2026/02/28

2月の一斉遠隔ヒーリングのご報告









 2月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへの月末の一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 このたびのキイワードは、火、リセット、分散しているものをひとつにする、中心に戻す、とつたえられました。


 あなたがたには物事を俯瞰的に見よう、捉えようとする聡明さがあります。


 目に見える物事を超えて、その奥にあるものを観測しようとする誠実な姿勢もまた持ちあわせているため、ご自身が思っている以上に「自分ではないもの」へエネルギーを注いでいます。


 あらゆる情報を“外”から読みとっている。そのようにして読みとった情報、「自分ではないもの」のリセット。


 自分自身の中心軸に戻す。


 また、このエネルギー遠隔では、火のエネルギーの浄めと癒しが深く立ちあがっていました。


 以前に何度かBLOGでも綴りましたが、今年は“火”をどう扱うかということが、とても大事になると思います。


 これは去年の12月くらいからすでにその兆候を感じていたかた、その兆候となる出来事を経験されたかたもいらっしゃるのではないでしょうか。


 みずからの“火”がどのような状態であるのかを、意識してあげる習慣をもたれるとよいのではないかと感じます〇


 火と水は対となるもの。


 火を水によって消すのではなく、水を火によって蒸発させるのではなく、どちらも存在させながら、自身で統御させてあげることによって力を発揮させてゆくもの。


 コントロールを“外”に対しておこなおうとするとき、枯渇や欠乏の意識に支配されます。


 それは自分自身の“力”に対しておこなうもの。


 そしてこれは「我慢」や「忍耐」のことをいっているのでは当然なく、健全な「自制」の領域における話です。


 癒されてない“火”が欲望や感情を発火させ黒い火を燃えあがらせるとき、それは傷ついた自己の痛みからの訴えです。


 いまはとくに、“外”に意識をむけること、情報をあつめることよりも、意識をやすめる時間をとること、“内”にフォーカスしてあげてください。


 “外”にあるものにエネルギーを注ぎすぎる傾向にあるとつたえられています。


 “外”にむけていたものを、“内”に還す。


 そのありかたは、いまもそうですが今後大切なものになってくるので、それをお心にとめておいてください。


 このたびはそれぞれの“火”にアクセスし、それぞれのいまの段階においてその“火”を自分のために使うために必要なエネルギーをお送りしたとのことでした。


 以上になります。


 このメッセージがなにかお気持ちに触れるものがありましたら幸いです。そしてメッセージには記していないことであっても、ご自身で受けとられたものがありましたら、ご自分の感覚、受けとられたものを大事にして差しあげてください。


 今月もご縁をいただき、ありがとうございました。


 あなたがいつもあなたでありますように。








   

2026/02/27

常磐










 時を遡って、去年の11月。


 猪苗代湖を旅されたかたから、あるメッセージが送られてきました。


 「福島に行く新幹線があなたの翡翠色にコノハナサクヤ色のボディラインでした」


   (撮影 MAJO)


 わたしが翡翠という石、その石にまつわるもののなかに自分のなにかが通じていると感じること、深い共鳴を覚えていることは、すでに幾度か綴ったとおりですし、彼女はそれを知り、これまでを見守ってくれたひとでもありました。


 だから彼女がその色を見てわたしを想いだしてくれたこと、写真を送ってくれたことが嬉しく、そのときはそれで終わったのですが、今年の1月に大宮に足を運ぶ用向きがあり、電車から窓の外の風景を眺めていると、不意に目のなかを見覚えのある列車が走り抜けてゆき、すぐにそれが写真で見たそれとおなじものであったことに気づきました。


 わたしのまえにこうしてまたあらわれた“翡翠色”に必然性を感じ、その場で調べたところによると、それは東北新幹線「やまびこ」で、翡翠色の部分は「ときわグリーン」と名づけられていることを知りました。


 「ときわ」というのは漢字で「常磐」のことですが、その言葉から連想するものとして、心にひとつの絵が浮かんできました。


 3月に草舟あんとす号さんで開催するふたり展、『片翅の泉』にて、まさに『常磐』という題の絵を、ご一緒させていただく画家のyukaneさんが描かれています。


 わたしはその絵をはじめて目にしたとき「イワナガヒメだ」と感じたのですけれども、「コノハナサクヤ色」と写真を送ってくれた彼女があらわした色と「ときわグリーン」がならんでいたことで、そのことを想いだしたのです。


 そこであらためて「常磐」という言葉の意味を紐解いてみました。


 常磐は、“常”に変わらない“岩”のこと、「とこ(常)いわ(岩)」が略されたもので、永久不変のこと、変わらない性質を保ちつづけること、そのようなありかたを岩石のなかに見ることを指し、冬においても葉が緑のまま変わらない(一年中“不変”な)樹のことを「常緑樹」といいますが、もともとはそれも「常磐木(ときわぎ)」と呼ばれていたのだそうです。


 さらに「常磐色」と名づけられた日本の伝統色は、「松や杉のような常緑樹の葉の色」「永久不滅や不老長寿といった意味あいがこめられている」とあり、翡翠という石と松の木に共通するものが宿ることを去年から感じているので、その説明にパズルのピースがまたひとつ、嵌まってゆくような感覚でした。


 日本の神話に興味のあるかたはご存じだと思いますが、イワナガヒメとコノハナノサクヤヒメという姉妹は「岩の永遠」「花の繁栄」をそれぞれつかさどるとされ、陰と陽の対となっています。


 yukaneさんの『常磐』は、ぜひ展示をとおしてご覧いただければと思うのですが、過去にやはり草舟あんとす号でひらかれたyukaneさんの個展『繭の森 3』のさいにお迎えし、いまはわたしのところにいてくれている『澪 ー散華ー』という絵とこの『常磐』は対になっているように、ひと目見た瞬間からわたしは勝手に思っていて、『澪 ー散華ー』のなかにわたしはずっと、コノハナノサクヤヒメ、そしてそのときどきでミズハノメノカミやセオリツヒメの息吹も感じてきたのですけれども、このお話はまたいずれ、機会がありましたら*


   ( yukane『澪ー散華ー』 )



 ちなみに「コノハナサクヤ色」と彼女があらわしてくれたやまびこのボディの色は「つつじピンク」、白い部分は「飛雲ホワイト」という名がついているのだそうです。


 桜ではなくつつじなのね、と思いつつ、つつじは「叡智」を示す花でもあるので、「太古の岩の記憶」に通じるものとして、もしかしたらイワナガヒメの花でもあるのかもしれないな、と思ったり。


 やまびこのピンクが、つつじ色でもあり、さくら色にも見えることは、なんだかわたしをやさしい気持ちにさせました。


 かの女神たちが白い雲のかたちをした竜にのって、空を飛ぶ姿を思い描きながら。










     

双子の星










 国分寺の双子の星さんにて、私家本『天の花 地の星』をお取り扱いいただいてます。





「天の川の西の岸にすぎなの胞子ほどの小さな二つの星が見えます。あれはチュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さまの住んでいる小さな水精のお宮です。このすきとおる二つのお宮は、まっすぐに向い合っています。」――宮澤賢治『双子の星』



 賢治の物語より名づけられたお店のそば近くには、そのお話のなかの世界みたいに、人々に慈しまれている天の川のごとく澄んだ川が流れ、滾々と湧く水に満ちた泉があり、そしてこの“すぎなの胞子ほどの小さな”やさしい場所に、チュンセ童子とポウセ童子が住んでいます。





 このふたりの童子の傍らにはそれぞれ水晶が置かれ、ふたりは向かいあい、その眼差しをかわしあっています。


 賢治が綴った、物語のなかのように。


 このお店のご店主は、ふたりの童子と通ずる魂をもつひとだから、その眼差しが交差しあうところより生まれる力から、彼女とこの場所を守っているのだろうと、わたしはよく感じたりします。


 天から降ってきた星が花となったようなミモザをシンボルツリーとされるこのお店に、“星”の縁で本を置いていただけることになりました。


 双子の星さんではオーガニックの珈琲豆が販売されていて、ご店主が描かれたかわいい絵がパッケージになっています。そして“星”にまつわるさまざまなものが棚にならんでいて、どれもこのお店の空気と共鳴する、やさしくてあたたかな気配を纏っています。


 それはこの「星のお部屋」のあるじが、空に瞬く星のひとつとして見落とすことのないようにと目を配り、目には視えない星にも想いを馳せている、そういうひとだから、彼女の“小宇宙”であるお店にならぶものたちは、とても大切に目と心を配られていることも、おおきな理由のひとつだと思っています。


 実店舗の営業日は金、土、日の10時から18時まで。


 ぜひ足を運ばれてみてください。



  °˖✧


 ✣双子の星✣


 access 東京都小金井市貫井南町4-29-16 中央線 国分寺駅より徒歩19分 貫井神社からすぐの場所

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2026/02/26

天を仰ぐ










 天を仰ぐ猫さん。


 その瞳になにを映しているのかな。



 (宮地淑江 作)








2026/02/25

「富士に舞う」










 先日、コノハナチルヒメという女神の話をしていたとき、わたしが「かの女神に椿の花を感じる」というと、「コノハナチルヒメはイワナガヒメとコノハナノサクヤヒメが統合されたお姿なのかもしれない。椿はそういう花なのかもしれない」とあるかたがおっしゃっていて、後日訪れたJanus Creationの2Fギャラリーで『富士に舞う』という名の絵を目にしたとき、その話を想いだした。


 椿の花、その花びらからなるふたつの蝶、散る華、そして富士。





星のお部屋







 双子の星さんへ。


 シンボルツリーのミモザに迎えられて。


 この星のお部屋に入ると、すべてのものがひとつずつ心を傾けられ、大切にされている気配を感じて安心する。


 だからその棚からお迎えするものは特別な意味をもち、そこからまたひとつ、わたしだけのお守りをお迎えした。


 そしてうかがうたび、何種類もならぶジャムの棚からそのときの気持ちに沿ったひとつを選んでくる。


 今回は桃と無花果のジャムに惹かれた。魂の滋養となるだろう果物のくみあわせ。











『ぬくもりのかたち』 at Janus Creation










 Janus Creationの『ぬくもりのかたち』展にて、かわいい子たちに逢えました。


 仏像で最後に“目”を描きこむことによって、それまで物であったものに命を吹き込む、力を宿らせるという儀式があるけれど、amiさんの動物たちがこちらを見つめる目のなかに浮かぶやわらかい力に、その話を思い出した。





 ふたつの目の色が異なるひつじとも、長いあいだ見つめあっていた。


 たくさんの夢で羽毛をふくらませているよう。


 羊は寂しがりやで一頭では飼育できないのだと、オーナーさんが教えていただく。


 群れのなかで一頭が病を患えば、つぎつぎにそれが伝染してしまうのだとも。


 共感性がとても高い、やさしい生き物なんですね、という話をしながら。








holy gardenから











 草舟あんとす号さんの本棚から『真夜中のしろねこ』を。


 なにもかもがお洒落。誰もが寝静まった夜という時間をひと匙掬って、ホットミルクに溶かしたようなやさしさ、遊び心。


 「星の王子さまを読んでいるみたいな気持ちにもなる」というご店主の言葉に、この本に惹かれる気持ちが凝縮されていた。





 コナフェさんで黄色い菫の花飾りをつけた横顔の女の子のクッキーを見つけ、イエローという色がもつ活力、希望、星というキイワードからとっさに思い浮かべたひとに流れ星を届けるように持っていきたいと、自分用の焼菓子とともに包んでいただく。


 ほっとするやさしい味。


 holy gardenの植物みたいに。









『すみれの花の砂糖づけ』 at コトリ花店










 コトリ花店さんが去年の『すみれの花の砂糖づけ』のときに、2月のことを「菫月」といっていたのが美しく印象的で、また樹が年輪のひと巻きを刻む時間が巡ってきたとき、ふたたびこの空間に、この月の誕生石であるアメジストの色をした菫の花が咲くのだろうと楽しみにしていた。





 今年も「菫月」がやってきて、白い空間に満ちるたくさんの菫の花々に出逢えたことが嬉しい。あたりまえのように感じることは、すべて“あたりまえ”ではない維持の力でなりたっていること、とくにここ最近はよく感じる。


 菫の葉っぱの装飾品、慎ましさと気品を同時にあわせもつあの花そのものの佇まい。





 そしてその日、holy gardenでは菫月を祝うお茶会がひらかれていた。









2026/02/17

鳴り響く太鼓の音







 話は前後するけれど、数日まえに去年の12月くらいからずっと呼んでいただいていた、待乳山聖天さまへとうかがってきました。


 そのまえに桜神宮さまにもご挨拶へ。


 もう河津桜がほころんでいて、今年もこの季節がきたんだなと思いつつ背をむけて鳥居を出ようとしたとき、太鼓の音が境内から響いてきて、思わず振り返ってしまった。


 11月の旅のなかで大宮八幡宮で耳にしたのとおなじ太鼓の音だった。


 あのとき「これは幕が閉じる合図」という会話をご一緒したひとたちとかわしたことを覚えている。


 そしてこの太鼓の音もまたそうなのだと、おなじようにそのあとうかがった待乳山聖天からお暇するときもやはり、その地をあとにするタイミングを待っていたみたいに背中から太鼓が鳴り響き、大宮八幡宮、桜神宮につづいて三度目の見計らったような和太鼓に、「これは偶然ではない」と感じざるを得なかった。


 そのあとに誕生日、金環日食の新月という流れ。


 このような流れのなか、おそらく無意識で「この時機にうかがう」と決めていた場所を巡ってきたこと。





 桜神宮さまの河津桜。


 この場所は河津桜を春のはじまりとして、そのあとも数種類の桜の花がつぎつぎと開き、すべての桜がその年の花の巡りを終えたとき、夏がやってくる。そういうサイクル。





 待乳山聖天さまは、聖天さま=歓喜天をお祀りしているお寺。


 歓喜天はもともとインドのガネーシャ神と同一の存在で、だからそのお姿を顕すとき二頭の象が抱きあっている姿で描かれる。


 けれども「聖天(大聖歓喜天)」という名で呼ばれるとき、歓喜天は十一面観音と統合され、歓喜天と観音が抱擁するお姿で顕される。


 待乳山聖天は浅草寺の観音さまとも縁深く、ここに十一面観音がいらっしゃるのもそのためなのでしょう。


 (そしてわたしも浅草寺の観音さまと縁が深いから呼んでいただいたのかもしれない。わたしの育った家はいま思うとどうしてそうだったのか、子どものころ、お正月の初詣といえば浅草寺でした)


 ちなみに浅草寺の観音さまは聖観音ですが、観音のご眷属が龍であり浅草寺に金龍がいらっしゃるように、この待乳山聖天にもおなじ龍がいらっしゃり、話によると待乳山聖天は浅草寺よりもさきに建立されているとのことなので、その一帯を守護されている龍なのだと感じます。


 ここでは大聖歓喜天に大根をお供えする風習があり、わたしもそれに倣って。


 境内にもたくさんの“大根”を見つけることができた。


 そのどれもが「ふたつが抱きあう」という構図をとっており、それぞれ歓喜天と観音が抱きあい“統合”されたお姿をあらわしているのだと思いながら。





 「どんな困難でも打ち砕く」というガネーシャ神と同一の歓喜天さま(大聖歓喜天)は、「どんな難題でも乗り越える」「あらゆることを叶えてくれる力をもつ」とされますが、境内にいるとたしかにすごく重い気をあらゆる方法で祓っているのをひしひしと感じ、そのひとの“難題”となっているもの、叶わないものの“根源”にあるものを動かす力、要するにとても重い石をどかすお力というものを、強く感じた。


 人によってはおおきなデトックスをともなう力ではあるでしょうが、それはそれだけそのひとのなかに「動かしたほうがいいもの」がたくさんあったということで、それに気づきクリアにされるのは、とてもありがたいこと。





 ところでずいぶんまえから至るところで「太田道灌」というキイワードを受けとっているのですが、ここでも思いがけずその名に出逢いました。


 去年の年末から今年の年始にかけて、すこしその意味も解読されたのだけど、自分にとってそのとき必要である場所でまたその名に出逢うのだろうという予感を覚えつつ。








新月、金環日食まえの花々










 おともだちの梅の木。


 夜道を歩いているとふんわりと甘い香りが漂ってきて、はっとしながら足をとめるとき、この木が花をつけたのだと気づき春の訪れが近づいていることを感じる。


 そんなふうにしていつも、わたしの春は予兆され、はじまる。


 家のそばの道にあるこの梅の木が大好きで、花が咲いていないときでも薄闇のなかに佇んでいるのを見かけると挨拶をする。


 梅は夜のなかでも香りで存在を知らせてくれる花。


 気品と清廉。


 今年も花をつけてくれていたけれど、香りはこれから高まり満ちてゆく気配。


 あの空から降りてきたような(だから吸い込むと昇っていくような)香りが待ち遠しい。


 今夜の金環日食をともなう新月が、水瓶座29度のサビアンシンボル「さなぎから出てくる蝶」で起きると知り、とても感じるものがある。


 その“羽ばたき”が象徴するのは、たしかに風のエレメント。


 蛹というひとつの殻を破って脱皮し、あらたに生まれ変わる革命、解放、自由をつかさどるのはアクエリアスの力。


 昔からサビアンシンボルの29度は「涙の度数」といわれるけれど、それはふたつの世界の狭間で葛藤を抱くから。


 蛹と蝶の、蕾と花のあいだ。


 新月の羽化。


 花ひらくとき、つぎなる世界へむかうために、置いてゆくと決めたもの。


 “蝶”はずっとわたしの大事な主題。


 そして水瓶座でもあるわたしには、おなじく重要な新月。


 「蛹からの脱皮」を暗示する新月のなかに、変容をうながす「日食」が内包されて、それはすごくおおきな力。


 



 近くの天満宮さまにむかう道に咲く梅の花。


 この梅をはじめて目にしたときは河津桜か桃の花なのかと思ったくらい、きれいなピンク。


 堂々とした枝ぶりで、それは天からの梯子みたいに無数にひろがりをもち、花の祝福を届けてくれる。


 この世のものとは思えない風景。








2026/02/16

翡翠原石館







 翡翠原石館へ。


 年末からの目まぐるしさがすこし落ち着いてきたので、去年のいまごろからずっとうかがいたかった場所に、1年越しにようやく。


 「月光浴」とは、月のきよらかな光を浴びることで心身もまた鎮静される、安らぎを自身のなかに迎え入れるひとときのことを示すけれど、石と月には根源をおなじにするような静けさがあり、石を眺めることで自分のなかに訪れる沈黙の束の間を、いつからか「水晶浴」と呼んでいる。


 だから水晶浴ならぬ、翡翠浴の日だった。


 翡翠の女神ヌナカワヒメと使わしめであるカワセミのモザイク壁画は、すべてその石からつくられたもの。


 「ひとりの女性が美しくありながら賢くもあるということを、ひと目見てわかるように顕すのはむつかしい」というようなことを館長がおっしゃっていた。


 賢し女(さかしめ)麗し女(くわしめ)の女神。




 この場所はもともと、父が縁のある場所であり、教えてもらった。


 神話に興味のないかれはヌナカワヒメという女神のことも知らないので、この壁画を日本の聖母マリアかなにかだと思ったらしい。


 けれどもそれも完全な的外れとはいえなくて、“聖なる母”というところが通じているし、ヌナカワヒメは日本の“聖母”ともいえるおひとりではあるから、むしろ鋭いのかもしれない。


 そしてなぜ父が“聖母”を感じたのかといえば、そこに美しさと賢さを同時に内在するものを視たからなのではないだろうかと。


 “慈愛”というのは、そのふたつが共存してはじめて外にもあらわれるものであるように感じる。



 「見てください、石の上に黒豹がいるでしょう」と教えてもらい足もとの翡翠に目をやれば、たしかにそこには黒き獣の気高きかたち。女神がカワセミにむける慈愛の眼差しのごとき視線のありかたを、数々のエピソードからも教えていただき、石のかたちをいかすことにまつわるお話も印象に残った。


 翡翠からつくられた不動明王尊。火を背負いながら下には水があるのだと、館長の言葉。



 展示室に飾られてあった万葉集から。


 「渟名河の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜しき君が 老ゆらく惜しも」

 「天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも」


 ヌナカワヒメを歌ったといわれる“底なる玉”と、ツクヨミの“変若水”の歌、それぞれは知っていたけれど、ふたつの歌がつながりをもつ反歌であると考えたことがなかった。いわれてみれば「“あなた”の在りし日の美しさ」を偲ぶという共通のテーマがある。


 美しさとはなにかと思うとき、“あなた”の色が衰えることの侘しさを歌い、それを狭める姿勢に疑問は残るけど(古今で小町が自分自身の“色”を歌ったのとはまた話が違う)、あの歌とこの歌がつながっていることを知れたのは嬉しいこと。石をとおしてたくさんの示唆をいただいたひとときだった。


 翡翠の浴槽。ここで水浴びをすれば、ほんとうに“翡翠浴”かもしれない、などと思いつつ。



 2号館はいまおやすみ中とのことだけど、壁にカワセミの姿が見られる瀟洒な建物にとてもときめいた。今回滞在した1号館はもともと敷地内の桜の樹が切られてしまうことを館長が知り、保護する目的で購われた場所だとか。


 その桜の花が咲くころに、できればまた訪いたい。







2026/02/13







 数日まえに降った雪。


 銀の世界。


 先日の富士の泉の旅で幾度も眺めた富士山の頂の白、あの富士のまわりの水辺は雪解け水であふれていたこと、去年の諏訪で「雪は祝福なの」といいながら、天から降ってくる白いものに手をかざしてくるくると踊ったこと、“雪”という字が名に入った松と関わりのある、わたしの家系の縁深い女性。


 雪の降る日に生まれたのだとわたしがいうと、ヌナカワヒメもおそらくはそうだったみたい、と返ってきた言葉。


 雪は浄め。


 “道埋まるまで雪は降りつむ”と思えたとしても、


 それは祝福。








2026/02/12

富士の泉







 2月も中旬にさしかかろうとするなんて信じがたいほどで、あの富士の泉で過ごした濃密な束の間が、すごく遠く感じられます。


 それは時間が経ったから“遠く”感じられるというよりも、帰ってきてからすぐ、3日と経たないころにすでにそのように感じられました。


 「まるで竜宮城から帰ってきたような」と去年の11月のふたつの旅に対して思ったものですが、今回もそのような感想が自分のなかに深くあります。


 “竜宮城”という場所は、この現の境目と次元を超えた場所にあり、旅というものは、とくに今回のような目的、旅の仲間となるひとたち、おなじ星座のそれぞれが独立したひとつの星になりうるひとたち、繋がり集えば空におおきな絵を浮かびあがらせ、顕すことができるひとたちとする旅というのは、そのような色を濃く帯びるのだと思います。


 つまりは境目と次元を超える旅。


 ずっとずっとわたしのテーマである、イワナガヒメ、コノハナノサクヤヒメ、そしてかぐや姫。


 長い間惹かれつづけてきたことやものには意味があるのだと、ここ数年答えあわせをしているみたいで、これもそのような“答えあわせ”の旅でした。


 火と水。対となるもの。

 鏡のごとき泉に映るものは。

 人魚と龍神。

 富士山、不死山。かぐや姫はここから月に還ったのだという、天にもっとも近い山。



 (写真 坂本憲司『富士山とお月様』)