2025/12/14
『斜めに射し込む光』 エミリー・ディキンスンの新編に寄せて at silent music
エミリー・ディキンスンの新編に寄せられた、石倉和香子さんと日香里さんの訳詩と挿画の二人展、silent musicさんでの『斜めに射し込む光』にうかがってきました。
“詩人はランプに灯をともすだけ”
以前の詩集では最初に配置されていたこの詩が、このたびのものでは最後に。
ディキンスンの“灯芯”としての核、在りかた、気配が、原語を変換してもなお遺ることを祈られて、大理石に碑文を彫るように、言葉は彫られ、編まれ、並べられて。
夕闇の訪れとともにはじまった朗読会。
ほの昏い室内に透ける燈の光にランプの灯を連想しながら手もとの詩集に浮かびあがる文字を追い、ときに目を閉じて流れてくる音に心を開き、身をゆだねること。
集ったひとたちとその空間を共有することは、“光の円周を 拡げてゆく――”ことなのかもしれないと。
2025/12/07
くるはらきみ個展「森で考えたことなど」 at みうらじろうギャラリー
くるはらきみ個展「森で考えたことなど」 at みうらじろうギャラリー
水鏡に反射される天上の光景。
雲の精霊たちの目が空の色で水の色であることを認めると、すべての絵と造形のそれぞれの瞳のなかを覗きこんで、その色を見つめていった。
その目に森を映して育ったからか、かけらの一部を宿すみたいに、ちいさな女の子の翡翠のようなグリーンが印象的で、フェンネルの精の目のなかにもおなじ色を発見すると、静かでありながらどこか焦点がさだまらない夢のなかに遊ぶ眼差しのさきから生まれる、“物語”を思い浮かべた。
水や樹々、森がほんとうに美しくて、魅入ってしまった。
森のなかを巡るように室内をゆっくりぐるりと歩いたとき、きみさんがこの場所に“森”をつくってくださったことを感じ、そういう場所に聖なるものが集う、自然さと恩恵を享受しました。
merinoテンペラ画展『village record ii』 at msb gallery
merinoテンペラ画展『village record ii』 at msb gallery
どこかにあるかもしれない、ある村の記録。
村人たちがそれぞれの頭上に冠を戴く村。
実る果物に、雄弁な沈黙に、豊かさを内包する村。
村人たちがつくる陶器はその村の建物の分身みたいで、指によって継承されてゆく“記憶”を感じた。
“白芯”というシリーズにも、とても惹かれました。
白い鳩と鹿、書物に花に、“白い芯”をもつものたち。
鳥や動物たちの頭上にも金色の輪を確認したとき、この村は人間だけでなく、すべての生き物が冠を戴いているのだなと思った。
村そのものが、“冠”というおおきな円環のなかにあるように
双子座の満月の翌日
だいぶ以前から双子座満月の日にピリオドを打てるだろうと思い、イメージもできていて、さまざまなこともそこに辿りつくひとまずの終着点であったことがわかるのに、いざそれをまえにすると「これで“完成”してしまう」という気持ちがあらわれた。
それはつまりある種の“怖れ”なわけだけど、そのために予定より一日遅れになり、でも長いあいだ取り組んできたこと、おなじ時間だけずっと、心を傾けてきたものだから、ピリオドを打てたことには心底安堵しているし、全霊をそそげたと思う。
“完成”することへの怖れのなかにあるものは、「自分は充分に、自身のもてる力をつくしただろうか」という疑いのことであると思うから。
(そして、ほんとうの“完成”ってたぶん、この世にはない)
一日遅れで仰いだ満月翌日の昨夜の月は皓々として、思わず見惚れるままに、しばらく立ちつくしていた。
月にもありがとうの気持ち。
大切で重要な象徴としての、yukaneさんの絵とともに。
『澪 ー散華ー』
わたしの宝物。
2025/12/01
12月、アメノウズメノミコト
Luna Somniumの12月の女神はアメノウズメノミコトです。
Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。
この12月はアメノウズメノミコトとのつながりを深め、施術にもこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。
梶田半古『天宇受売命』
11月の終わりの旅のなかで、アメノウズメノミコトとの深いつながりが自分のなかで回帰され、来月はアメノウズメノミコトだと自然に感じ、受けとりました。
アメノウズメノミコトは「扉開き」の女神です。
閉ざされた岩戸のまえで、それを“開く”ための方法を教えてくれる女神。
扉を“開く”には、どうすればそれを開くことができるのか、ということにフォーカスするよりも、自分が軽やかであること、日常のなかに笑いを生みだすスペースをもつこと、深刻になるのではなく自分が楽しむ方向むくこと。
“楽観”とは楽しみを観ると書きますね。
また、楽な観方ともいえるかもしれません。
楽=楽しむ。
自分がいかに“楽”になれるか、ということはとても大切で、「大変なほうに価値がある」「楽するのは狡いことだ、怠けている」というのはこれまで押しつけられてきた、そして自分でも信じてきた固定観念からくる幻であるといえるかもしれません。
“楽”は狡さでもなければ、大変なことが尊いわけでもないのです。
どんどん自分を楽にしていきましょう。
楽しいことを人生に摂り入れていきましょう。
それが“スペース”です。
そして自分を楽にしてあげられること、“スペース”をもつことは、自己愛の領域でもあります。
アメノウズメノミコトは扉開きの女神。
それはそれぞれの闇を照らしてくれる女神でもあるということです。
見つめられた闇は昇華し、固く閉ざされた“扉”は、それによって“開く”――つまりは“愛”によって。
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【対面セッションを、土日祝日ご希望でご予定くださるかたへ。】
今月もすでに土日祝日のスケジュールがあらかた埋まっております。現時点で確実にご予約お受けできます日は、21日(日)、27日(土)となっております。(追記。21日(日)、27日(土)ご予約埋まりました⋆)
1年以内にセッションをお受けくださったかたにかぎり、14日(日)も時間帯によりましては対応可能にしておりますが、お受けできない場合もありますこと、あらかじめご了承くださいませ⋆
平日でありましたら、ご希望日を第3希望くらいまでお知らせくだされば枠を設けることが可能だと思います。ご相談ください。(ご希望の曜日など、ひろくお知らせくださるほうが、枠をご用意しやすいかもしれません。)
遠隔セッションは夜でありましたら、ほかのご予約と重ならない場合にかぎり、なるべくご希望の日に添えるようにしております。日中ご希望の場合は要相談としておりますので、まずはご一報ください。
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12月、これからの予定
12月30日(火・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアメノウズメノミコトの一斉遠隔ヒーリング
【該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。】
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それではどなたさまもよきひと月をお過ごしになりますように。
あなたがいつもあなたでありますように。
マグダラのマリアの一斉遠隔ヒーリングのご報告
11月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへのマグダラのマリアの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回もっとも強くつたえられていたのは、“家族関係”にまつわることでした。
現在の状況に深く影響をあたえているそれ。というふうにメッセージがあらわれており、そこから受け継がれている固定観念などあるようです。
人は自分で思ってもいないくらい両親の思考を受け継いでいて、それは家系の思考ということもできます。
両親との縁がどのようなものだったか、たとえば覚えていないくらい幼いくらいに別離していても、いまその縁が希薄になっていたとしても、それには関わらず、その影響というものは強く、自分自身の人生に影響をあたえています。
そしてもちろん、そのコミュニティにおける関係性も。
固く閉ざされた扉を開いてゆくときです。
そしてそのために“変容”の魔法が必要であるならば、それが必要な領域にそれを許してゆく、受けとってゆく時機でもあるのです。
人は“未来”のことを怖れ、希望を託します。しかし“過去”が完了していなければ、その完了していない過去が追いかけてきて、過去とおなじ構図を、ときには膨張して、目のまえの状況や関係をとおして見せてくれます。
ときにそれは体調不調としてあらわれることもあります。それはそれだけ、感情的にも物理的にも、無理を封じてきたことのあらわれでもあるのです。
痛みがあるからその傷に気づくことができるように、自分のなかの“反応”はすべて、内に対するものも外に対するものも、自分自身からのメッセージです。
そのようにしてあらわれる、関係も状況も感情も体調も、すべては“気づいて”ほしくてもたらされるもの。“完了”するにはまず、それに気づく必要があり、そして“気づき”は固定観念を解いてゆくものです。
固定されている思考こそ、“ゆるむ”ことを妨げているもの。
“苦しい”と思うとき、わたしたちは自分のなかにスペースがなく(それは「余裕がなく」「余白がなく」ともいいかえることができます)、それはつまり“ゆるめない”ということです。
今回はこれらの領域にヒーリングがなされたようでした。
以上となります。
11月も大変お世話になりました。どなたさまもよき12月を。
あなたがいつもあなたでありますように。
2025/11/30
11月の旅 Ⅱ 諏訪からの巡り、つぎなる輪へ
今年の11月は旅のためにあった。
天橋立にいたる路と、諏訪からの巡り。
そのふたつはまったく別のものであるように見えながら水底でつながり、それがわたしのなか筒のごときものを、また拡大拡張し、そしてすべては定められた時に起きることを教えてくれる。あらゆるものには“つながり”があり、それがむすばれてゆく時機がある。その時機を迎えたこと。
すべての出逢いも出来事も、ただの点ではなく、季節とともに線が描かれてゆく。わたしが深く“わたし”とつながるにつれて。
それは空の星座のようで、今回は8つの星で“八乙女”たちと星座をつくった。
海の懐に抱かれながら過ごした3日間の旅。
夜に眠りに就くときにも波の音がしていて、この音をずっと聴いていたい、まだ起きていたいと暗闇で目を閉じたまま夢うつつを漂っているとき、肉体も意識も海のうえに浮かんでいた。
そしてそのとき感じた揺籠のような安心と信頼は、この旅の象徴でもあった。
これでひとつの“巡り”がおわり、そうして完結したところから、ようやくつぎの輪が廻りはじめる。
そういえば、この旅の最後に3度おなじ洞窟のなかを巡ったけれど、偶然ではなかった。3回失くした指輪との連動。そしてつぎの“4”がくる。
蝶の翅の数。
五色の青に輝く瞳の奥の通路から、純粋な愛をとどけてくれた白竜さんたち。
遊びおわると日向ぼっこでお昼寝をしていた。そっと触れさせてくれた鼻先の、柔らかでやさしい感触。
おなじ場所から眺めた富士。
日が暮れるにつれ刻々と浮き彫りになる姿に、影があるからそこに光があることがわかる、姿をはっきりと捉えることができるのだ、ということを再確認したりなど。
「江の島がクジラみたいだね」といっていたのが誰の声だったのか想いだせないけど、たしかにと。
楽しくて美味しくてあたたかな笑いに満ちた旅、思えば“竜宮城”への滞在のようだった。
初日のピクニックのお弁当だけ、かろうじて写真におさめてあった。
このあと「ぐりとぐらのケーキのような」と歓声があがった、夢みたいなふわふわのカステラケーキまで登場したりして。
とにかく最初から最後までおいしい旅でもあった。
あまりにもできすぎた閉門と太鼓の音。
舞台が終わり、幕がしまった瞬間。大宮八幡宮。
八乙女たちと。
古代の歌を奏でた三日間。
諏訪のときにはまだ手にしてなかった、でも「それはあなたのものです」と幾度もつたえられていた蛹鈴。
高らかに声を澄ませた、洞窟への祈り。
すべての符号が繋がってゆく。そしてこのあともまだ、結ばれてゆくものがある。
天橋立からやってきた貝殻。
出かけるときに鏡のまえにならべていた8枚の貝殻と目があって離れなくなってしまったので持っていった。
手もとにあったのがちょうど8枚だったことに“八乙女”との呼応を感じ、その8枚がどれもおなじ種族の貝殻で、“姉妹”のように見えたこと、天橋立は今回ご一緒するかたがたとも縁の深い場所であるとも思ったので。
ひとりに1枚ずつ贈り物として。
最初に自分のものを。わたしのものは「これ」だと、考えなくても知っていたけど、その理由は知らなかった。
帰ってきてからその貝殻が蝶の翅でもあることに気づき、それは驚きとともに心震える出来事だった。それぞれのかたの“蝶の翅”の一部が、それぞれに渡ったのだとも感じた。
こんなふうにして「それでいいんだよ」と教えてくれる。いつだって。
今年の旅の、そしてあらゆることはこの旅へと集結するためにあった。それを深く了解できることは、とても幸せなこと。
2025/11/25
「つくらない句会」 at 星の樹の下で
星の樹の下で開かれた「つくらない句会」に参加してきました。
あらかじめ選ばれた古今の名句。
そのつくり手が誰であるかわからない状態で参加者は3句、そのとき心に沿う俳句を挙げてゆく、まさに自分では“つくらない”句会。
俳句を詠まずとも知らずとも、誰でも楽しめるようになっている遊び。
みんなで句の選評をしているうち、必然的に「そのひとはどのような“視点”で世界をまなざしているか」という内部の紐解きへとつながり、無意識にあるものを意識的に浮上させ、「それでは自身の“視点”の反対側の世界はどのように見える?」という構造が、“枠”の外へと案内する“ひろがり”をみせてくれた。
安心して思ったことを交感しあえるのも、“句会”がはじまるまえに森を歩いて自然からの贈り物を手に微笑みあい、“句会”のあとには持ち寄った恵みを享受しあえる、やさしくてあたたかなひとたちとの“場”であったからこそ。
言葉では表現できない領域で、ほんとうにとても楽しかったし、学びにもなった。
2025/11/21
2025/11/16
『人魚姫のお茶会』harumie 個展 &more folina at silent music
薄闇のなか、「この花を標に」というふうに入り口で迎えてくれた矢車菊。
その花の色をした海と人魚への愛に満ちた展示でした。
灯された明かりは航海のはざまで目指す灯台のようで、そこに憩う人々のやさしさとあたたかさに触れて。
フランシス・ジャムの『三人の乙女たち』に捧げられた聖心を眺めながら、人魚姫が“お茶会”に呼ぶのなら、自身とおなじ痛切さを秘めた、言葉をかわさずとも瞳があえばすべてを沈黙のうちに了解してくれる乙女なのだろうかと、人魚と彼女たちは似た魂をもつ者という意が、そこにこめられている気がした。
*
「青い太陽から発散される雪のごときひかりは、あまりにもまばゆい純粋さゆえに錯乱を招き、紅い花に射す影のような昏い情熱は炎となって夜に開き、柔らかな心に刺される棘の痛みに微笑みながら菫色の涙を流す、三人の乙女の祈り。」
――『三人の乙女たち』について記した、かつての自分の感想より。
*
どういう話だったのか、いまはもう指の隙間からこぼれてゆく砂のごとくといった記憶でしかないので、いつかの自分の感想についての判断はできないけれど、あの本のなかに閉じこめられていた“痛切さ”だけははっきりと覚えている。
人魚姫が心ゆるせる“友”と、楽しく“お茶会”していればいいと思うし、あの場所でなら、この展示がはじまってからすでに毎日、それがなされているのだろうと感じる。
お迎えしたharumieさんのビジューは水の花のようでありながら、空の星みたいでもある、とわたしには見えました。
シリウスのごとき青い星。
人魚も海のなかで“水の花”を愛でつつ、“空の星”を夢みていたのではないかと思いながら。
folinaさんの野の花ブーケにも海からの贈り物として貝殻の“花びら”が。
『人魚姫』の作者であるアンデルセンは、人に逢うときよく花の贈り物をしたという話で、おなじsilent musicで過去に『花束作りましょ アンデルセンさん』という展示があったけれど、その“花束”をかたちにしたみたいな可憐で繊細で凛とした、ちいさなブーケ。
*余談として*
昨日、“お茶会”にうかがうまえにお逢いしたかたのお洋服に矢車菊を見つけて、以前から密かに「人魚みたいな」と思っているかたでもあったので胸が高鳴り、「矢車菊は人魚の花」なのだという話になったりしました。
2025/11/14
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