2025/02/27

ラクシュミの一斉遠隔ヒーリングのご報告







 2月にLuna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのラクシュミの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 今回のヒーリングのキイワードとして、向日葵、ほうき、ターコイズ、海、潜在意識、がおもにあげられるようです。


 ラクシュミの色である黄色、黄金色とおなじ花である向日葵は、ヴィジョンではなく言葉としておりてきたのですが、この花は“太陽”を意味する花でもあるのです。


 ラクシュミはわたしたちのなかに「“黄金”の意識」がある、すでにあったということを想いださせてくれる女神です。


 黄金意識、太陽意識、キリスト意識。言葉は異なれど、みなおなじ根をみなもとにしています。


 それはつまり、自分のなかに「光がある」ということを、ほんとうの意味で知る、知っている者の意識のことであるといえるのだと思います。


 今回のキイワードのひとつである「ほうき」は、不要なものを掃除してくれるものであり、不浄を祓ってくれる、そしてすべてを整えてくれる道具です。


 それと同時に「ははき」――母の木という意味ももち、「なにかを生みだす」ことをつかさどるものでもあって、それは「より良いものを生みだすためには、場を清めて祓う必要がある」ことを暗示しています。


 それはすべてのことに通じ、「つけ足す」よりも「そぎ落す」ことのほうが大切で重要なことだといえて、たとえばなにかを望む、なにかを意図したら、望んだ自分、意図した自分と現在の自分とのあいだにエネルギー的な隔たりがあるとき、分離があるとき、それをクリアリングするための事象が“外”によって引き起こされたり、見せられたりします。


 そのようにして「自分には“ない”」「でき“ない”」と思っている幻想を打ち破ること、また“外”側に生じる争い、競争、あらゆるネガティヴティをとおして自分のなかにある分離に気づくこと、クリアリングを自分自身からもとめられることもあります。それらの部分へのアプローチ。


 またターコイズは心身の疲れを解きほぐすこと、ストレスに働きかけてくれる癒しの石で、疲労や不安の解消、心身の回復をうながしてくれますが、この石が「幸運を引き寄せる」といわれているのも、やはりそのように「本来の自分」であれば不要なものを掃除し、不浄を祓ってくれるからです。


 そのようにスペースが空くところに、幸運というものは入ってくるものだからです。


 「つけ足す」のではなく、「そぎ落された」ところに。


 またこの石は古代エジプトにおいて女神ハトホルに捧げられた石でもありますが、ラクシュミとハトホルは、とても近しい女神であり、今月ラクシュミのことを「牡牛座の金星の女神」と綴りましたが、ハトホルもまさにそのものです。今回のヒーリングでハトホルの名が出てきたことも無関係ではなく、ラクシュミと縁があるかたは同時にハトホルとも縁をもっています。


 そしてどちらの女神も自分にとってはもはや役に立っていない誓いを手放すこと、自信をもつこと、人生で自己実現してゆくことをサポートしてくれます。


 今回はこれらのものに作用があったようですが、ひとつつたえられていることとして、いまは「静観する」「自分を見つめる」――動か静でいえば静の時間をご自身にとってあげるのが大事な時期であるかもしれません。


 みずからのなかを“掃除”し、再活性化や癒しのための分離しているものを「ひとつに」してゆくこと、そのようにして自身のスペースを空けることが大切であるのかもしれないと。


 この部分はぴんときたかたのみお心にとめていただくかたちで大丈夫です*


 それではラクシュミのヒーリングをお受けとりくださり、ありがとうございました。


 感謝とともに。


 どなたさまもよき2月最後の日を、そして3月をお迎えください。


 あなたがいつもあなたでありますように。







 

2025/02/26

世界にむかって“ひらく”ために






 *


 “ちいさな世界”こそ、すこしのほつれがあればすぐに目にとまるもの。ちいさな世界を愛せるひと、その場を神聖に保てるひとは同時に、おおきな世界、宇宙そのものに愛をおくるひとだとも思います。


 ここ数年、“愛”とはどういうものだろうかと自分に問いかけつづけ、ひとつの答えとして「世界にむかってひらかれている」ことかもしれないと感じるようになりました。


 素直さとは安心していること、緊張していないこと、それは自分を取りまく世界を信頼しているということ、信頼――自分は“愛されている”(自分は大丈夫だ、自分は安全だ)ということを知っているということ、また自分も世界を“愛している”ということ。それは世界にむかって心がひらかれているということ。それが“愛”なのではないかと。


 土の器をつくられる陶芸家の友人がいっていたのですが、昔の武人がお茶を嗜まれたのは、「静けさを自分の内側に招き、自分自身を保つためだったのではないか」とのことでした。


 ときに心が受けとめきれない現実に直面することがある武人だからこそ、自分の“神聖さ”を取り戻すため、それを想いだすための時間を習慣的に必要としていた、それはかれらにとって瞑想としての時間だった。


 自分と“つながる”時間。


 茶道もそうですが、文学も音楽も絵画も、芸術とされるものには、そういう側面があると感じます。


 「世界にむかってひらく」ことの大切さを知るひとは、それらをとおして「自分とつながる」ことの大切さをも知るひとたちではないでしょうか。


 *






Nostra Madre del Perpetuo Soccorso








 Nostra Madre del Perpetuo Soccorso


 ここのところ“絶えざる御助けの聖母”に想いを馳せる機会があり、「そういえば」と数年まえに聖なる魔法使いのようなかたから、かの聖母のメダイをいただいていたことに気づいて、大切にしていた宝物にまたひとつ、あらたな意味がつけたされた。


 魔法使いがかけてくれた“魔法”が時を経て発動されるとき、そんなふうに合図として知らせてくれる。






2025/02/24

聖花






 誰かと「心かよいあう」と感じるとき、それは相手が自分を理解しようとしてくれるやさしさが根底にある。


 いつもその“根底”を感じる、しなやかな植物みたいなひとから、大切なものをおさめるための桜の函をいただいた。


 今年の桜は特別であることを、理解してくれているがために。






 今年の桜は特別だから、花と自分のための時間をとってお花見してあげるといい。


 それが、つぎなる扉をひらく助けをしてくれる“お守り”になるから。


 誰かと一緒に見るのだったら、そのひとと桜を見たいと心から思えるときだけ、そのようにしてあげるといい。


 先日もかわいい女の子にそうつたえたばかり。


 桜の季節に花びらが手のひらに舞い降りたら、この函におさめようと思う。






 そしてある枝ではもうすでに、蕾がひらきはじめ、花もほころびはじめていた。










天花








 天から降ってくるような。







2025/02/23

光の路








 水面にあらわれた光の路。





 その土地と親しいひとといると、場所も安心して日ごろは秘めている顔を顕してくれることがある。


 “森”の女王のようなかたと過ごした、あたたかくてやさしい水が“流れる”時間。








2025/02/22

2月、ラクシュミ













 Luna Somniumの2月の女神はラクシュミで、今月はこの女神とのつながりを深めてきました。


 そのため今月のセッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずこの女神のエネルギーが副次的にふくまれています。


 私事ですが、今月のはじめに諏訪を旅して、それは魂の故郷に還るような旅でもあったらしく、みずうみに自分の半分を置いてきたみたいな不思議な感じがつづいており、それがおさまってからラクシュミについての文章を紡ごうと思っていたところ、この「不思議な感じ」はもうずっとつづくのかもしれない、そしてそれはわたしにとって祝福でもあることを理解するにいたり、ようやくこの2月もあとわずかとなったいまになって、こうして綴りはじめているのでした。


 女神ラクシュミはヒンドゥーの豊かさの女神で、日本においては吉祥天として知られています。


 このラクシュミは「金星」という星と関わりが深い女神であるとわたしは感じていて、金星はわたしたちの愛や美や喜びを象徴する星でもあります。


 そしてその星は星座でいうと牡牛座、天秤座に該当しますが、ラクシュミの金星は牡牛座と呼応するものであり、それは牡牛座が“土”というエレメントと深い関わりをもつからです。


 土は現実、物理的なもの、形として“視える”もの、顕現、具現化してあらわされるもの。


 ラクシュミのつかさどる愛、美、喜びは、そのように「五感で触れられるもの」であると感じます。


 (そして天秤座の金星をつかさどる女神としての代表は、アフロディテやフレイヤなのではないかと。)


 愛、美、喜びに「形をもたせる」からこそ、ラクシュミは“豊かさ”の女神でもあるのです。


 だからこそ「形をもたらす」には、それを受けとる“器”がなければいけない、ということも教えてくれる。


 この女神が欠乏(わたしにはこれが“ない”)、終焉(これを“もったら”、いつか“なくなって”しまう)の意識にアプローチしてくれるのは、それがわたしたちの“器”の罅割れや穴となって、自分や自分の世界を取り巻く愛や美や喜びに気づくことなく、気づいたとしてもそれを受けとめきれず、それらのエネルギーを水のように漏洩させてしまうからです。


 そのようにしてわたしたちの意識こそが現実をつくりだすため、この物質の世界で具現化するためには、この意識から変容させる必要があるからです。


 「世界が自分にはどのように見えるか」ではなく、「自分は世界をどのように見ているか」を知ることが重要なのです。


 そして「“自分は自分を”どのように見ているか」が。


 この女神がつかさどる豊かさは、“外”よりまえに“内”なる準備をうながしてきます。


 自分が自分の内側に黄金をもっていること、黄金を受けとる価値がみずからにあること。そして真の意味での“黄金”とはなにかと問いかけてきます。


 その“黄金”の功徳が現実のなかであらわれるよりまえに、その“黄金”とはなにかを知ることは、自分自身の精神、内側からそれを「受けとる」準備をすることでもあるのです。


 自分以外の他者と関わりすぎているがために自身の内側に目をむける空白の静けさから遠ざかっていたり、気持ちと行動がともなわないために疲弊していたりして、自分が自分の人生や現実をつくっている創造主であるというパワーからずれていたものへの修正。


 豊かさには内側の豊かさと外側の豊かさがあり、まずわたしたちは自分の内側に豊かさがあることに気づき、“ある”ものに気づき、そしてそれを外側にむかって愛とともに放つことで「自分が何者か」を他者に知らせ、人をとおしてその“豊かさ”をひろげゆく。


 そうして循環させてゆくところに「黄金の滝」はあらわれるのだと、女神ラクシュミはつたえます。


 “豊かさ”は自分に“ある”ものに気づき、「受けとる器」を育み、そのようにして“内”に培われたものの反映として、“外”から人が運び、見せてくれるもの。


 自分の内側が豊かであること、愛をもって与え、受けとる準備ができていること。そうでなければ、人との関係における神聖な境界線が崩れ、他者との関係が愛ではなく、疲弊や重荷に感じてしまいます。


 お金の問題にフォーカスしすぎて欠乏の意識が拡大すると、ラクシュミは遠ざかってしまう。実際にこの女神が遠ざかっているのではなく、その恩恵を感じられなくなるという意味で、自分から遠ざかっているように感じる、ということとして。


 「欠乏」のベールを纏うと、精神も物質も豊かさが消えていったように見える。


 自分の生命のすこやかなエネルギーを感じられること。それが“豊かさ”における重要なことでもあると、ラクシュミは教えてくれます。




――――°˖✧






 *2月の予定*    


 2月15日(土)*母なる“マリア”の3(Three)アクティベーション・ヌナカワヒメ(終了しました)

 2月27日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のラクシュミの一斉遠隔ヒーリング *(該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます)


 それではどなたさまもひきつづきよき2月をお過ごしください。

 いつもあなたがあなたでありますように。







2025/02/20

自覚






 「人からどう見られるか」「人にどう見えているか」は、わたしが自分でコントロールできる領域ではないので、それについてあれこれ考えること、迷うことはもうやめた。


 「もうやめる」と強く思ってそうしたわけではなく、いつの間にかそれを手放していたことに気づいた。


 「あれこれ考えて」「迷っていた」ことに、自分でも無自覚だった。


 どうせ人はそれぞれがそのひとの“見たい”ようにしか見ない。


 開き直ったともいえるし、ようやくここまで吹っ切ったともいえる。


 わたしは“わたし”にしたがっていく。







2025/02/18

星の森









 森の奥にある礼拝堂で、天井に刻印された天の川にあそぶ星たちを眺め、いつもそこに活けられている白百合の香に満ちた静謐なとき。





 そののち、サロンにてチョコレイトのお菓子と林檎のお茶、テーブルに飾られていた赤いラナンキュラスと過ごした過日の午後。


 ここも水の気配にあふれている場所。





 わたしのそばにいてくれた“赤”



 ヘールポップ彗星が近日点を通過した年に建設されたのだという星の礼拝堂。その土地に古くから湧く清らかな恵みの水を護っている森。




『中世の華・黄金テンペラ画』 at 目黒区美術館









 『中世の華・黄金テンペラ画』 at 目黒区美術館


 おおきな王冠に象られた“受胎告知”の絵に圧倒され、密かに息をつきながら、聖母マリアの“青”を見つめていました。


 マリアの青はラピスラズリでとさだめられていたこと、深く頷くものがあった。


 “空”という意味を名に宿した聖なる石、叡智の象徴。


 だから「神につながる石」とされ、いにしえの王たちはその石でみずからの装飾品をつくらせ、「神の代理人」であることを示した。


 昔のひとたちが“空”や“宇宙”をあらわす石、“神”の意志をつかさどるとされる石で「天の女王」と呼ばれたかたの姿をこの世に復元しようとしたことの、祈りについて思った。




 緻密に描きだされた紋様も、繊細に顕された象徴も、幾度も重ねられる色も、すべてが“祈り”そのもの。


 ボッティチェリの『聖母子』、クリヴェッリの『マグダラのマリア』などの模写が集っていたマリアたちの一角や、『輝く森』という題のこの絵にも、心惹かれました。













『そこに光が降りてくる』 at 庭園美術館









 『そこに光が降りてくる』 at 庭園美術館


 アール・デコの窓やランプ。そこから射す陽、注がれる灯は、透きとおる水のようであり、揺らぐ風のようであり、目では捉えられないそれを「受けとる器」としての作品たちが、「ここに光がある」ということを、零れんばかりの輝きをとおして教えてくれた。





 「石を積みあげる」という祈りの形式。そのようにしてひとつの“塔”をつくることで、自身の穢れをそこに「置いてくる」――祓い浄める。


 石という漢字が使われ、なおかつ清潔にするために用いられる石鹸で、白を基調に美しい夢のような色の“石”としてそれが再現されているのを見て、感じるものがあった。





 メデューサ。“怪物”として“石”のなかに閉じられた女神。





 ひとつの輪から、いくつもの輪が生まれる。


 回転することで顕れるかたち。


 地母神のしるし。


 “石”として眠っていたもの、封じられていたもの、固められていたものが、“光”を受けてそれを解く。


 言葉にならないいくつものこと。


 うかがえてよかった。










 窓から見えた梅。










「ねがいと言葉の力」









 やさしいかたたちからの贈り物に忍ばされた、雪と蝶の気配。いまもこれからも、自分と深く関わり、結びつきをもつもの。


 そういう“鍵”のひとつとして。





 『あさがくるまえに』の巻末。


 扱う者が「それをどのように扱うか」で、そのひとやそのひとの周囲にもたらす影響を決定する。


 刃物は誰かを傷つけることもできるし、それを使って自分や誰かのためのおいしい料理をつくることもできる。


 言葉もそういうものだと思っている。


 言葉も刃物も、“誰か”だけではく、自分を傷つけることもできる、というのはおなじこと。


“魔法”というのは、「扱うもの」それ自体にあるのではなく、それを「どのように扱うか」というそのひとの“ありかた”に宿るもの。


「なぜそれをするのか」という意図、そして意図のなかにある眼差しにこそ。


 あらためて胸に響いた。







雪の結晶、矢車菊、氷の花









 いくつもの“扉”の可能性を感じさせてくれる部屋で、ちいさきかたがたに捧げるための、ちいさな杯をお迎えしました。


 精霊や妖精や、息吹のなかに存在する尊いもののための、土の器。


 杯には雪の結晶、蝶、月と星々、そして龍が描かれていて、これはわたしのもとに、と目があった瞬間にわかった。


 しかしあらためて見ると、雪の結晶だと感じたものは矢車菊の花だったようで、どうして見間違えたのか不思議だけれども、雪の結晶であっても矢車菊の花であっても、自分との“つながり”が深いことに変わりなく、そのときそのふたつを“おなじもの”だと思ったことに意味があるのだろうと。


 *


 後日談として。


 諏訪で凍った湖のなかに見た紋様を「氷の花」のようだ、と感じたのだけれども、その花のようでもあるなと思いつつ。







『すみれの花の砂糖づけ』 at コトリ花店









 『すみれの花の砂糖づけ』 at コトリ花店


 アメシストは2月の誕生石だけれど、この石の色は菫の色をしていて、幼いころ、すみれの花の根もとには輝く紫水晶が眠っているのではないかと思っていた。石が目覚めるとき、花もまた開く。


 花の香のしずかな息づかいに満ちた白い部屋。


 2月のすみれの祝祭。


 holy gardenでいただいてきた菫の花のクロモスとお菓子たち。


 2月を守護する石とおなじ色の花を、うつくしい食べ物として自分のなかに迎え入れて、その花とのつながりを深める。紙のなかにいのちを吹き込まれて不変のかたちを宿したその花を、お部屋に飾っていつでも感じられるように。





 いただいてきたすみれの花の砂糖づけは、“ちいさいかたがた”に捧げるためのカップに入れて。





 すみれの祝祭にむかった日、ポケットのなかにずっと鏡を忍ばせていた。


 ひかりを浴びると菫の花が浮かびあがる鏡。


 そうでないときでも気がつくと虹が入り込んできたりするので、ただの鏡ではないのだと思う。お守り。












松村真依子 巡回個展『魔法の生活』 at 草舟あんとす号









 松村真依子 巡回個展『魔法の生活』 at 草舟あんとす号


 この展示に宛てられた手紙のような“今日のマグカップを決める。体が求めるスープを作る。鳥の声を聴く。魔法は、生活のそばに。”という言葉に惹かれ、うかがうのを楽しみにしていました。


「スープはそのひとそのもの」とお話してくださったこと、世界の楽譜のなかに“音符”としてあらわれる雨や綿毛、鳥の声。


 「この星の音楽に耳を澄ませる」――耳には聴こえない、心で聴く鳥の、蝶の、羽ばたきの音。


“黄色の蝶はとても儚い”と、以前に『暗喩』という展示のなかで記されていたことを覚えていて、その色の蝶がたんぽぽの綿毛のなかにいるのを目にしたとき、「また逢えたね」という気持ちに。





 松村真依子さんが挿画された若松英輔さんの『いのちの秘儀』と、幾枚かの絵葉書を草舟あんとす号さんから。


 センス・オブ・ワンダー、河合隼雄、万葉集、妖精、と頁をすこし繰っただけでも心弾むキイワードが目に飛び込んでくる。


 ゆっくりと読みたいと思います。





 本のなかに見つけた蝶。









アウトプット






 目のまえの世界がすごい速度で動いていて、日々めまぐるしく、それをアウトプットしようとしたときには、もうつぎの“流れ”のなかに入っており、すでに“それ”はずいぶんと過去のものとなっているので、「もうアウトプットしなくてもいいかな」と感じ、そうしているうちに“沈黙”がつづく、ということがこれまでには多くあったのですが、今年はここやSNSで「それがもう自分のなかでは遠くなっている――“過”ぎ“去”っているものだとしても、なるべくアウトプットするように」というふうにきていて、それにしたがおうと思っています。


 1週間まえのことでさえもうずいぶん昔のことであるような、そういう時間軸のなかを生きているみたいなので、一瞬まえに過去になったすべてを掬いあげるのはむつかしくても、残しておけるものは未来の自分のためにも残しておこうと。なるべく、できうるかぎり。







2025/02/15

アップルパイと白鳥とゆめ







 林檎農園さんのアップルパイ。添えられたローズティは“ゆめ”という名。


 そのまえにお城の天守閣にのぼり、飛来していたオオハクチョウが林檎畑のうえを翔けながら、おおきな翼をひろげて下降してゆくのを見たこと、それを想いだしてすこし夢心地だった。


 ばらの香の白鳥のゆめ。


 “林檎”はこの旅のおおきなテーマのひとつだった。








樹々、水鏡







 諏訪の樹々は水紋とおなじ模様が刻まれていたり、そこに鹿の魂が宿っている気配が感じられたり。


 飛翔する白鳥を見たあと、かの鳥が渡っていた空を氷結した水鏡が映していることに気づいた。