今年の11月は旅のためにあった。
天橋立にいたる路と、諏訪からの巡り。
そのふたつはまったく別のものであるように見えながら水底でつながり、それがわたしのなか筒のごときものを、また拡大拡張し、そしてすべては定められた時に起きることを教えてくれる。あらゆるものには“つながり”があり、それがむすばれてゆく時機がある。その時機を迎えたこと。
すべての出逢いも出来事も、ただの点ではなく、季節とともに線が描かれてゆく。わたしが深く“わたし”とつながるにつれて。
それは空の星座のようで、今回は8つの星で“八乙女”たちと星座をつくった。
海の懐に抱かれながら過ごした3日間の旅。
夜に眠りに就くときにも波の音がしていて、この音をずっと聴いていたい、まだ起きていたいと暗闇で目を閉じたまま夢うつつを漂っているとき、肉体も意識も海のうえに浮かんでいた。
そしてそのとき感じた揺籠のような安心と信頼は、この旅の象徴でもあった。
これでひとつの“巡り”がおわり、そうして完結したところから、ようやくつぎの輪が廻りはじめる。
そういえば、この旅の最後に3度おなじ洞窟のなかを巡ったけれど、偶然ではなかった。3回失くした指輪との連動。そしてつぎの“4”がくる。
蝶の翅の数。
五色の青に輝く瞳の奥の通路から、純粋な愛をとどけてくれた白竜さんたち。
遊びおわると日向ぼっこでお昼寝をしていた。そっと触れさせてくれた鼻先の、柔らかでやさしい感触。
おなじ場所から眺めた富士。
日が暮れるにつれ刻々と浮き彫りになる姿に、影があるからそこに光があることがわかる、姿をはっきりと捉えることができるのだ、ということを再確認したりなど。
「江の島がクジラみたいだね」といっていたのが誰の声だったのか想いだせないけど、たしかにと。
楽しくて美味しくてあたたかな笑いに満ちた旅、思えば“竜宮城”への滞在のようだった。
初日のピクニックのお弁当だけ、かろうじて写真におさめてあった。
このあと「ぐりとぐらのケーキのような」と歓声があがった、夢みたいなふわふわのカステラケーキまで登場したりして。
とにかく最初から最後までおいしい旅でもあった。
あまりにもできすぎた閉門と太鼓の音。
舞台が終わり、幕がしまった瞬間。大宮八幡宮。
八乙女たちと。
古代の歌を奏でた三日間。
諏訪のときにはまだ手にしてなかった、でも「それはあなたのものです」と幾度もつたえられていた蛹鈴。
高らかに声を澄ませた、洞窟への祈り。
すべての符号が繋がってゆく。そしてこのあともまだ、結ばれてゆくものがある。
天橋立からやってきた貝殻。
出かけるときに鏡のまえにならべていた8枚の貝殻と目があって離れなくなってしまったので持っていった。
手もとにあったのがちょうど8枚だったことに“八乙女”との呼応を感じ、その8枚がどれもおなじ種族の貝殻で、“姉妹”のように見えたこと、天橋立は今回ご一緒するかたがたとも縁の深い場所であるとも思ったので。
ひとりに1枚ずつ贈り物として。
最初に自分のものを。わたしのものは「これ」だと、考えなくても知っていたけど、その理由は知らなかった。
帰ってきてからその貝殻が蝶の翅でもあることに気づき、それは驚きとともに心震える出来事だった。それぞれのかたの“蝶の翅”の一部が、それぞれに渡ったのだとも感じた。
こんなふうにして「それでいいんだよ」と教えてくれる。いつだって。
今年の旅の、そしてあらゆることはこの旅へと集結するためにあった。それを深く了解できることは、とても幸せなこと。
