2023/07/21
ふりかえり(2)握りしめた手のひら
闇を見るということは、そこに光が眠っていることを知らせてくれているということだから、自分を見つめることが自身の力にもなることを知っている。
見つめることが力であることを知っている、
けれどもそれを“外”にもとめるとき、光は外にあると思っていることがある。
そのとき、自分にはないと思っている“外”にある光を模倣することがある。
それはそのひと自身の光をそのひとみずからが退けている状態だから、ますます自分の光を信じられなくなるような、そういう状態になることがあって、でもそれも、そのひとが自分の中心に辿りつくために必要なことではあるのかもしれない、とも思う。
力を“思い出す”ために必要な道であるのかもしれない、と。
それでいながらそういう段階にある他者の“もたれる”エネルギーというか、そういうものにはよくよく注意する必要も感じてて、相手の期待する答えや態度じゃなくてもそれがとても大事なことだと。
それをあげることがやさしさのように感じるひとたちには冷たさのように感じられることでも、相手のなかにある力を信じたり、それを信じているからこそ距離を保つことも大切なことだと。
依存とやさしさを区別することは誰にとっても大事なこと。
怖がらなくていいんだよ、でも、怖くたって大丈夫だよ、その固く握りしめた手のひらをゆるめたら、なにが起きるのだろうと怖いんだね、なにも起きないかもしれないと怖いんだね、その手をずっと閉じてきたのだもの。
自分が“ずっとしてきたこと”からなにかを変えようとするとき怖さがある、それが自身のためにはならなかったものやことでさえ。
それはあたりまえのことだから大丈夫だよ、その手をずっと閉じてきたことの、理由はあとからついてくる。だからそれをはなして(離して、放して)みても怖くないよ。でも、怖くてもいいんだよ、と心のなかで囁きかけるとき、わたしはかつての自分、“ちいさな女の子”にそれをつたえているんだと思う。
それはかつてのわたしにむかって流れてゆく“ゆるし”でもあるのだと。
2022.6