2023/07/21

音遊び









 音を奏でなさい、音を鳴らしなさい、音で遊びなさい。


 そんなmessageが、去年くらいから幾度も入ってくる。


 その“音”をわたしは“言葉”のこととして受けとっていた。


 「“言葉”をもちいてみずからを表現しなさい」ということなのだと。


 けれども、ほんとうに“音”のことをつたえてきていたのだ、ということを最近の流れで肉体が納得しているのを感じる。


 肉体が納得しているということは、心が納得しているということとおなじ。



 「土と響きあう感性で語らっておられるお姿が凛々しくもあり、また女神のようでもあり」とあるかたがいってくださったけれど、このかたはまた、わたしの声を「少年のよう」だと形容してくれて、そのように喩えられるのははじめてだったので、新鮮な驚きだった。


 その言葉と同時に白鹿をかたわらに、中性的で玲瓏な横顔、銀色と金色のはざまの長い髪をもつ少女(から出ていこうとしている。でも“女”ではない)かたのお姿がヴィジョンのなかに入ってきて、アルテミスかしら、などと感じながら。


 「目と声はどれだけ生まれ変わっても、おなじものを宿している」


 「弟橘媛の“おと”は“音”のことでもある」


 音遊びのなかでかわした会話は、どれもoracleのごときもの。