2025/11/30

11月の旅 Ⅱ  諏訪からの巡り、つぎなる輪へ






 今年の11月は旅のためにあった。


 天橋立にいたる路と、諏訪からの巡り。


 そのふたつはまったく別のものであるように見えながら水底でつながり、それがわたしのなか筒のごときものを、また拡大拡張し、そしてすべては定められた時に起きることを教えてくれる。あらゆるものには“つながり”があり、それがむすばれてゆく時機がある。その時機を迎えたこと。


 すべての出逢いも出来事も、ただの点ではなく、季節とともに線が描かれてゆく。わたしが深く“わたし”とつながるにつれて。


 それは空の星座のようで、今回は8つの星で“八乙女”たちと星座をつくった。





 海の懐に抱かれながら過ごした3日間の旅。


 夜に眠りに就くときにも波の音がしていて、この音をずっと聴いていたい、まだ起きていたいと暗闇で目を閉じたまま夢うつつを漂っているとき、肉体も意識も海のうえに浮かんでいた。


 そしてそのとき感じた揺籠のような安心と信頼は、この旅の象徴でもあった。


 これでひとつの“巡り”がおわり、そうして完結したところから、ようやくつぎの輪が廻りはじめる。


 そういえば、この旅の最後に3度おなじ洞窟のなかを巡ったけれど、偶然ではなかった。3回失くした指輪との連動。そしてつぎの“4”がくる。


 蝶の翅の数。





 五色の青に輝く瞳の奥の通路から、純粋な愛をとどけてくれた白竜さんたち。


 遊びおわると日向ぼっこでお昼寝をしていた。そっと触れさせてくれた鼻先の、柔らかでやさしい感触。

 



 おなじ場所から眺めた富士。


 日が暮れるにつれ刻々と浮き彫りになる姿に、影があるからそこに光があることがわかる、姿をはっきりと捉えることができるのだ、ということを再確認したりなど。


 「江の島がクジラみたいだね」といっていたのが誰の声だったのか想いだせないけど、たしかにと。





 楽しくて美味しくてあたたかな笑いに満ちた旅、思えば“竜宮城”への滞在のようだった。


 初日のピクニックのお弁当だけ、かろうじて写真におさめてあった。


 このあと「ぐりとぐらのケーキのような」と歓声があがった、夢みたいなふわふわのカステラケーキまで登場したりして。


 とにかく最初から最後までおいしい旅でもあった。





 あまりにもできすぎた閉門と太鼓の音。


 舞台が終わり、幕がしまった瞬間。大宮八幡宮。



 八乙女たちと。





 古代の歌を奏でた三日間。


 諏訪のときにはまだ手にしてなかった、でも「それはあなたのものです」と幾度もつたえられていた蛹鈴。


 高らかに声を澄ませた、洞窟への祈り。


 すべての符号が繋がってゆく。そしてこのあともまだ、結ばれてゆくものがある。





 天橋立からやってきた貝殻。


出かけるときに鏡のまえにならべていた8枚の貝殻と目があって離れなくなってしまったので持っていった。


 手もとにあったのがちょうど8枚だったことに“八乙女”との呼応を感じ、その8枚がどれもおなじ種族の貝殻で、“姉妹”のように見えたこと、天橋立は今回ご一緒するかたがたとも縁の深い場所であるとも思ったので。


 ひとりに1枚ずつ贈り物として。


 最初に自分のものを。わたしのものは「これ」だと、考えなくても知っていたけど、その理由は知らなかった。


 帰ってきてからその貝殻が蝶の翅でもあることに気づき、それは驚きとともに心震える出来事だった。それぞれのかたの“蝶の翅”の一部が、それぞれに渡ったのだとも感じた。


 こんなふうにして「それでいいんだよ」と教えてくれる。いつだって。


 今年の旅の、そしてあらゆることはこの旅へと集結するためにあった。それを深く了解できることは、とても幸せなこと。






2025/11/25

“新嘗祭”









 ご自分の田んぼで田植えをし、お米の収穫をしている心やさしい早乙女から、“新嘗祭”の贈り物。






「つくらない句会」 at 星の樹の下で






 星の樹の下で開かれた「つくらない句会」に参加してきました。


 あらかじめ選ばれた古今の名句。


 そのつくり手が誰であるかわからない状態で参加者は3句、そのとき心に沿う俳句を挙げてゆく、まさに自分では“つくらない”句会。


 俳句を詠まずとも知らずとも、誰でも楽しめるようになっている遊び。





 みんなで句の選評をしているうち、必然的に「そのひとはどのような“視点”で世界をまなざしているか」という内部の紐解きへとつながり、無意識にあるものを意識的に浮上させ、「それでは自身の“視点”の反対側の世界はどのように見える?」という構造が、“枠”の外へと案内する“ひろがり”をみせてくれた。





 安心して思ったことを交感しあえるのも、“句会”がはじまるまえに森を歩いて自然からの贈り物を手に微笑みあい、“句会”のあとには持ち寄った恵みを享受しあえる、やさしくてあたたかなひとたちとの“場”であったからこそ。





 言葉では表現できない領域で、ほんとうにとても楽しかったし、学びにもなった。









2025/11/21

菊のお祭り








 過日の菊のお祭り。


 大宮氷川神社での菊の奉納展示。


 とてもうつくしかった。





 そして先日、多賀大社でのさざれ石のことを綴ったあと、大宮氷川神社にもさざれ石があったことを知り、こんなに幾度もうかがっている場所なのにと思い、大宮にうかがう機会があったので足を運び写真におさめたものの、“記録”としてなぜだか残っておらず、写っていたのはこの菊の写真だけでした。


 神域でそういう話はよく聞くことではあるし、今回はそれでよかった、ということなんでしょう。






2025/11/16

『人魚姫のお茶会』harumie 個展 &more folina at silent music











 薄闇のなか、「この花を標に」というふうに入り口で迎えてくれた矢車菊。


 その花の色をした海と人魚への愛に満ちた展示でした。


 灯された明かりは航海のはざまで目指す灯台のようで、そこに憩う人々のやさしさとあたたかさに触れて。





 フランシス・ジャムの『三人の乙女たち』に捧げられた聖心を眺めながら、人魚姫が“お茶会”に呼ぶのなら、自身とおなじ痛切さを秘めた、言葉をかわさずとも瞳があえばすべてを沈黙のうちに了解してくれる乙女なのだろうかと、人魚と彼女たちは似た魂をもつ者という意が、そこにこめられている気がした。





「青い太陽から発散される雪のごときひかりは、あまりにもまばゆい純粋さゆえに錯乱を招き、紅い花に射す影のような昏い情熱は炎となって夜に開き、柔らかな心に刺される棘の痛みに微笑みながら菫色の涙を流す、三人の乙女の祈り。」


――『三人の乙女たち』について記した、かつての自分の感想より。





 どういう話だったのか、いまはもう指の隙間からこぼれてゆく砂のごとくといった記憶でしかないので、いつかの自分の感想についての判断はできないけれど、あの本のなかに閉じこめられていた“痛切さ”だけははっきりと覚えている。


 人魚姫が心ゆるせる“友”と、楽しく“お茶会”していればいいと思うし、あの場所でなら、この展示がはじまってからすでに毎日、それがなされているのだろうと感じる。




 お迎えしたharumieさんのビジューは水の花のようでありながら、空の星みたいでもある、とわたしには見えました。


 シリウスのごとき青い星。


 人魚も海のなかで“水の花”を愛でつつ、“空の星”を夢みていたのではないかと思いながら。


 folinaさんの野の花ブーケにも海からの贈り物として貝殻の“花びら”が。


 『人魚姫』の作者であるアンデルセンは、人に逢うときよく花の贈り物をしたという話で、おなじsilent musicで過去に『花束作りましょ アンデルセンさん』という展示があったけれど、その“花束”をかたちにしたみたいな可憐で繊細で凛とした、ちいさなブーケ。





 *余談として*


 昨日、“お茶会”にうかがうまえにお逢いしたかたのお洋服に矢車菊を見つけて、以前から密かに「人魚みたいな」と思っているかたでもあったので胸が高鳴り、「矢車菊は人魚の花」なのだという話になったりしました。









2025/11/14

海の記憶








 素晴らしい旅ができて、ほんとうに幸せだった。


 心よりの感謝を。ありがとうございました***








11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ⑦ 多賀大社







 気比のあと、旅の最後に訪れたのは多賀大社。





 この神社では、境内にさざれ石を拝見することができました。


 あの「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」と歌われる“さざれ石”です。


 ちいさな石が「千代に 八千代に」歳月を重ねておおきな石に、岩になる。


 永続性、長寿、繁栄。


 “長くつづく”ことを願われたもの。


 石や岩のなかには不動であること、不変であることに捧げられた祈りが眠っている。


 だからそこに神が宿ると、いにしえの人々は思った。


 目に見えるもののほかに、目には視えない領域にある物事の重要性を知っていたひとたち。


 石がつどって岩になることでさえ、その過程を隈なく目に映すことはできない。


 磐座とは神が天下る岩のこと。


 巨石のなかにおおきな神秘を視たがゆえに。










11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ⑥ 氣比神宮ー気比の松原








 旅の最後の日の海。


 気比の松原。


 気比の松原、そして氣比神宮は芭蕉が句を詠んだ場所としても知られ、かれは月見のためにこの地を訪れたのだとか。


 『おくのほそ道』によると、芭蕉がこの地で詠んだ句は「月清し遊行のもてる砂の上」というもので、旧暦の8月14日、15日のこと。中秋の名月の前日に気比で見事な月を眺めたものの、その翌日の名月の日の句に「名月や北国日和定めなき」とあるように、名月と相まみえることはできなかったようです。


 わたしも“月見”はできませんでしたが、今回訪れたのはちょうど下弦の月にさしかかる時季でした。





 気比の松原の海と松を眺めていると、天橋立のそれと重なり、思えば今回も水と松の旅をしたのだなと思いながら、いつからかずっと、その巡りをしているような気もして、ゆらめく波を見て、気高い松を見ていました。


 松の樹々にわたしは翡翠の石のなかに宿る力とおなじものを感じ、それを言葉にするなら“高貴さ”というのかもしれません。





 気比の松原にむかうまえに訪れた氣比神宮。


 この大鳥居は木造朱塗で三大鳥居として数えられているのだとか。


 とても格式高く、凛々しい空気に満ちたお宮で、境内は余分なものをすべて祓い浄めてくれるエネルギーで満ちており、わたしがこの日受けとったのは、武をつかさどる男神のエネルギーでした。


 その影響で帰宅してから調整が入り、すこし体調を崩していますが、ほんとうに隅々まで祓っていただいたなと思うばかり。


 社殿とはべつに“土公”と呼ばれる、境内から天筒山の方角に位置した小丘の聖地があり、そこに神がおわしたことが氣比神宮の創建とのことですが、あきらかにこちらのほうが“本殿”でした。


 古く、社殿造営以前は“ひもろぎ”として祭祀がおこなわれていたようで、さもありなんという感じです。


 土公というのは陰陽道における神の名であるのだそうで、それも気になるところでした。


 前日に眞名井で目にした磐座が重なって、「自然のなかに神を視る」という、この国の古来より受け継がれてきた血、細胞というのでしょうか、「自然とつながる」ことが「神とつながる」ことでもあるという、そのありかたの積み重ねられてきた畏敬の念をも感じられ、思わず「手をあわせてしまう」というのは、こういう場面に使うのだなと感じたりしました。


 氣比神宮もやはり、“水”にまつわる地であり、長命水という御神水が知られています。


 わたしもいただいてきましたが、古くから存在する神聖な場所というのは、この国においてかならず、神聖な水と結びついているのだなと感じます。


 そしてそれはこの国にかぎらず、どこであってもいえることなのだろうと。








 

11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ⑤ 舞鶴








 赤煉瓦の風景。





 鶴が舞い降りた地に城を建てたから、その名がついたという“舞鶴”


 港町ということで、赤煉瓦倉庫のなかに併設されていた郷土の資料館では、遺跡から出土された国内最古で最大級の縄文時代(およそ5300年まえ)の丸木舟、


 江戸から明治にかけて神社に奉納された弁才船の模型、


 航海の方位を知るためにもちいられた船磁石など拝観でき、


 とても興味深かった。










11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ④ 眞名井ー天橋立








 今回の旅の、もっともおおきな要であった籠神社ー眞名井神社ー天橋立という道筋。


 この旅の全体的な題名を「天橋立にいたる路」としたけれど、ほんとうは「眞名井にいたる路」とするほうがただしいのだと思う。


 それだけその地に辿りついたとき、「やっと来ることができた」という万感の思いを深くした。そして自分のなかからあふれてくるものを感じた。それは喜びの“水”のごときもので、この地の水と呼応し、わたしのなかのエネルギーをおおきく高めてくれた。


 この眞名井、天橋立からの自分への呼びかけというものがいつからはじまったのかも、はっきりと覚えていて、それは2年まえ、2023年の初夏からだった。


 はじまりはあの山の奥深くに秘されていた“泉”


 おなじときにおなじ“呼びかけ”を受けとったであろうひとが眞名井、そして天橋立との縁を深めているのを見たり聞いたりしながら、いつかはわたしも行くのだろうと漠然とした予感のようなものがあった。


 そして今年の夏の終わりごろ、その“予感”が思いがけず唐突に“予定”となり、すべてが目まぐるしく動いてゆくなか、気がつけばわたしはこの地へと来ていた。


 水の記憶が、水の記憶とつながって。





 海をふたつにわける此岸と彼岸に架かる橋。


 天と地をつなぐ梯子であるといわれた場所。


 まっすぐにのびた松の並木道を強い風に吹かれながら歩いた。


 龍の胎内巡り。


 和泉式部が「橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし」という歌を詠んだ、四方を海に囲まれながらすこしも塩分をふくまず、清らかな水が湧き出てくるということで古来より不思議の井戸としてつたえられた、天橋立のなかにある湧水。


 そのほかにも、“水”にまつわる秘密を湛えた土地。







 遥拝所で橋立をのぞむ眺望から別角度に、遠くうっすらと視界にとらえることのできた、冠島と沓島。


 このふたつの島は伴侶で、天橋立とつながる神域とされており、籠神社、眞名井神社の奥宮でもある。


 雪舟の『天橋立図』にも実際の距離、位置を度外視してこの島が描かれたのは、雪舟がその神聖さを理解していたからとのこと。


 雪舟は「ただ目で捉えることのできる風景」ではなく、そこに宿る神性と精神を描くため、天と地をつなぐ場所を架空の視点から眺め、縮図をつくったという話で、画にまつわる謎も多い。


 ふたつの島に目を凝らしていると、そこに二艘の船がとおりかかり、伴侶島の冠島沓島との連動を感じて嬉く思った。


 冠は“天”に掲げるもの、沓は“地”を歩くもの、どちらも揃って“天地”であり、それがつながるとき異なる力同士が融合するということでその名がつけられたのだろうな、と感じたりなど。


 橋立を渡ったさきにあった智恩寺へは時間の関係上、ご挨拶だけになってしまったけれども、吉祥弁財天の社にも眞名井、天橋立の流れのなかにある水の女神を感じることができた。





 その日の夕暮れは“天からおりてきた梯子”みたいに、祝福の色をして。





2025/11/13

11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ③ 伊根湾







 伊根湾で遊覧船に。


 頭上を飛びかいながら、ずっと合図のような声を出して鳴いていたカモメたち。


 下船するとき、挨拶して見送ってくれた一羽。








11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ② 明通寺







 深山幽谷の地、明通寺。





 坂上田村麻呂が建立したお寺。


 坂上田村麻呂といえば、歴史の授業で習ったときからその名の響きの鮮烈さから忘れようと思っても忘れられないような名であったし、それとともにこの国ではじめての征夷大将軍であること、蝦夷征伐と呼ばれるものを指揮したことも、かれの名に付属するものとして忘れたことはなかった。


 けれども歴史というものを学んでゆくうち、田村麻呂は蝦夷と呼ばれたひとたちを“征伐”するつもりはなく、和合をもっておさめようとしたこと、それが果たされず都へ連れてきたアテルイ、そしてモレという名の長が助命むなしく命を落としたとき、かれは“友”に対する悔悟からその霊の弔いとして、“蝦夷征伐”のための武功を祈って創建された清水寺の境内に慰霊としてかれらの碑を建立した、といったことを知るにつれ、かれの人柄を理解していった。


 田村麻呂は朝廷の将でありながら、どちらかというと魂は蝦夷と呼ばれたひとたちと共鳴していた印象がある。


 そして清水寺の碑のほかにもかれが鎮魂の地として建設した寺はあり、明通寺もそのひとつであるとのことだった。


 明通寺のご本尊は薬師如来で、創建当初、坐像は山号にもなっている「ゆずりは」の山木でつくられていたとのことだけれど、三度による火災に遭い、現在の薬師さまはひのきによって彫られたものとのことで、それでも900年まえのものになるとのことだから、歴史の深さもわかろうというもの。


 両隣に降三世明王と深沙大将の立像をしたがえているのは、非常にめずらしい構図。


 先述したように火災の影響で明通寺のなりたちについては謎が多く、この立像をあえて薬師如来とならべているのも、また謎のひとつなのだとか。


 アテルイとモレ、そして蝦夷と呼ばれたひとたちの慰霊のためにこのお寺を創設されたという話から、田村麻呂がかれらの“武”を称えるためにあえて猛々しい降三世明王と深沙大将を――その立像をかれらになぞらえて――薬師如来の傍らに置き、浄土でやすらかであるようにという祈りからそのようにしたのではないかと、わたしのなかではそんな想像も働いた。


 普段は扉が閉められて非公開になっている三重塔も、現在期間限定で公開中とのことで拝観叶ったことは僥倖でした。


 正面に釈迦三尊、背面に阿弥陀三尊が祀られ、四天柱と壁面には十二天像が描かれた図は鮮やかで、また帰り道で対面した不動明王像とともに心に残っている。


 薬師如来の静けさとともに、自分自身のなかの静けさとつながることのできる場所だった。





 

11月の旅 Ⅰ  天橋立にいたる路 ① 長濱八幡宮ー三方五湖







 短くて長い、濃密な旅をしてきました。


 今年の要のひとつともいえる旅であり、もしかしたら人生として数えても、とても重要な旅であったかもしれないという予感が、その旅を終えてもまだつづいている特別だった数日間。


 旅のはじまりの山は霧に包まれて。


 雲間から射した日差しとともに、麓の湖の神秘の色が、束の間姿をあらわしてくれた。





 朝霧のなか、雨の水滴を纏っていた薔薇園の花。





 旅の“はじまり”の山と記したけれど、ほんとうのこの旅の“はじまり”は、おそらく長浜八幡宮だった。


 長浜に到着し、なんとなくで足を運んだ曳山博物館で、そこに展示されている山車と「子供歌舞伎」の映像に魅了された。


 説明によると、長浜曳山祭というお祭りための山車(すべて揃うと13基だそう)で、そのお祭りでは山車を舞台に土地の子どもたちが歌舞伎を演じるとのことだった。


 映像で流れていたのはたぶん、『鬼一法眼三略巻』と『信州川中島合戦』の一幕を子供たちが演じている場面だったけれど、とても素晴らしく、曳山祭のなりたちは長濱八幡宮の祭礼として山車をつくって曳きまわしたことがはじまりとのことで、無性に長濱八幡宮に訪ってみたくなり、そのようにしたのでした。


 町のなか八幡宮にむかう道はまっすぐに舗装されて、お祭りの日は山車がそこを通るのだろうことを連想させる“参道”であり、また長濱八幡宮自体も、とても澄んでいて気持ちのよいお宮でした。


 吹く風の気配のしなやかなやわらかさ。“ここ”に呼んでいただいたことに感謝とともに。


 長浜曳山祭は豊臣秀吉が長浜城の城主だったころに八幡宮への厚い保護とともにはじまったともいわれているそうで、長浜は秀吉とゆかりが深い場所でもあることから、八幡宮をあとにすると豊國神社のほうにもお詣りしてきました。


 この神社は秀吉亡きあと長浜との縁と故人の威徳を偲んで建立されたものの、徳川の世になったとき、おもてむきは「恵比須宮」と名を変え、秀吉の存在を消しつつ、なお豊臣氏の御霊をお祀りする社としてありつづけ、大正時代になって名を「豊國」に改称されたとのこと。


 長浜のひとたちの太閤秀吉に対する気持ちが察せられます。


 思いがけず予定外に巡ったルート。


 豊臣氏と縁を結んだ千姫にも個人的に思い入れがあるので、すこし感慨深いものがありました。


 そしてそのあとにこの、三方五湖を見晴らせる山頂へと。うつくしい湖の色が忘れがたくまぶたの裏に浮かんでいます。