去”も変わる。そしてそれによってどのような“未来”へ進むのかも変わってゆく。


 そのために自身を浄化してゆくのは大切なことかもしれません。


 みずからの“過去”によってつくられた習慣や思考のパターン、人間関係のパターン、悲しみや怒りによってつくられた怖れ、拒絶。


 自分のためになっていない不要なエネルギーをクリアリングする。


 今回のエネルギーヒーリングはそのような部分への作用があったとありました。


 このたびもありがとうございました。


 よい10月を!

 あなたがいつもあなたでありますように。



 *LOVE*


       

Michaelmas




 わが家の天使のしっぽに青いリボンで結んでいる大天使ミカエルのメダイ。

 この子はわたしの“ミカエル”なのです。



2024/09/26

初夏から秋まで① 氷川女體神社∞氷川神社(前編)





 初夏から(と、いうよりも去年の秋からずっと一貫してそういう流れではあったけれども)夏の終わりくらいまで、自分自身のことで片づける必要があるもの、長いあいだずっとつづいていたある段階におけるクライマックスというべきものがあって、それがかなりおおがかりであったので、その期間、とくにこの夏のことで深い影響があったものでアウトプットして記録として残せるものはそうしておこうと今月に入ってから感じ、人から見ればたぶんささやかなこと、でもわたしには重要で印象的な出来事であった、いくつかのことを順番に。





 さかのぼれは5月のある夜、夢のなかで氷川女體神社にいたことがあった。


 なぜそれがかの社だとわかったのかといえば、 氷川女體神社にお詣りされたことのあるかたならおそらくわかるであろう参道につづくあの石段をのぼったさきのおおきな鳥居が夢のなかにあらわれて、夢でその階段をのぼり、鳥居をくぐるとき、そのわたしは自身がいる場所を理解しているようだった。


 夢のわたしはひとりではなく同伴者がいて、それがいつもセッションにいらしてくださるかたで、彼女と小高い山のような、古墳なのか、そのようなもののうえを一緒に登った。


 実際の氷川女體神社にはそういうものはないはずで、しかしそれも意味のあることだったのだろうと思い、夢の同伴者だった彼女は以前から大宮のほうの氷川神社にも縁のあるかただと強く感じていたので、お逢いする機会(不思議なことでもあり自然な流れでもあるのだろうけれど、その夢をみた翌日にご予約をいただいた)があったときに「訪われるとよいのではないか」ということをおつたえした。


 それでどうするかは相手次第。そのメッセージを受けとるのも流すのも自由だし、だからおつたえしたところでその件は終わりだろうと思っていた。


 けれども日にちが経つごとに「なんだか自分も呼ばれているような気がする」という気持ちがおおきくなっていった。


 「なんとなくそうしたほうがいい気がする」というのはいつも自身からの伝言であるし、その“なんとなく”に“なぜ”の理由をもとめようとすると途端に重くなる。


 「なぜそうしたほうがいいのか」「それをしてどうなるのか」の説明をもとめ、思考を納得させたがるほどに重くなる。


 「重くなる」とは「本来の自分ではいられない」ということ。


 それを踏まえなくてもわたしの“なんとなく”は、「そうしたほうがいい気がする」を行動に移すまで訴えかけてくることが多く、そのときもそうだった。


 このタイミングで友人と逢うことになり、そのひとが氷川女體神社からほど近い距離の場所に住んでいたので、これはもう完全にそうなのだなと思い、その日にふたたび夢でみたあの石段をのぼり、あの鳥居をくぐることに決めた。



 それは折しも5月の満月の日だった。


 “女體”とは女神のことであり、女神とはこの社のご祭神、須佐之男命の妃である稲田姫命のこと。


 その名のとおり花びらをふくんだようなやさしい風が吹く場所で、 氷川女體神社をはじめて訪ったとき、左半身にあたたかいものが入ってくるのを感じたことをよく覚えている。春の太陽を抱きしめたらこのような感じがするのではないかと思うような、深い慈しみが感じられるエネルギー。それは稲田姫の息吹。


 肉体の左半分は女性性をつかさどる領域。


 そこに“聖なる女性性”の顕現である女神が入ってくるのを感じたいつかの記憶は、わたしにとってとても大切なものだった。


 そしてその日とおなじように、5月の満月の日も柔らかな花びらみたいな息吹を全身に浴びることができ、なかなかその地から立ち去りがたく、できるならずっとそこに佇んで樹々の梢を仰いでいたいほどだった。


 またきっと逢いにゆく。


 ありがとう。





 

2024/09/25

レーズン





 本筋とは関係のない、ある彼女との会話より(人魚が教えてくれた歌 2024.9.19/「レーズンが入ってる! 大丈夫?」


 彼女とはじめて出逢ったとき、なりゆきで「レーズンが嫌い」なこととそれにまつわるささやかなエピソードを話したら、それが思いのほか相手の心象に残ったらしく、その後顔をあわせるたびそのエピソードを持ち出して、初対面の第三者がいる場合などでも「“わたし”という人間はこういうひとだ」という紹介のように披露してくれる。


 よほど気に入ったようだと感じ、あるとき「その話、好きね」とわたしがいうと、彼女も「好き」と頷いて笑っていた。


 わたしは物心というものがつくまえのほんの子どものころから一貫してレーズンが嫌いなのだけど、それをいうといささか驚かれることもある。


 シュトーレン、レーズンサンド、ラムレーズンのアイスクリーム。一見すると、レーズンの入ったそういったお菓子を好んで食べているように見えるらしい。


 レーズンをはっきりと“嫌い”と認識したのは小学校に入るまえで、それが混ざったパンをいただいたときに口のなかにひろがる味も歯にあたる触感も、飲み下したときに自分のからだのなかに入ってゆくときの、なんともいえない詰まり、自由に呼吸ができない感じ、とにかく自身の全身でそれを拒絶していたことを覚えている。


 そして幼いわたしはこの嫌悪感(という言葉を当時は知らなかっただろうから、おなかのあたりがむかむかする感じ、もやもやする気分、みたいな語彙でつかんでいたのかもしれない)はなんだろう? と思い、「これが“嫌い”という感情か」という理解に至った。


 ということは、それが“嫌い”を認識した最初の場面ということで、それまでそういう気持ちになることはなかった、あったとしてもそこまで強烈には感じなかったということになる。


 そのようにしてレーズンはわたしに、はじめて“嫌い”という気持ちを教えてくれたわけだけど、好きも嫌いもそれをとおして“わたし”という人間のかたちを知るためのものであり、それだけのこと。


 幼子が自身の好悪を「これが“嫌い”という感情」と客観的にとらえて認識しようとしているところが彼女には興味深く面白く感じられるらしく、このエピソードが好きなようだ、と受けとっている。


 わたしも現在のレーズンに対する気持ちはあの強烈な拒絶よりはだいぶ緩和して、「食べようと思えば、食べられないこともない」くらいにまで和解した。


 できれば遭遇しないに越したことはないけれども。





   

2024/09/24

お菓子のジュエル








 素敵なかたからいただいたお菓子の缶が幼いころに憧れた宝石箱みたいで、きれいなものをそのままそっとしまい込んでおきたいような気持ちから、しばらく封を解けなかった。





 なかに納められていたのは、菫の花、そしてジュエルのようなクッキー。

 よく見ると蓋にもその花の刻印が。





 余談として。

 よく新月や満月の節目のたびにカードを引くのだけど、このお菓子のジュエルをいただいたあとの月の満ち欠けのさいにあらわれてくれた1枚は「三色菫の媚薬」だった。


 ――“幸いのために使うと誓うなら 摘むことができるでしょう”






2024/09/23

あるローズマリーの記録





 無花果のパフェについていたローズマリーを持ち帰り、ガラスの器で少量の水につけていたら根を出してくれたのが、去年の秋のはじめのこと。




 いただいたときのまま金粉をまとって、このハーブに特有の深い浄めの香をすこやかに放ってくれていた子をちいさな鉢に植え替えた、秋の終わりの記憶。





 それからずっと元気なままでいてくれて、もうすぐ1年。

 だいぶ背丈も伸び、こまかく枝分かれする様子も見られるようになってきました。

 そろそろ鉢のお引っ越しの時期かな。あとすこしだけ涼しくなってきたら。



 大好きなローズマリー。

 聖母マリアの薔薇。





2024/09/22

秋分






 秋分の日に、菊花が浮かぶお茶を。
 茉莉花と千日紅の香も、ほのかに淡く。


 可憐なかたからいただき、秋分の夜に淹れようと決めていたもの。
 “愛らしい乙女心”という名がついているのだそうです。


 世界がおおきく切り替わるとき。

 美しいものに触れ、心傾ける時間、安らぎとつながり、ほっとひと息つくひとときを大切に。


2024/09/21

“流れ”






 石笛にやたらと心惹かれて手もとにやってきてもらったのはいつだっけ。


 梓弓という言葉がいつまでも離れてゆかなくて、弓はわたしにとってとても重要な意味をもつものだし、と思いお迎えしたのは去年の秋だった。


 今年は夏から思春期以来くらいに万葉和歌が再熱して、そのほか諸々の省略とともに、そんなふうにして抗いがたい一連の流れがある。


 その流れは自分のなにかを“温故知新”しようとしているのかしら、などと感じたりしながら。


 冬の終わりくらいから、琴(箏)が無性に気になって和箏を習うかも、の一歩手前までいったこともあった。


 結局自身の覚悟がさだまらず、心の動きが“流れ”と真に共鳴しなかったので、保留中。


 いまはそれでいいかな。




古代の鏡




 古代の鏡に惹かれつづけている。
 もうずっと、長いあいだ。




2024/09/19

人魚が教えてくれた歌






 夏が盛りを迎えるまえの日、朝から曇天で、でも不思議と目的地に着くころには熟した白い果実のような太陽が陽をさした日、ある彼女と海へと繰り出し、岩場に腰かけながら教えてもらった歌を、この夏、折に触れてよく唄ってた。


 名月の日も、月にむかってあの歌を唄った。十五夜はとくべつな日だから。


 あの日、海と太陽にむかって唄ったとき、おひさまは白く発光した真珠みたいに輝き、それを中心として雲が薄紅色に染まり、それが花びらのようにひろがって、空に大輪の花が咲くのを見た。


 チーズケーキ(「レーズンが入ってる! 大丈夫?」と彼女が目をまるくしていたことを想いだす)とボウルに入ったあたたかいカフェオレをいただいたあと、ふたたび日没の海で砂浜の砂が靴のなかに入るのに笑いあいながら、今度はその歌を月にむかって唄った。


 水面に月あかりが反射するさまは、光る鱗のようだった。


 そこにマーメイドでも潜んでいたのかもしれない。


 彼女のことをはじめて逢ったときから人魚のようなひとだと思ってきたから、それは彼女の仲間だったのかもしれない。


 人魚は月の一族。


 十五夜に唄った歌は、その日の記憶とつながっている。


 名月の日、お月見をしていたら、真夜中をとうに過ぎてしまった。


 はじめは白い錠剤のようだった月が、次第に金色の光を帯びて、纏う空気に紗がかかり黄金の稲穂色に変化してゆくのがうつくしかった。


 月にむかって唄うたび、薄く纏う布が剥がれ、本来の色に近づいてゆく光の黄金を見つめながら思ったことは、あの日太陽を眺めながら感じた気持ちとおなじものだった。







 

2024/09/17

光を言祝ぐ






 「光を言祝ぐ」とはどういうことなのかを、ここのところずっと自分自身に問いかけている。


 「少女は言語でしか世界と戦えない。それは護身用のナイフみたいに大切なものだ。たぶん、わたしにとっても。」という文章を、いつかどこかで綴ったことがあって、十年をひと昔とするならばそれくらい遡ることのできる、かつての自分の言葉として覚えている。


 わたしにとっての“言葉”はいつも、いかにして「醜いものを美しいと錯覚させるか」ということが主題だった。


 言葉はそのための、magicとしての装置だった。


 自分の心にかなう美などこの現実にありはしない。現実にないものなら夢のなかでそれを築いてしまおう。贋金をつくるように、わたしの美意識で統御された夢の錬金術で、わたしの規律によってのみ呼吸する“うつつ”を、この世界の裏側に出現させるために。


 つまりそれは、自分自身のための麻酔薬でもあった。


 たとえば日本神話のなかで伊邪那美命は、みずからの死によって愛する伴侶との別離にあったが、のちに彼女の夫は恋しい妻を訪ねて黄泉までやってきた。


 「あなたの知っているわたしの現身は腐敗してしまったから、わたしがいいというまで、そのわたしを見ないでください」と彼女は夫にいったけれども、しかし待たされているあいだに不安になった夫は、忠告を破って彼女の姿を見てしまう。


 美しかった妻の、黄泉の醜を纏い変わり果てた姿に恐れおののき、その場から逃げ去ろうとした男に、いたく傷つき誇りを損なわれた彼女は、もう二度と“死”によってわかたれるよりまえに巻き戻ることはなかった。


 姿も、関係も、あるべき場所も。


 この伊邪那美の悲しみの涙と冥府の匂いを清潔な水で浄めて、化粧を施し髪を梳いて、そのひとつひとつの行程ごとに幾度も、「あなたは美しいんだよ」と囁いてゆくようなこと。


 わたしが言葉によってしたかったこと、しようとしてきたのはたぶんそういうものだった。


 醜の悲しみによって開いた淵としての傷口を縫合してゆくようなこと。


 けれでも世界を拡げ、視野を拡げるうち、それはすなわち傷が癒え、痛みが溶けてゆくうちに、とおなじ意味だけれども、わたしは「現実にないものを創りだすための夢」としての“言葉”を、それまでよりも必要としなくなった。


 自分自身のなかの穢された美とでもいうべきものを再生させるため、涙を結晶のように見せるためのmagicとして言葉を用いることを、よしとしなくなった。


 伊邪那美ははじめから美しく、だからその“醜”の欠落を光によって埋めようとする必要もない。


 そのような期間、時代がしばらく(かれこれ三年以上はそう)つづき、しかし今月に入って突然、なぜだかほんとうに唐突に、短歌をつくりたいと思うようになり(これまで一度たりともそうしたいと思ったことはなかったのに)、その気持ちのままに言葉をならべたいくつかを見れば、やはりわたしの長年の習癖というのか、「醜を美に」の価値観が残っていて、苦笑を誘われた。





 こうではない、と思った、少なくとも“いま”は違う。


 そのとき、ふと自身のなかからあふれてきた歌が、“いま”のわたしにおそらくはとても近く、ここからならはじめられそうだ、と感じた。


 先日載せたけれども、あらためて。


 



 黄泉を光にしようすれば、それは黄泉を忌避することになる。影を無視した光は光ではなく、しかし黄泉を呼び出すためだけに、その名を唱えてはいけない。それに呑み込まれ呪縛されてしまう。


 そういうものはわたしにとって“祈り”の形式ではなく、“祈り”から遠ざかった“言葉”は、“神聖さ”からも遠ざかる。


 “神聖さ”から遠ざかった言葉は、それを用いた者を苦しめる。


 はじめから“ひとつ”であるならば、そこに抵抗や対立は生まれない。


 わたしは長いあいだ、自身の“石”を磨いてきた。それは同時に“花”を育ててきた、ということと同義語であると知っている。そしてつぎは、その石と花を融合してゆく(“ひとつ”にする)ときなのだろうと今年の初夏のあたりから感じていて、それは予感、といってもいいような、それを「知っている」という感覚で。



 石長比売と木花之佐久夜毘売
 ネフティスとイシス
 ペルセポネとデメテル
 エレシュキガルとイシュタル
 黒闇天と吉祥天



 神話では対となる女神が闇と光で表現される。


 それはおなじひとりの女神の陰と陽の側面。


 もとは“ひとつ”であったもの。


 「“光”を言祝ぐ」とはどういうことなのか、ここのところずっと自分自身に問いかけてあらわれた、ひとまずの現時点における結論のようなものとして。


 名月の夜に。





 

いつもなにかが浮かんでいる






 トレヴィルの表紙を見て浮かんだ言葉。


 眠る女は小野小町、黄泉の女は和泉式部。


 〇思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

 〇物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る


 基本だけれど、やっぱりいいな、素敵だなと思う。大好きな歌。