2025/10/29
MYSTERY OF TUTANKHAMEN
『MYSTERY OF TUTANKHAMEN』に過日訪いました。
“死”は終わりではなく無でもなく、この地上からつぎなる世への移行であり、定められた周期で氾濫と豊穣を繰り返すナイル川の“再生”と、太陽の運行に見る“永遠”にもとづいている古代エジプトの死生観。
王墓にはそのための祈りがおさめられている。
ツタンカーメンの王墓の副葬品を精巧に再現したレプリカによる展示。
複製をとおして当時の息づかいや若き王の生涯を、五感で感じるためのもの。
黄金のチャリオット、死者の魂の守護者であるアヌビス、神々とヒエログリフ。
おととしの角川武蔵野ミュージアムでの開催からうかがいたかった展示に、ようやく。
ツタンカーメンとアンケセナーメン。
王と王妃がむかいあう玉座のレリーフに、わたしは幼いころから惹かれていて、これらが発掘されたさいのハワード・カーターの言葉をふくめ、子どもの時分より神話のように感じている。
(この場合、それが“ほんとう”かどうかは、わたしにとってあまり重要ではなく。)
*
『最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花が置かれていたことだ。私はこの花を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった。』
ハワード・カーター
*
タニガワマリコ・いしみずズコ2人展『ヤサシイの扉』 at art Truth
なんといってもこの対となる扉の絵が大好きでした。渦を巻く紅色の薔薇と、白い野ばらと。星と雪の結晶が互いに呼びあい、水面にひろがる波紋でもうひとつの花の渦と、水面と溶けあいもうひとつの扉の空と、つながっているようで。
そして花の色と暁の色も連動しあっているのだな、と気づいたのは帰り道に日暮れのあとの薔薇園で薔薇を眺めていたときのこと。
天文学者の部屋
天文学者の部屋で、錬金術師の部屋でもある場所へ。
密度高く凝縮された空間にならぶ天球儀や器具を眺めていると、時間が経つのも忘れそうなほどで、“かつて”を生きたひとたちが謎や未知なるものを解き明かそうとした形跡に触れるのは心躍る体験でありながら、解明されない余白も好きだったりする。
シブエミカ写真展『沼の鏡/鏡の沼』 at room103
水鏡に映る森が、逆転した世界で邂逅したさかさまの双児のように繋ぎあわされた写真を目にしたときから、とても心惹かれて、その一枚のフォトグラフを頼りに訪ねていった。
海でも湖でも川でもなく、沼。
そこに眠っているものは底がなく、どこまでも深きに潜るみずからの深淵かもしれない。
「その扉にいたる手がかりをどうぞ」というふうに置かれていた鍵。
散りばめられた鮮やかな赤が、差しだされた鍵とともに、ひとつの暗号みたいだった。
合言葉のように“Alice”とクレジットに明記された、8mmフィルムの映像に登場する女の子たちの名は、“どこでもない国”の“どこでもない場所”にあなたを誘うので、潜ってみてください、といっているみたいで、ノスタルジアというにはまだ身に覚えのある感情を撫でていく、原風景に触れる展示だった。
『ポプリア逍遙』展 at 霧とリボン
『ポプリア逍遙』展 at 霧とリボン
優美な気品に満ちた薬草壺と、その調合に使われるのかもしれない植物が壜に封じられてならぶ部屋に、星に捧げられた言葉が静謐に置かれてあった。
tarotの15番、daemonとの呼応を感じた山羊座が今日のわたしには印象深く、大理石に彫られた神話のごとき断片から矢車菊の花をあざやかに手渡された。
お迎えしたもの。
フランスガムさんの『人魚の唄』は、アンデルセンの人魚姫とおなじ色の瞳をもつ、海の色で矢車菊の花の色を眼差しに浮かべた人魚のお話。
自分の瞳のなかの青に囚われていた彼女が、海底より深く隠されていた記憶から、やさしい風によって浮かびあがり、そっと飛んでゆく話でもあった。
2025/10/21
鳥の唄
新月に色づく花。
そして最近よく聴こえてくる「鳥の歌」のこと。
太陽が空にある時間に家にいると、鳥のさえずりがあちらからもこちらからも聴こえてきて、合唱しているようだなとすら思うほどに、ずっと歌っている。
おおきな森がそばにあるためか、まえから鳥の声はよく聴こえていたけれど、金木犀の香りを風がふくみはじめる直前くらいから、この季節を謳歌しているみたいに、ほんとうにずっとずっと歌っている。
今日も新月のための唄を歌っているようだった。
2025/10/20
新月前夜
早朝の雨の庭に落ちていた酔芙蓉を、部屋に持ちかえり水の器に。
朝に純白の花をひらき、正午から薄紅をひろげ、夕方にかけてはっきりとした紅へ。
たった一日だけのグラデーションに物語を秘める花の神秘。
この子は開花した日にずっと室内にいたので、日が暮れても淡く乙女の色にとどまっている。
そんな新月前夜。
2025/10/10
仲秋
6日の仲秋の名月の日。
特別な日に、とくべつな場所へ。
なにげなく開いて最初にあらわれた頁に「クノッソスのバラの物語」からはじまる言葉とともに、世界最古の薔薇の絵である「青い鳥(Blue bird)」が目に飛び込んできたとき、このうつくしい本を手もとに迎えようと決める。
特別な月の夜に、holy gardenのお花やさんからやってきてくれた薔薇は“vintage rose”というのだそうで、そういえばこの名も“最古の薔薇”といえなくもないのかも、と思ったり。
後日談として。
薔薇はvintage roseではなく、vintage laceだそうです。名を教えていただいたときもantique laceといい間違えたり。“鳥”の名のお花やさん(コトリ花店)でお迎えしたこともふくめ、わたしの夢のなかでは古代の壁絵、“最古”の薔薇とつながっていたようです。
vintage lace*
2025/10/05
三浦康太郎 銅版画展『午前0時への招待状』 at msb gallery
三浦康太郎 銅版画展 『午前0時への招待状』 at msb gallery
夜空を疾る汽車の十二宮の旅。散りばめられた星の地図の緻密な線や点のひとつずつに隠されている、数多の秘密や暗号を感じつつ。
それぞれの星座を十二面体に映したオブジェもあり、ここにもちいさな宇宙を想いながら。
『Astropia』という作品も心に残った。天にむかって羽ばたく、というよりも嘴で宙の道を切り拓いているような鳥に、“生命の樹”の構図を感じた。
題はアストロ(星)とユートピア(理想郷)が融合した言葉だと聞き、この鳥は宇宙の中心に飛翔し、創造の種を生みだしているのだろうか、などと思ったり。
2025/10/01
10月、アバンダンティア
Luna Somniumの10月の女神はアバンダンティアです。
Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。
この10月はアバンダンティアとのつながりを深め、施術にもこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。
アバンダンティアはローマの豊かさの女神で、成功や豊穣、繁栄や幸運など、この地球上であらわされる“豊かさ”を精神的にも物質的にもつかさどる女神です。
彼女はコルヌコピアイ(豊穣の角)という宝物をもっていて、そこからいくらでも“豊かさ”を引き出すことができる。
そして、わたしたちにもみずからの“豊かさ”とつながる方法を想いださせてくれます。
秋は豊穣の季節。
それはどのようなものであれ、みずからの蒔いた種を“収穫する”と季節でもあるということです。
自分の“豊かさ”につながるということは、まず自身が「どのような種を蒔いてきたか」ということに気づき、そしてそこに“豊かさ”とのつながりを妨げるものがあるならば、「これからどのような種を蒔いていきたいのか(それで、あなたはどうしたいの?)」という「自分の意図はどこにあるのか」ということを心に問うにも適した時期です。
自分が育てたい“花”があるならば、その花の“種”を植える必要があります。
しかしわたしたちはしばしば、自身が望む花とは異なる種(思考)を植え、なぜ花(現実)が育たないのだと考えます。
アバンダンティアは、“豊かさ”という種のなかの、それが花として育つことを阻んでいる怖れを溶かし、わたしたちのなかの“豊穣”とのつながりを深めてくれる女神でもあります。
(そういえば、なぜ先月の一斉遠隔のご報告で“種”という言葉をもちいたのかと思っていたのですが、豊穣と“種”は土のエレメントとしてのつながり、成熟と結びつきとしての10月とのアバンダンティアとすでに連動していたがために、橋渡しとして“種”というキイワードがあらわれたのかもしれません。)
ピーテル・パウル・ルーベンス『豊穣(アバンダンティア)』
*
10月、これからの予定
10月30日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアバンダンティアの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもよきひと月をお過ごしになりますように。
あなたがいつもあなたでありますように。
2025/09/30
“Maria”
聖テレーズ合唱団の「小さな演奏会」
聖母生誕祭があった月の静かな夜に、澄んだ調べの“Maria”
目を閉じて音のいざないに身をまかせ、意識を手放す。
“祈り”がどれだけ自分というものを超えたおおきなものとの繋がりを感じられるか、そのための空間を自身に迎えられるか、なのだとしたら、その“空間”のありかをいつも、教えてくれる場所。
今月はやはり、はじまりからおわりまで、ほんとうに聖母マリアの月だった。
と、いうよりもここ数年の一貫した主題として、ずっと聖母マリアはいてくれている。
ずっとずっとまえからそうであったけれど、わたしがそれに“気づいた”のが近年のことだというだけのことだともいえる。
今月だけでもそのシンクロニシティに、自分でも驚いてしまうくらいに。
聖母生誕祭、イグナチオ教会であったこと、マリア地蔵さま、青い贈り物、マリアさまのお庭、Ave Maria、言葉にできない数々のもの……
すべてへの感謝とともに、この祝福を10月にも渡してゆく。
聖母マリアの一斉遠隔ヒーリングのご報告
9月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへの聖母マリアの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
敏感な反応、神経の鋭敏さ。外部のものを自分自身の“重さ”として吸収しているもの。
今回はそのあたりへのクリーニングがなされていたようでした。
そしてそのうえで、敏感や繊細であるということは、けっして悪いことではないのだということをお心にとめておいてほしいです。
わたしたちの浄化が進み、自分との繋がりが深まれば、おのずと神経もまた鋭敏になります。
それは大なり小なり“麻痺”していなければ、「この現実で生きていくことができない」という物の見方、眼差しの角度が、人生をとおして植えつけられる経験をくぐり抜けてきたひとたちにとって、無防備であることはある段階において“危険”と同義語でもあったからです。
純粋であることは無知であることと捉えられ、世のなかから見た価値観によってYESとされるものが“正解”であることに息苦しさを感じながらも、その息苦しささえ気づかなかった、気づいてはいけなかった。
そして気づいていたとしたら、「わたしのほうが“間違っている”のかもしれない」という思考の転換で、自分でも普段は意識しない心の奥の奥で、無意識に自分を責めつづけてきた。
だからこそ、世界に対して身構えてきた、防御してきた、そのような流れ。
しかし知性をもちながら純粋であることは可能ですし、それは矛盾していません。
鋭敏であることを“防御”によって守ってきたことがあるならば、そこで目にしてきたものはどのようなものでも、あなたの“知性”の種です。
その目に映してきたものが、怖れに紐づくものであっても、愛に基づくものであっても、すべての経験は“種”であり、そこから学んだもの、学ぶべきものがあります。
それをどのように“解釈”するか、というところに人間性の成熟はあります。
だから自分自身の浄め、癒しが進むごとに、その“解釈”は変化していきます。
そしてそのようにして、みずからのなかに多様な眼差しがもてるようになるとき、“種”であったものはわたしたち自身の“創造”するものも変化させ、現実にもそれが反映されてゆきます。
「自分の現実はそれぞれ、わたしたち自身が創りだしている」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
それは「あなたの“種”はいま、どのような状態か」「あなたはこれまでの“経験”をどのように“解釈”しているか」ということと如実に結びついています。
すべてはその“種”から生みだされているからです。
わたしたちの浄めが癒しが進むごとに、これまで気づかなかったことに気づいたり、鋭敏さを取り戻してゆくのは、これまでならば「それが自分に思わしくない影響をあたえている」ということにも気づかなかった不要なものやエネルギーを摂り入れないようにするためでもあります。
その“経験”はもう充分だ、という合図でもあります。
不要になっているエネルギーをクリアにし、自分のためにはならない悪習慣や思考などにもアプローチがあったとあります。
今回は以上のような領域に作用があったとのことでした。
このたびもありがとうございました。
どなたさまもよき10月をお迎えください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/09/28
黒猫
物語に出てくるような喫茶店に案内してもらった。
ランプの灯りが夜道のしるべみたいに淡い光を放つ、ほの昏い室内。
セシリアンブルーに染まった壁。
梯子がなければ手が届かないところに設けられた本棚の背表紙。
正体はカップに注がれた珈琲の底からあらわれた黒猫なのではないかと感じたご店主。
登録:
コメント (Atom)






















