2023/12/31

女神の石




 本年もありがとうございました*

 ご縁をいただくかたは素敵なかたばかり。

 “あなたがあなたである”祝福にいつもあなたが、そしてわたし自身がありますよう祈っています。

 一年の最後の日にやってきてくれた女神の石が、とても高いenergyを放っていたので、大晦日のご挨拶をともに。





瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリングのご報告




 今月ご縁をいただきましたかたへの瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリングを無事に終了しております。


 わたしたちの多くが“条件づけられた”習性のなかに、「“喜び”を“受けとること”を怖れる」ということがあるようです。


 「自分のことはあとに置いておく。まずあのひとにとってよさそうなもの、ほかのひとにとって必要なものを」――それが素晴らしいことで、それが愛なのだ、と。それが愛なのだと“条件づけられてきた”、思いこまされてきたことで、そのように錯覚してきたこと。


 そして自身をあとに置いてきたゆえに、「自分がなにを感じているのか」ということがわからなくなることがある。自分が嫌なことにはNOと表明しなさい、といわれても、自身が「“NO”だと思っている」ことすらわからないことが。


 そのようなプログラムを自分のなかに発見するとき、わたしたちは、わたしたちの母や祖母、女親族のなかにもおなじものの片鱗を見ることがある。こういったことは現在にいたるまで、女性性のおおきな負の遺産として持ちこされているものである、といえるのだそうです。


 受容、セクシャリティ。

 そこに滋養をあたえていない状態であるとき、その傷が深いとき、わたしたちは幻想や錯覚のことを愛と呼んだり、支配やコントロールのことを愛と呼んだり、条件を愛と呼んだりしてしまうのだそうです。そしてそれは誰もがいつか通ってきた道であり、段階なのだと。


 その傷ゆえに“操作”のことを愛と呼ぶことがある。わたしたちはその操作のエネルギーを自分の母親や祖母のなかに見ることがある。自分自身のなかにさえ、それを見ることもある。


 「自分のことはあとまわし、ほかのひとたちを優先してください、わたしは大丈夫です」


 その結果、不満や自己犠牲の蓄積されたものが“操作”になってゆくのを。


 なにを感じているか、どのように思っているか。自分自身の内側を見つめる。自分に佳いものを、喜びをあたえてあげる。それをゆるしてゆくこと。それをおざなりにしているとき、わたしたちは物事を“操作”しようとしてしまう、自分ではそうと気づかなくても無自覚でしてしまうようになっているからこそ。


 このたびのヒーリングはとくに女性性、受容というキイワードが強くあらわれていました。おなじようなメッセージを一部、いつかどなたかのリーディングでもおつたえしたような気がします。


2023年が終わるとき、またあらためてこのようなメッセージがおりてくるのも、意味のあることだと思います。


それは重要なことなのだと、再度あらためて意識してほしい、ということなのだと。




 *



 「すべてはうまくいっています。

 すでに不要になっているプログラム、システム、データに惑わされないよう、足を引っ張られないように。


 わたしたちの肉体や脳には過去のそれらが内蔵され、繰り返される事柄や停滞の引っかかりはそれと関係をもちます。それをみずからの意識に浮上させ気づくことは、クリアリングの第1事項です。そしてそれを自身の狭い視野に限定される主観ではなく、俯瞰まで昇らせて見てみるように。わたしにはこういうところがあるな、と深刻にならず、軽い気持ちで包んであげればいいのです。


 自分自身に深刻になるとき、それは自責へとみずからの意識へと引っ張るように、そういうふうにできています。深刻と真剣は異なるものなのです。深刻になるほどに、自分にとって不要になっているプログラム、システム、データは発動するようにできています。


 自分自身を背後から見つめるように、それらを距離を置いて見ること、それができないときはそこから意識を逸らすこと。


 このエネルギーヒーリングは、それらのプログラム、システム、データに働きかけました。」




2023/12/20

「星降る夜に」後記




 12月7日から10日まで、一橋学園駅にあるカフェノルンさんでの展示、「星降る夜に」展に参加していました。


 すでに展示、そのあと1週間設けていただいた通販期間も終了しておりますが、この展示にさいして『天の花 地の星』という一冊の本を編みました。


 わたしにたくさんの“贈り物”をあたえてくれた展示であり、言葉をかたちにする機会をあたえてくださったノルンさんと、この私家本に美しく緻密な挿絵を寄せてくださったharumieさん、近くから遠くからお心寄せてくださったかたがたに感謝しています。


 『天の花 地の星』は、誰もが自分自身の内側とつながることで開く花と戴く星がある、という祈りを、“ふたりのマリア”の面影に重ねて綴ったものです。


 表紙には星を、裏表紙には薔薇と百合をそれぞれ箔押ししていただき、あえて日本語で題名を入れず、ラテン語で「flores caeli,stellae terrestres」――天の花 地の星と刻印いたしました。そして秘められたちいさな「M」

 いま思うことは、わたしは自分自身の“お守り”として、あの一冊をなによりもまずみずからに捧げるために書きたかったのかもしれない、ということ。


 本のサイズは経典を意識したのですが、それはそこに綴る言葉が“祈り”のためのものであったからでした。


 今回の“言葉”をあらわすために経験しなければならなかった一連の出来事があり、多くの“贈り物”をあたえてくれたこの展示は、ある意味ではわたしにとってわかりやすくひとつの試練の象徴でもありました。


 展示にいらしてくださった友人にその話をしながら、しかしこの本を書くために起きたそれらの出来事、それにまつわるあらゆる蛇の足を自分は体験しなければいけなかったのだ、と気づきました。そうでないと“言葉”は宙に浮き、地に根づかない。


 天の花、地の星。


 それを理解したとき、「そうだったのね」と自分自身に対して深く感じられ、これも他者に“語りかける”ということをとおして得られた気づきであり、とてもありがたいことでした。


 わたしは人に“語りかける”ことで、自分でも知らなかったことを知ることがよくあるのですが(反対に相手の話を“聞く”ことで相手が意識していなかったことを引きだすこと、それによって相手自身の“答えあわせ”となることもおなじくらいにあり、そちらの能力は基本的に境界線を設けてお仕事――Luna somniumのsession内、遠隔の場合はmessageのなかで完結、発揮させるようにしています。そうでなければ自分と相手の“神聖な距離”を崩してしまう、ということが過去に多々あり、それは結局どちらのためにもならない方向にスパイラルして望んでいなかった終わりを迎える、これもまた過去の“経験”によって知っているからです。)


 “対話”が生まれるとき、相手を成熟した“聞き手”だと信頼しているからこそ、自身の奥深くに隠れていた言葉があらわれてくる、ということ。“言葉”は信頼があってあらわれるものである、ということ。


 それをあらためて教えてくれたように感じ、わたしもみずからの純度をあげてゆきたいと心から感じたものでした。

 このことにかぎらず、この展示をとおして「信頼できる“聞き手“」であってくれたかたがたへの感謝を深くすることもあり、『星降る夜に』のことを想いだすとき、そのあたたかさとぬくもりを同時に想起するのだと思います。



 最後は展示と関係のない話になってしまいましたが、わたしにとってとても意味深く、より深く“感謝”につながることを教えてくれた展示でもありました。


 昨日くらいから通販のほうでお求めいただいたかたからも「届いたよ」のお声をつづけていただき、とても嬉しいです。

 本を手にとってくださったかたのお心に、すこしでも触れる“言葉”があれば幸いに思います。


 ありがとうございました。








2023/12/19

12月、瀬織津姫





 Luna Somniumの12月は、瀬織津姫とのつながりを深めてきました。


 今月セッションをお受けくださったかたに施術させていただきますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わず瀬織津姫のエネルギーが副次的にふくまれています。  


 もっとはやくこの女神のことを言葉にして綴りたかったのですが、今年最後のこの月を迎えると光の速さで時間は過ぎ去ってゆき、言葉に対しても注意力が散漫になることがあって留意が必要であることを感じていました(意識が散漫になりやすい空気は先月からあったので、それ自体はここのところずっと注意が必要な流れを感じていたのですが)  


 そのため瀬織津姫についてようやく綴りはじめたとき、今年も残すところあとわずか、といった日数になっていましたが、こうして心落ち着ける時間のなかでわたしはかの女神のことを言葉にしたかったのでしょう。  


 今月の女神が瀬織津姫になることは、先月が天宇受売命になることに定まったときから決まっていました。そしてそのように決まったとき、それは当然で自然な流れであるとも感じました。  


 12月は1年の最後の月であり、冬至があり大晦日があります。



 冬至は1年でもっとも昼が短い日(だからもっとも夜が長い日)。1年のなかで陰がもっとも深い日で、そのあとにつづく大晦日は古来、追儺――災いをもたらす疫をあたらしい年に持ちこさないように大祓いをする日でもあります。


 疫とは「疫病」の“疫”でもありますが、それが「伝染する流行り病」のことであることを思えば、人々の集合意識のなかにある「怖れ」のことを示してもいるのだと思います。不安や恐怖は“伝染”する。


 冬至のとき柚子湯に入るという昔からの習わしは、陰がもっとも極まる日の禊としておこなわれてきたものでした。

 湯(水)で自分自身を清潔にし、柚子によってみずからの周りに結界をつくる(“浄め”をアンカーさせる)。



 この“結界”は自分の“外”に対しても“内”に対しても、ということです。



 節分で“鬼”を“外”へと追い出すための豆まきがありますが、旧暦では節分が現在の「大晦日」にあたるため、あれもやはり追儺の習わしなのです。




 冬至から節分までのこの流れは、自分を浄めて軸を中心に戻すということをわたしたちにつたえてきますし、それがずれているなら「ずれている」ということを教えてくれる出来事や現象も生じやすいときであると思います。


 とくに今年はその陰の深まりを感じる今月でもあったので、混乱や焦り、不安など覚えやすいときであるかもしれません。体調不良がデトックスとして生じているのだろう、と感じるケースも多々見受けられます。物事の渦中にいるときは、「混乱している」ということもわからないまま、目のまえのことに手いっぱいで、自分が疲れている、ということに目をむける余白もない、ということがあるかもしれません。



 動きまわっているときは疲れを感じないけれど、ふと立ちどまると疲労がおおきかったことがわかる。だからずっと動きまわっていたほうがいい、などというひとがいます。


 それはそれだけみずからの心身に無理をさせている、負荷をかけている、ということを、自分では気づいていないだけなので、そのように「なかったこと」にしてきたことを、あとから清算する必要が生じてきます。それが文字どおりお金で解決できる「清算」ならまだよいのかもしれない。



 肉体も心も機械ではなく、わたしたちの“器”であるということ。


 コップに飲み物を注ごうとしても、そのコップが割れてしまったら、もうそこに飲み物を注ぐことはできない。


 「自分のコップのなかにどれだけ飲み物が注がれるか」ということにわたしたちは注視しがちですが、コップが割れてしまったらその飲み物を味わうこともできない、ということは忘れてしまうことがあります。


 割れたコップをたとえば金継ぎなどで修正するのも大変なことですし、完全に元通りにすることはむつかしいことです。


 12月はなにかと多忙な月ではありますが、陰がもっとも深まる月に自分自身を清潔にすること、そして節分までの流れのなかで、みずからを内省することも大切なことであると感じます。



 だから今月の女神は瀬織津姫です。


 瀬織津姫は祓い浄めの女神。それは過剰になった陰を浄めてくれる女神である、ということです。


 この女神のことは別の場所でも書きましたが
https://lunasomnium02169999.hatenablog.jp/entry/2023/06/19/121158
ヒーリングメニューの「seoritsu」は、この女神の名からいただきました。

 わたしにとってとても大切な女神で、「セオリツ」とその名を心で呼ぶだけで彼女の水の気配を近く感じるような、いつでもわたしたちを見守ってくださっている女神でもあることを感じています。



 余談ですが、以前にお迎えしたyukaneさんの絵に「瀬織津姫を感じる」といってくださるかたが多くいらっしゃいます。  


 「メニューをどれにするか迷っていたら、白い滝のヴィジョンが視え、この絵が浮かんできてセオリツヒーリングをお願いした」とおっしゃってくださったかたがいたり、「この絵が数日脳裏から離れなくて由芽さんのところに行かなければと思った」というかたがいたり。


 実はわたしもこの絵に瀬織津姫を感じています。それからマグダラのマリア、アリアドネ、とつづくキイワードを秘めているかた。わたしにとって重要で大事な絵です。


 今月お運びくださったかたには、セッションまえにこの絵を感じてみてください、とお話したりもしています*





 *12月これからの予定*    


  12月31日(日)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の瀬織津姫の一斉遠隔ヒーリング


 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。



 それではどなたさまも、ひきつづきよき12月をお過ごしください。

 そしてよい年をお迎えになられてくださいね。

 あなたがいつもあなたでありますように。



2023/11/30

天宇受売命の一斉遠隔ヒーリングのご報告




 今月ご縁をいただきましたかたへの天宇受売命(アメノウズメノミコト)の一斉遠隔ヒーリングを無事に終了しております。


 アメノウズメノミコトは問題を解決する鍵は、その“問題”について思い悩むことのなかにはない、ということをわたしたちに教えてくれる女神です。



 このたびの一斉遠隔ヒーリングが作用したもののキイワードとして、


「物事を先延ばしにするのをやめる」
「安全と確実さのなかにいることを知る」
「自分自身を受けいれる」
「大局的に物事を見ることを妨げているものへの癒し」
「自分自身の中心とつながり、地に足をつけること」

 などがありました。


 わたしたちの毎日のなかでは、自分の人生に集中するということがなかなか「できない」と思うことがあります。自分以外の誰か、自分の周囲を取り巻く環境、出来事、それらがあつまってわたしたちの人生の一部をつくっているからには、それらは現在の“わたし”と密接なかかわりをもち、“わたし”にかかわるそれらのものを、ときに“わたし”自身より優先させることがあります。


 それらに対してむける心配や懸念の気持ちに占められるとき、つねに頭や心は自分以外のもののことでエネルギーを使っているといえますが、対象への嫌悪や苛立ち、嫉妬や怒りでさえ「自分以外のものを優先している」ということができます。


 自分から放たれる感情、反応にはどのようなものであれエネルギーが宿っているので、“外”にむける意識が強いとき、そこに自分のエネルギーを使っている、そうすることを「優先している」ということができてしまいます。


 自分が宿すエネルギーが拡大され癒しがもたらされるにつれ、自身の“外”にもよい影響がひろがります。しかし自分より“外”へむける眼差しを優先し、“外側”にあるものを「どうにかするにはどうしたらいいのか」とそこにフォーカスしつづけるとき、エネルギーは縮小し、わたしたちは疲弊してゆきます。


 “問題”について思い悩むことのなかに“解決”はない、とアメノウズメミコトはいいますが、それはわたしたちが「思い悩む」とき、“外側”にあるものを「どうにかするにはどうしたらいいのか」という、エネルギーを縮小させるありかたのなかにあるからです。


 そのようなとき大切なのは、みずからに“喜び”をあたえてあげること。そして“笑い”とつながる時間をもつことこそが、“問題”だと思っていたものを“軽く”する方法なのだ、と。


 多くのひとは、自分のための時間を過ごすこと、自分のために時間を使うことをわがままなことだと思っています(この“時間”を、そのまま愛やお金という言葉にも置き換えることができます)。


 けれども自分が寛いでいること、安心していることが結果的には自分の“外”にもよい影響をもたらします。


 「そのひとのことを心配している」ほうが、表面的には「そのひとのことを深く思っている(思っているから心配せずにいられないのだ)」と見えるかもしれません。しかし話は逆で、自分が“軽く”あることが、ほんとうの意味で自身の愛するひとたちのため、そして自分自身のためであるといえます。ほんとうの意味で自分自身のためであることが、自身の周囲をも愛で満たすのだと。


 今回の一斉遠隔ヒーリングのキイワード、そしてメッセージは、かなりいまのわたし自身と呼応して感じられるものがあり、またこのようにご縁をいただいたかたに癒しを送ることで、わたし自身も癒しを受けとっているのだということを、深く感じることができる時間でした。


 すべては“ひとつである”。  


 愛や労りは、それが自分にむけたものであっても“外”にむけたものであっても、わたしたちを疲弊させることはない。


 なぜならそれは「どうにかするにはどうしたらいいか」という思考の枠組みから外れたところにあるものだからです。わたしたちはあらゆる段階をとおして、その愛と労りを学んでゆくのだと思います。  


 今月ご縁をいただいたかたと、そしてアメノウズメノミコトに心からの感謝を捧げます。


 深いヒーリングになりましたので、そのまま眠られてしまったかたもいらっしゃるかもしれません(アメノウズメノミコトは睡眠へもよい作用をもたらしてくれる女神なので、エネルギーを受けとられて眠られたかたはお疲れが溜まっていたり、心配や不安で良質な睡眠をとることの妨げがあった、ということもあるかもしれません。)


 わたしもこのたびのヒーリングから活力をいただき、このような時間をひと月の終わりに設けていることの意味を感じるものがありました。


 ありがとうございました。


 どなたさまもよき12月を*


 あなたがいつもあなたでありますように。





   

2023/11/21

妃が笑うお茶





 先日、“妃子笑”という岩茶をいただく機会があった。


 妃を喜ばせるためのお茶、そのお茶をふくんだ妃が思わずうっとりと微笑んだ、というのが名の由来らしく、その妃とは楊貴妃であるとのことで、薔薇の花びら、あるいは桃の果実のごとき色あいの可憐な茶器にそそがれた、黄金に輝くそれを自分のなかに馴染ませ、流してゆくのはとくべつな体験だった。  


 茶の香を利き、指の先にまで神経をゆきとどかせて天に捧げるみたいに両手で茶器を持つ時間はご神事のようでもあった。――そのように“自分とつながるための時間”として設けた空白はどれもみな神事であるのだろうけれども。  


 金色に光りながら芳醇なフルーツのような味わいで、たしかにこれは高貴なかたのためのものだったのだろうと感じさせられるものがあった。


 いにしえの三女神の系譜をたどるみたいに、それぞれの茶器に浮かべた黄金で三角形を描いて(そして市杵島姫、赤城姫、ノルン、など三姉妹の女神たちのことが話題にのぼる。)


 フィルムには残さなかったので、文字の記録として。



2023/11/20

うさぎ





 うさぎ。


 異界(薄絹いちまい越しに“こちら”から隔てられた“あちら”)の入り口にいてくれて、“こちら”とは異なる時間が流れるその場所の案内をしてくれる存在。

 Café nornは運命の三女神とうさぎのお店。

 去年からうさぎに縁がある。

 去年の復活祭のときにわたしのもとにきてくれた黄金のたまご。

 ある彼女が兎と龍はおなじエネルギーだといっていた。かれらはそのときわたしたちがつながりやすい姿で具現する、そんなようなこと。

 

 今年、また一歩うさぎとの距離が縮まった。

 そういえば今年は卯年で来年は辰年ね、というお話をこのあいだした。

 兎から龍へまわるまえに、まずはしっかりうさぎとの約束を果たさなくてはね。  





2023/11/19

月と人魚



 月と人魚をとおしてあらわれる、海と黄泉に関わりをもつ女神たちと神話世界。

 わたつみの宮と題された絵のなかで無限大を描く豊玉姫と玉依姫。

 孔雀と蛇とサラスヴァティ。

 女神としての月読(月黄泉)

 強さ、豊かさ、知性をつかさどる三位一体の美。

 尾の紋様に暗号を秘した、高貴でうつくしいかたたちとの至福の時間。

 上弦、満月、下弦の三相で完成される月の神秘。

 Zaroffで開催されていた坂上アキ子さんの『月と人魚』展、とても素晴らしかった。



 “人魚”――。



 先月、そこへ訪れたいという気持ちをしるべに、ちいさな旅をしてきたことも想いだす。

 青い水の聖域がある森。

 梢からふりそそぐ鳥の声、光を浴びて水の底に浮かびあがった陰影が人魚のシルエットのようだった。

 矢車菊の花とおなじ色、その場所のシンボルでもあるというカワセミの色にも通じる、吸いこまれそうな青のこと。







2023/11/18

輪のむこう側



 「竜宮という場所は、外界と時間の流れが異なるところですよね。浦島太郎は竜宮城で過ごしたあと地上に還ったとき、故郷はもう自分の知らない土地となっていて、自身が時間という枠組みから外れた場所にいたことを知った。“聖域”の内側は時間の干渉を受けないところがある。そして“ここ”もそのようなところだな、と感じることがあるんです。ここに来るといつも時間を忘れてしまう。“外”に出たとき、また“時間”という“現実”のなかに戻ってゆく、というふうに。」






2023/11/17

11月、天宇受売命





 Luna Somniumの11月は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)とのつながりを深めています。


 今月セッションをお受けくださったかたに施術させていただきますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずアメノウズメノミコトのエネルギーが副次的にふくまれています。  


 実は、わたしは当初、この女神は先月10月の女神になるのではないか、と夏ごろから感じていて、その月に日食があることに気づくと、ますますアメノウズメノミコトは10月のひと月をとおしてよりつながりを深める女神としてあらわれるのだろうという思いを強くしていました。


 (アメノウズメノミコトは天岩戸開きの女神ですが、この神話に見られる「太陽が空から消える、そしてふたたび復活する」というエピソードが日食を想起させること、またそれが意図的に綴られたのだろうことは、この女神と10月のつながりを感じたおおきな一因ではありました。)


 しかし8月の終わりごろ、「10月の女神はドゥルガー」と入ってくるものを感じ、9月になるとそれがさらに確信に変わってゆく流れがあって、アメノウズメノミコトはそのつぎの月の女神なのだ、と自分自身のなかで納得するものがありました。
 

 日食や月食はたしかに「ひとつの扉をひらく」ことをわたしたちにうながしてくることがあります(それはかならずしも天体の周期のなかにあらわれる日食や月食でなかったとしても、わたしたちは人生のいくつもの転機に自分のなかに“日食”や“月食”を視ることがある。そういうこともありますね。)



 そしてその“扉”によっては、わたしたちが思いも寄らなかったものを直視する必要性に迫られることもあります。


 それは忘れていた過去だったり、みずからの底に凍結させていた感情だったり、そこからあえて目を背けてきたりしたもの。


 そのをひらこうとするときまず自身のなかに沈んでいたものを浮上させ浄化させる必要がある


 そうでなければわたしたちはその扉のむこうに自身のなかで古くなっているもの”“すでに不要になっているものも一緒に連れていってしまう


 古くなっているもの、すでに不要になっているもの――思考や信念体系の偏りや、傷ついたがゆえに閉じていたハートのなかに沈殿されていた感情なども、それにあたるかもしれず、つぎの“扉”をひらくときには、自分自身もシーツのように洗濯して、禊をしてあげることは大事なことだと思います。


 そうでなければつぎの扉をひらいても遭遇するのは自身のなかでまだ未浄化となっている過去を人物や場所や状況を変えて繰り返すことになりかねないから


 交流する他者を変えても、場所を変えても、状況を変えても、自分が自分であることは変わることはないから、だからそれは浄化、昇華されるまで、「あなたのなかにこういうものがあるよ」と他者や場所や状況をとおして対峙する出来事として、みずからに訴えてくる。「いつもおなじようなことが起きる」というひとは、そのようなパターンをもっている、自身の心、からだに刷り込まれている、ともいえます。


 その“浄化”における段階や時間は、それぞれに異なると思います。

 凍らせていた痛みが深いほど、自分より他者を優先してきたひとほど、みずからを慈しむことをとおしてゆっくりと解いてゆく、丁寧な手で自分を扱ってゆく、そしてすこしずつ浄化してゆくことが大切であると思いますから。


 凍結させてきたものがおおきいほどに怖れが潜伏し、だから“ゆだねる”ということに抵抗し、変化に対する拒絶があらわれることがあり(それも“怖れ”と関係しているものではあるのでしょう)、自分が一度「こうだ」と“固定したもの”からフォーカスを外すことが困難である傾向も感じます。


 昨日「ただしい」と思っていたものに、今日違和感を感じたなら、それを否定しなくてもいいのです。それは昨日の自分を否定することではないただわたしたちが昨日よりも成長したあかしなのだから


 そのような次第で日食、月食をともなった10月はドゥルガーの“浄化”が重要だったようで、それは「扉をひらくまえの準備」ともいえることだったようです。

 そのようなはひとつではなくわたしたちは人生においていくつものをみずからの成長段階においてひらきそれをひらいてゆくほどに薔薇の花びらの渦の中心に近づいてゆくように自分自身の内部とつながってゆくのだと思います


 そして“扉”をひらくのも、自身の“内部”とつながるのも、自分ひとりだけの力でなされるものではありません。


 「自分だけの世界」にいるとき、わたしたちのなかに変化はないからです。世界に“わたし”ひとりなら、傷つくこともないかわりに、他者をとおして反射する自分自身を知ることもない。わたしたちがみずからのなかに生じる波をとおして自分を知るならば、他者という存在がなければ「自分を知る」こともないのだといえます。


 対峙する相手によって引き起こされる内部からの声はそれが自分にとって良いものに見えようと、“悪いものに見えようと自身の内側の反映


 だから他者との関係で起こる化学反応(繰り返しますが、その“反応”が自分にとってかならずしも好ましいものでない場合も多々あります。しかしそれは変容のためのメディスン、薬でもあるのです)こそが、自分の秘された“扉”をひらく鍵であったりします。


 自分ひとりでいくら内側を見つめても見つからなかった鍵が、他者との関係をとおして手渡されることがある、ということです。みずからの思考には限度がありますが、自身の“外”にあるものは、その限度をこえた提示をしてくることがあるからです。


 そのような次第で、10月は「扉をひらくまえ」のドゥルガーの浄化、そして11月は「扉をひらくとき」のアメノウズメノミコトの軽やかさ、が大切になってくるようでした。

 

 これを読んでくださっているかた、セッションをお受けくださっているかたはご存じだとは思いますが、わたしは毎月「月の女神」をさだめていて、しかしこれは「わたしがさだめている」というより、星や風の流れとしかいいようのないもの、世のなか全体の動き、集合意識、それをあらかじめ感じ、「この月はこの女神がよい」というのがおりてくる、というか、この月にこの女神のエネルギーとつながるとよい、という意図と設定をしてさだめている(おりてくる)ものにしたがっているかたちです。



 だから11月はアメノウズメノミコトです。


 アメノウズメノミコトは、この世から太陽が隠れ、永劫の夜に世界が覆われたとき、神々が「どうすれば太陽が天に還ってくるのか」と悩むなかで、ただひとり軽やかに踊りだし、その場に笑いをもたらしました。


 困難な状況のとき深刻に思いつめどうすればいいのかとその方法について思い悩むよりも軽やかさや笑いこそみずからが困難だと思うその状況を切り抜けるとなるのだとこの女神は教えてくれます


 重く感じる事柄に軽やかさを保つことは自身のバランスが大切になり、だからアメノウズメノミコトは心のバランスによって健やかさとつながること、その妨げとなっている障壁への癒しをサポートしてくれます。


 この女神のバランスへの作用は自分自身の生活を創造することを助け、睡眠への悩みにも影響をあたえてくれます。


 扉と鍵はこれからしばらくつづく流れのなかで重要なキイワードとなるのかもしれませんね(そのまえの“浄化”も、もちろんあわせて)





   *11月これからの予定*    

  11月30日* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアメノウズメノミコトの一斉遠隔ヒーリング

 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。



 それではどなたさまも、ひきつづきよき11月をお過ごしください。

 あなたがいつもあなたでありますように。





 *LOVE*  


2023/08/01

かみなり




 なにかのはじまりを告げるような夏の日の雷鳴。


 その「はじまり」がなにを示すのかはひとによる。


 古来わたしたちは雷のなかに神を視て、稲妻をとおしてなにかが“下される”のを見た。


 祝福も罰も自分自身のなかにあるもの。内側にあるものが空に顕現されたとき、わたしたちはそこにおおきな存在の慈悲と冷酷を同時に感じていた。――畏れ。


 雷には光も音も畏れもそろっているのだから、そこに“最高”の力をもつ神々の姿を人間が視たのは当然のこと。自然のなかに宿るあらゆるものに、わたしたちはそれらを視た。


 かみなりは「神鳴り」


 8月のはじまりの午後、目に映ったいかづちがシヴァ神のトリシューラ(三又の鉾)みたいだな、と思いつつ、この魔法がかかった幕開けと予感の雷を感じている。


 あのシンボルがなぜ三又で示されているのかといえば、それぞれの穂が意志(愛)、行動、知恵を意味して、このみっつの力によってシヴァ神は悪と無知を打ち砕くことができるからだ、と聞いた。


 そしてこんなふうに想いを馳せているうちに、すぐそばで轟いていた雷鳴は遠雷になってゆく。特別な時間のなかでのこと。




2023/07/30

いつか見た







シグナス







 そういえばすっかり忘れていたけれど、


 おととしのメイポールのとき、わたしが手にとったリボンに刺繍されていた星座は白鳥座だった。


 今年のはじめに思いがけず貸していただいた衣のことを、「天女の羽衣」と呼んだりした。


 それもたぶん、いつか見た夢のつづき。


 夢はいつもわたしの、イマジネーションの源泉。


 シグナスはサラスヴァティの星。あの星はスワンクイーンの故郷。


 そろそろわたしにも自身のための、自分のためだけの“羽衣”が必要なのだろうと、なんとなくで感じている。


 たとえば自分が王になりたいからといって誰かの“王冠”を強奪しても、みずからがその冠に見あう器でなければ“重さ”に圧し潰されて王位は失効される。冠はもともと自分のものではないから、それがもつ威光だけを横取りすることはできない。――聖なる泉で耳を傾けたそんな話を想いだす(そしてそれはわたしが、鏡や剣や勾玉にも感じていること。)


 自分自身の内側から生みだされる王冠と、“外”に具現されたそれが深くつながるとき、そのひとは真の“王位”を頂く。


 “羽衣”もおそらく、そういうもののひとつなのだと思う。





2023/07/29

羽衣




***




 夢。白い町の忘れられたような森で、天女の羽衣みたいな布を手に踊ってる女性。

 二十歳を過ぎて間もない年頃に見えるけれど、見かけどおりの年齢とはかぎらない。



 「あなたはこの町で、この場所でなにをしてるの」と問うと、彼女は「なにも。ただ風になってるの」といった。

 「あなたはなにをするために生まれたの」と問うと「おおきな嵐を呼ぶため」といった。

 「それではわたしはどうして生まれたの」とわたしがわたしのことを問いかけると、彼女はこちらに一瞥をあて、掌のひらをうえにして両手を差しだした。



 その掌のひらのうえに蓮の花が浮かんだ。

 クリスタルガラスみたいに透明な蓮の花。それが輝いて光の反射で虹色に光った。

 そして彼女はひとこと落ち着いた声で「わかってるでしょ」といった。




***


 いつか見た夢のこと。日付を確認すると2020年1月9日だった。


 聖なる泉の地でわたしと“外”との境界をつくってくれたベール。「このなかから選んで」とつたえられ、躊躇うことなく純白のそれを手にとったのは、それがわたしの目にはサラスヴァティの羽衣のように映ったからだった。


 サラスヴァティは白鳥と孔雀の女王。うつくしい鳥たちの、その羽根がこぼれる舞に彼女はいる。

 白鳥の白。その輝く羽ばたきを象徴するベールで、彼女は水の流れを呼ぶ。


 かの女神を感じる清らの色。それ以外、そのときのわたしの心にはなかった。けれどもあれから数日が過ぎたいま、不意に記憶から呼び起こされた、あのいつか見た夢のなかの“天女”とおなじ“羽衣”を、という無意識が働いたのかもしれない(――あれはサラスヴァティだったのだろうか)と感じたりもする。




 余談として。

 緑、青、紫の色が混ざりあった、まさに「孔雀色」としかいいようのない色のベールを手にし、大切に纏っていたひとにそういったら、「森のイメージだったの」という答えが返ってきた。森と白鳥と孔雀と泉と、そこに溶けあういつかの夢。





2023/07/27







 森の奥深くの澄んだ空気。


 境界としてさだめられた樹の柱の頂にあった蝉の抜け殻。


 それを見つめながら、「ここにも死と再生が」という誰かの声を聴いたこと。


 不意に黒い揚羽蝶がわたしの目のまえにやってきて、踊りはじめた。


 「インフィニティ」と誰かの声がすこし驚きをふくんで弾む。


 おおきく弧を描く祝福の舞。それを誰かがフィルムにおさめようとした瞬間、飛び去っていった蝶を視線で追いかけて見失う。


 「そういうことじゃないっていってる。あなただけに見てほしかったのね」


 記憶のなかにだけ残る風景。


 「わたし、インフィニティの指輪をしてるの」といって、左手のひとさし指を差しだしてみせる。


 この旅の数日まえに、どうしてもお迎えしなければと感じて衝動的にもとめたリング。おそらく旅にもっていきなさいということなのだろうと思ってそうしたこと。


 ∞Infinity∞


 このシンボルは、今回の旅のなんらかの象徴だったのかもしれない。


 あの黒い蝶はいまも、銀の指輪のなかにいてくれる。





2023/07/26

2023/07/21

ふりかえり(3)未来と鏡





 未来、誘導。


 リーディングは鏡。見つめるのは自分自身の心。


 真の予言者であるほどに、その予言は抽象的な言葉がならべられているのではないか。“誘導しない”ために、そして“守る”ために。


 それを紐解いて解を出すのは集合意識。ノストラダムスの大予言も「ひとびとが見たかった」ものでしかない。


 破壊を望んでいるはずなどないとそのひとびとはいうかもしれない。――でも、ほんとうに? 平安の末法思想のようなもの。


 そして再生のまえに破壊があることは、個人レベルでもおなじ。


 「封じられていたもの」を解くとき、それを「封じていたもの」を昇華する過程で破壊は起こる。いくつものそれを経験した。物理的にもエネルギーレベルでも。


 そのすべてが自分のプロテクションとなってゆくのだと。ようやく自分をプロテクションするとはどういうことなのかということを体感で知りはじめている。目に見える存在や目に視えない存在、おおくの力を借りながら。


 お部屋に好きなものだけをならべている。曼荼羅のように。それはわたしのための、そしてこの部屋を訪れてくれるひとたちのための護符となる。




 2022.6




ふりかえり(2)握りしめた手のひら





 闇を見るということは、そこに光が眠っていることを知らせてくれているということだから、自分を見つめることが自身の力にもなることを知っている。



 見つめることが力であることを知っている、


 けれどもそれを“外”にもとめるとき、光は外にあると思っていることがある。


 そのとき、自分にはないと思っている“外”にある光を模倣することがある。


 それはそのひと自身の光をそのひとみずからが退けている状態だから、ますます自分の光を信じられなくなるような、そういう状態になることがあって、でもそれも、そのひとが自分の中心に辿りつくために必要なことではあるのかもしれない、とも思う。


 力を“思い出す”ために必要な道であるのかもしれない、と。


 それでいながらそういう段階にある他者の“もたれる”エネルギーというか、そういうものにはよくよく注意する必要も感じてて、相手の期待する答えや態度じゃなくてもそれがとても大事なことだと。

 それをあげることがやさしさのように感じるひとたちには冷たさのように感じられることでも、相手のなかにある力を信じたり、それを信じているからこそ距離を保つことも大切なことだと。


 依存とやさしさを区別することは誰にとっても大事なこと。


 怖がらなくていいんだよ、でも、怖くたって大丈夫だよ、その固く握りしめた手のひらをゆるめたら、なにが起きるのだろうと怖いんだね、なにも起きないかもしれないと怖いんだね、その手をずっと閉じてきたのだもの。


 自分が“ずっとしてきたこと”からなにかを変えようとするとき怖さがある、それが自身のためにはならなかったものやことでさえ。


 それはあたりまえのことだから大丈夫だよ、その手をずっと閉じてきたことの、理由はあとからついてくる。だからそれをはなして(離して、放して)みても怖くないよ。でも、怖くてもいいんだよ、と心のなかで囁きかけるとき、わたしはかつての自分、“ちいさな女の子”にそれをつたえているんだと思う。



 それはかつてのわたしにむかって流れてゆく“ゆるし”でもあるのだと。



 2022.6




ふりかえり(1)知識と知





 ひさしぶりにこの場所に戻ってきたら、いくつも「非公開」のまま「下書き」で眠らせている言葉たちがあって、わたしもいまひとつの節目をこえてゆくときでもあるし、それを「ふりかえり」として残しておくことにしました。


 このいくつかの「ふりかえり」はすべて去年の2022年6月に記したもののようで、題名もそのときの自分がつけていたもの。





 知識があれば知を知ることができるわけではなくて、100の知識をもっていても、それを体現できなければいろいろとむつかしくなる。

 経験をともなってはじめて知は知になるものだと思うから、でも知識が0の状態からそこにいけるかというと、100の知識をもとめる執着とでもいうべき段階もある。


 それにしがみつきながら「わたしはすべてを知っている」「すべてを知っていたい、把握していたい」という驕りが雷でうたれて、過剰にまとった知識をすべて剥がされて「わたしはなにも知らなかった」の状態からすべての知識は自分の心の中心とつながっていれば不要だったという氣づきのあと、「わたしはすべてを知っている、だからすべてを知らない」みたいな状態に――そういう段階が必要なときある。



 だから貪欲に知識をもとめてすべてを把握したいと思っているひとたちに、その必要はなくてそれは反対に脳や心の毒になることがありますよ、といっても納得しないし、結局ひとは自分の心が腑に落ちなければ納得しないのだから、毒をもとめているときは毒を摂取して、それをつづけたらどうなるかということを本人が経験したいのだなと見守るしかないときもある。


 知識はもちろん大切なもの。外の知識をとおして自分の肯や否を感じとり、自分という人間を知ってゆく、わたしも。

 そのうえで自分のからだや心の反応を無視しているときは、自身のなかにいれる知識は選んであげるのが大事なこと。



 その取捨選択が。



 2022.6




音遊び









 音を奏でなさい、音を鳴らしなさい、音で遊びなさい。


 そんなmessageが、去年くらいから幾度も入ってくる。


 その“音”をわたしは“言葉”のこととして受けとっていた。


 「“言葉”をもちいてみずからを表現しなさい」ということなのだと。


 けれども、ほんとうに“音”のことをつたえてきていたのだ、ということを最近の流れで肉体が納得しているのを感じる。


 肉体が納得しているということは、心が納得しているということとおなじ。



 「土と響きあう感性で語らっておられるお姿が凛々しくもあり、また女神のようでもあり」とあるかたがいってくださったけれど、このかたはまた、わたしの声を「少年のよう」だと形容してくれて、そのように喩えられるのははじめてだったので、新鮮な驚きだった。


 その言葉と同時に白鹿をかたわらに、中性的で玲瓏な横顔、銀色と金色のはざまの長い髪をもつ少女(から出ていこうとしている。でも“女”ではない)かたのお姿がヴィジョンのなかに入ってきて、アルテミスかしら、などと感じながら。


 「目と声はどれだけ生まれ変わっても、おなじものを宿している」


 「弟橘媛の“おと”は“音”のことでもある」


 音遊びのなかでかわした会話は、どれもoracleのごときもの。






ガネーシャ





 あるかたとお話をしていて。



 「すべてがつながっているから、過去生の自分(たち)への癒しは、いまの自分の“内なる子ども”にも深く届くことを感じる」というそのかたの言葉から、インドの神さまであるガネーシャのことを思いだした。







 「ガネーシャがおなじようなことをつたえてきたことがあります。ガネーシャはシヴァ神とシャクティ(女神ドゥルガーのことでもある)の子どもで、女神ラクシュミーを養母とする象の頭をもつ神のこと。


 未来の子どもたちのために、未来世のために現在の自分を癒す。

 それは過去の子どもたちのため、過去生の自分を癒すことでもある、と。


 それがそれぞれの“内なる子ども”をダイヤモンドのひかりで満たしてゆく、ということで、そしてある地点において泉があふれだしたとき、閉じていたものが開いて、力となって還ってくる。


 ガネーシャは女神たちにつながる“扉”を護る、ウィズダムキーパーみたいな存在でもあり、どのような女神であれ女神とつながることは同時に、ガネーシャとつながることでもあるんです。


 それはかれが女神たちの守護者であるとともに、“内なる子ども”の守護者でもあるから」



7月のマグダラのマリア



 7月のマグダラのマリア





 明日はMary Magdalene――マグダラのマリアの祝祭日。

 その日、女神の森の奥深く、聖なる泉につながる扉を開きにゆく。


 それはおそらく偶然ではなくて、
 幾重にもかさなるその女神の面影に、
 “彼女”もきっといるのだと。