2025/11/13
11月の旅 Ⅰ 天橋立にいたる路 ②
深山幽谷の地、明通寺。
坂上田村麻呂が建立したお寺。
坂上田村麻呂といえば、歴史の授業で習ったときからその名の響きの鮮烈さから忘れようと思っても忘れられないような名であったし、それとともにこの国ではじめての征夷大将軍であること、蝦夷征伐と呼ばれるものを指揮したことも、かれの名に付属するものとして忘れたことはなかった。
けれども歴史というものを学んでゆくうち、田村麻呂は蝦夷と呼ばれたひとたちを“征伐”するつもりはまったくなく、和合をもっておさめようとしたこと、それが果たされず都へ連れてきたアテルイ、そしてモレという名の長が助命むなしく命を落としたとき、かれは“友”に対する悔悟からその霊の弔いとして、“蝦夷征伐”のための武功を祈って創建された清水寺の境内に慰霊としてかれらの碑を建立した、といったことを知るにつれ、かれの人柄を理解していった。
田村麻呂は朝廷の将軍でありながら、どちらかというと魂は蝦夷と呼ばれたひとたちと共鳴していた印象がある。
そして清水寺の碑のほかにもかれが鎮魂の地として建設した寺はあり、明通寺もそのひとつであるとのことだった。
明通寺のご本尊は薬師如来で、創建当初、坐像は山号にもなっている「ゆずりは」の山木でつくられていたとのことだけれど、三度による火災に遭い、現在の薬師さまはひのきによって彫られたものとのことで、それでも900年まえのものになりますから、歴史の深さもわかろうというもの。
両脇に降三世明王と深沙大将の立像をしたがえているのは、非常にめずらしい構図なのだとか。
先述したように火災の影響で、明通寺のなりたちについては謎が多く、この立像をあえて薬師如来とならべているのも、また謎のひとつなのだとか。
アテルイとモレ、そして蝦夷と呼ばれたひとたちの慰霊のためにこのお寺を創設されたという話から、田村麻呂がかれらの“武”を称えるためにあえて猛々しい降三世明王と深沙大将を――その立像をかれらになぞらえて――薬師如来の傍らに置き、浄土でやすらかであるようにという祈りからそのようにしたのではないかと、わたしのなかではそんな想像も働いた。
普段が扉が閉められて非公開になっている三重塔も、現在期間限定で公開中とのことで拝観叶いましたことは僥倖だった。
正面に釈迦三尊、背面に阿弥陀三尊が祀られ、四天柱と壁面には十二天像が描かれた図は鮮やかで、また帰り道で対面した不動明王像とともに心に残っている。
薬師如来の静けさとともに、自分自身のなかの静けさとつながることのできる場所だった。