音を奏でなさい、音を鳴らしなさい、音で遊びなさい。
そんなmessageが、去年くらいから幾度も入ってくる。
その“音”をわたしは“言葉”のこととして受けとっていた。
「“言葉”をもちいてみずからを表現しなさい」ということなのだと。
けれども、ほんとうに“音”のことをつたえてきていたのだ、ということを最近の流れで肉体が納得しているのを感じる。
肉体が納得しているということは、心が納得しているということとおなじ。
「土と響きあう感性で語らっておられるお姿が凛々しくもあり、また女神のようでもあり」とあるかたがいってくださったけれど、このかたはまた、わたしの声を「少年のよう」だと形容してくれて、そのように喩えられるのははじめてだったので、新鮮な驚きだった。
その言葉と同時に白鹿をかたわらに、中性的で玲瓏な横顔、銀色と金色のはざまの長い髪をもつ少女(から出ていこうとしている。でも“女”ではない)かたのお姿がヴィジョンのなかに入ってきて、アルテミスかしら、などと感じながら。
「目と声はどれだけ生まれ変わっても、おなじものを宿している」
「弟橘媛の“おと”は“音”のことでもある」
音遊びのなかでかわした会話は、どれもoracleのごときもの。