2025/02/26

世界にむかって“ひらく”ために






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 “ちいさな世界”こそ、すこしのほつれがあればすぐに目にとまるもの。ちいさな世界を愛せるひと、その場を神聖に保てるひとは同時に、おおきな世界、宇宙そのものに愛をおくるひとだとも思います。


 ここ数年、“愛”とはどういうものだろうかと自分に問いかけつづけ、ひとつの答えとして「世界にむかってひらかれている」ことかもしれないと感じるようになりました。


 素直さとは安心していること、緊張していないこと、それは自分を取りまく世界を信頼しているということ、信頼――自分は“愛されている”(自分は大丈夫だ、自分は安全だ)ということを知っているということ、また自分も世界を“愛している”ということ。それは世界にむかって心がひらかれているということ。それが“愛”なのではないかと。


 土の器をつくられる陶芸家の友人がいっていたのですが、昔の武人がお茶を嗜まれたのは、「静けさを自分の内側に招き、自分自身を保つためだったのではないか」とのことでした。


 ときに心が受けとめきれない現実に直面することがある武人だからこそ、自分の“神聖さ”を取り戻すため、それを想いだすための時間を習慣的に必要としていた、それはかれらにとって瞑想としての時間だった。


 自分と“つながる”時間。


 茶道もそうですが、文学も音楽も絵画も、芸術とされるものには、そういう側面があると感じます。


 「世界にむかってひらく」ことの大切さを知るひとは、それらをとおして「自分とつながる」ことの大切さをも知るひとたちではないでしょうか。


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