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2026/06/17

アーモンドクリームのタルト











 holy garden、conafeさんのアーモンドクリームのタルト。


 甘夏、さくらんぼ、ブルーベリーといった夏の果物が入っていて、とてもおいしかった*









2023/07/21

ふりかえり(3)未来と鏡





 未来、誘導。


 リーディングは鏡。見つめるのは自分自身の心。


 真の予言者であるほどに、その予言は抽象的な言葉がならべられているのではないか。“誘導しない”ために、そして“守る”ために。


 それを紐解いて解を出すのは集合意識。ノストラダムスの大予言も「ひとびとが見たかった」ものでしかない。


 破壊を望んでいるはずなどないとそのひとびとはいうかもしれない。――でも、ほんとうに? 平安の末法思想のようなもの。


 そして再生のまえに破壊があることは、個人レベルでもおなじ。


 「封じられていたもの」を解くとき、それを「封じていたもの」を昇華する過程で破壊は起こる。いくつものそれを経験した。物理的にもエネルギーレベルでも。


 そのすべてが自分のプロテクションとなってゆくのだと。ようやく自分をプロテクションするとはどういうことなのかということを体感で知りはじめている。目に見える存在や目に視えない存在、おおくの力を借りながら。


 お部屋に好きなものだけをならべている。曼荼羅のように。それはわたしのための、そしてこの部屋を訪れてくれるひとたちのための護符となる。




 2022.6




ふりかえり(2)握りしめた手のひら





 闇を見るということは、そこに光が眠っていることを知らせてくれているということだから、自分を見つめることが自身の力にもなることを知っている。



 見つめることが力であることを知っている、


 けれどもそれを“外”にもとめるとき、光は外にあると思っていることがある。


 そのとき、自分にはないと思っている“外”にある光を模倣することがある。


 それはそのひと自身の光をそのひとみずからが退けている状態だから、ますます自分の光を信じられなくなるような、そういう状態になることがあって、でもそれも、そのひとが自分の中心に辿りつくために必要なことではあるのかもしれない、とも思う。


 力を“思い出す”ために必要な道であるのかもしれない、と。


 それでいながらそういう段階にある他者の“もたれる”エネルギーというか、そういうものにはよくよく注意する必要も感じてて、相手の期待する答えや態度じゃなくてもそれがとても大事なことだと。

 それをあげることがやさしさのように感じるひとたちには冷たさのように感じられることでも、相手のなかにある力を信じたり、それを信じているからこそ距離を保つことも大切なことだと。


 依存とやさしさを区別することは誰にとっても大事なこと。


 怖がらなくていいんだよ、でも、怖くたって大丈夫だよ、その固く握りしめた手のひらをゆるめたら、なにが起きるのだろうと怖いんだね、なにも起きないかもしれないと怖いんだね、その手をずっと閉じてきたのだもの。


 自分が“ずっとしてきたこと”からなにかを変えようとするとき怖さがある、それが自身のためにはならなかったものやことでさえ。


 それはあたりまえのことだから大丈夫だよ、その手をずっと閉じてきたことの、理由はあとからついてくる。だからそれをはなして(離して、放して)みても怖くないよ。でも、怖くてもいいんだよ、と心のなかで囁きかけるとき、わたしはかつての自分、“ちいさな女の子”にそれをつたえているんだと思う。



 それはかつてのわたしにむかって流れてゆく“ゆるし”でもあるのだと。



 2022.6




ふりかえり(1)知識と知





 ひさしぶりにこの場所に戻ってきたら、いくつも「非公開」のまま「下書き」で眠らせている言葉たちがあって、わたしもいまひとつの節目をこえてゆくときでもあるし、それを「ふりかえり」として残しておくことにしました。


 このいくつかの「ふりかえり」はすべて去年の2022年6月に記したもののようで、題名もそのときの自分がつけていたもの。





 知識があれば知を知ることができるわけではなくて、100の知識をもっていても、それを体現できなければいろいろとむつかしくなる。

 経験をともなってはじめて知は知になるものだと思うから、でも知識が0の状態からそこにいけるかというと、100の知識をもとめる執着とでもいうべき段階もある。


 それにしがみつきながら「わたしはすべてを知っている」「すべてを知っていたい、把握していたい」という驕りが雷でうたれて、過剰にまとった知識をすべて剥がされて「わたしはなにも知らなかった」の状態からすべての知識は自分の心の中心とつながっていれば不要だったという氣づきのあと、「わたしはすべてを知っている、だからすべてを知らない」みたいな状態に――そういう段階が必要なときある。



 だから貪欲に知識をもとめてすべてを把握したいと思っているひとたちに、その必要はなくてそれは反対に脳や心の毒になることがありますよ、といっても納得しないし、結局ひとは自分の心が腑に落ちなければ納得しないのだから、毒をもとめているときは毒を摂取して、それをつづけたらどうなるかということを本人が経験したいのだなと見守るしかないときもある。


 知識はもちろん大切なもの。外の知識をとおして自分の肯や否を感じとり、自分という人間を知ってゆく、わたしも。

 そのうえで自分のからだや心の反応を無視しているときは、自身のなかにいれる知識は選んであげるのが大事なこと。



 その取捨選択が。



 2022.6