2023/07/21
ふりかえり(1)知識と知
ひさしぶりにこの場所に戻ってきたら、いくつも「非公開」のまま「下書き」で眠らせている言葉たちがあって、わたしもいまひとつの節目をこえてゆくときでもあるし、それを「ふりかえり」として残しておくことにしました。
このいくつかの「ふりかえり」はすべて去年の2022年6月に記したもののようで、題名もそのときの自分がつけていたもの。
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知識があれば知を知ることができるわけではなくて、100の知識をもっていても、それを体現できなければいろいろとむつかしくなる。
経験をともなってはじめて知は知になるものだと思うから、でも知識が0の状態からそこにいけるかというと、100の知識をもとめる執着とでもいうべき段階もある。
それにしがみつきながら「わたしはすべてを知っている」「すべてを知っていたい、把握していたい」という驕りが雷でうたれて、過剰にまとった知識をすべて剥がされて「わたしはなにも知らなかった」の状態からすべての知識は自分の心の中心とつながっていれば不要だったという氣づきのあと、「わたしはすべてを知っている、だからすべてを知らない」みたいな状態に――そういう段階が必要なときある。
だから貪欲に知識をもとめてすべてを把握したいと思っているひとたちに、その必要はなくてそれは反対に脳や心の毒になることがありますよ、といっても納得しないし、結局ひとは自分の心が腑に落ちなければ納得しないのだから、毒をもとめているときは毒を摂取して、それをつづけたらどうなるかということを本人が経験したいのだなと見守るしかないときもある。
知識はもちろん大切なもの。外の知識をとおして自分の肯や否を感じとり、自分という人間を知ってゆく、わたしも。
そのうえで自分のからだや心の反応を無視しているときは、自身のなかにいれる知識は選んであげるのが大事なこと。
その取捨選択が。
2022.6