2025/03/09

諏訪からの流れ、星の巡り







 諏訪への旅はわたしにとって、とてもおおきな旅であり、その旅はまだ終わってなくて、その“始まり”のことから、いつかお話する機会があるかもしれません。


 帰ってきてからずっと“いつき”のことをしていました。


 ひとつに諏訪と関係のある場所や水の女神の聖地を巡ること。


 江ノ島の翌日には高津諏訪神社、井草八幡宮、水の女神のお社、井之頭弁財天、下弁天、貫井神社、八重垣稲荷神社といういま思えばかなり無理のあるスケジュールで、でもこの日でなければならなかったので、“巡り”をしてきました。


 江ノ島のときに、「そういえば今日は旧暦でいうと2月1日」という話になり、「それなら明日から諏訪にうかがうのね」などと冗談をいいあいましたが(諏訪の旅が2月2日の節分からはじまったので)、だからこの日は旧暦の節分だったのだ、とあとから思い至り、とても意味深いものを感じました。


 まずは高津諏訪神社。


 かねてからとても気になっていたのですが、諏訪からの流れもあり、ようやくお詣りすることができました。そのときを“待っていた”ということなのでしょう。


 とても呼んでくれていたのを感じるのとともに、やはりわたしにとってすごく縁の深い場所なのだと。


 とくに摂社の浜川神社さんと深く呼応しているようでした。


 浜川神社さんはスサノヲさんで、かつては「疫神さん」と呼ばれて貧乏神を祓うということで信仰をあつめていたとのことです。


 そのとおり風の“祓い”の深さが感じられました。





 かわいい狛犬さんたち。





 ここにも松の樹が。


 前日の片瀬諏訪神社でも松の大樹のそばにずっといたいと感じるほど愛しく感じましたが、この松の樹にもおなじ気持ちを誘われました。


 近年、とみに松に対する愛が深まっていて、意識したのはおととしくらいからですが、わたしのなにかの記憶を刺激するようです。


 ――お隣の諏訪山 明王院 円能寺さんも“つながって”いたようでしたので、お寄りすることができました。





 つづいて井草八幡宮。


 ここではこの日に“鏡”を拝受することも重要なことでした。


 そしてここも“祓い”――かなりわたしの喉のチャクラに働きかけるエネルギーと、威厳ある女王が、おおきくてひろい両腕をひろげて我が子を迎え入れるような、そういう場所であると感じました。


 以前から八幡伸の母神である“神功皇后”はわたしのキイワードのひとつで、それを再確認するような参詣でした。





 そのあとに水の女神のお社。


 この場所はあるかたに教えていただき、それがちょうど江ノ島ゆきが決まったころで、しかもそのかたとお話するのも実に数年ぶりというタイミングでもたらされたものだったので、これは“流れ”のひとつであるのだと受けとり、その“流れ”の循環を妨げないようにもたらされてすぐにうかがう必要があると感じ、急遽この“いつき”のなかに入れさせていただいたのでした。


 教えてくださったかたが大切に想われている場所なので、お名前をおおやけにすることは控えますが、水と虹の祝福を受けました。鳥の声が響き渡る森。


 待っていてくださった可憐でやさしい女神たち。ありがとう。





 井之頭弁財天。


 ここにうかがうのは、諏訪から帰ってきて2度目でした。


 前回は「はじめまして」なのでご挨拶をして、お水をいただき、そのお水を江ノ島へお渡しして、今回は江ノ島、貫井神社、そして諏訪からのお水を井之頭弁財天さんにお渡しして参りました。


 「はじめまして」のときから、もうほんとうにこの場所が大好きになってしまって、場所も心から歓迎してくれているのを感じ、感謝の想いとともに。


 またこれから、何度でも足を運ばせていただく場所になるのだと思います。





 そののち、下弁天、貫井神社へ。


 こちらのふたつのお社にはじめてお詣りしたのは去年の11月のことでしたが、そのときから深いご縁があること、あったことを受けとり、またここにはわたしが「ある段階」に到達しなければうかがえないようになっていた場所なのだということも感じとりました。その意味では諏訪とおなじで、このふたつの社自体も諏訪とおおきな“つながり”をもつ場所でもあります。


 いつも下弁天、貫井神社の順にうかがうのですが、この場所にうかがうとき、駅で電車をおりてからずっと、もっといえば家を出るときからずっと、「呼んでくれている」こと、歓迎してくれていることを感じ、そこにむかうまでの道がわたしにとっては長い長い「参道」のようであると感じているほどに、大好きな場所です。


 ふたつのお社にやはり、江ノ島、井之頭からのお水、そして先日もお渡しした諏訪からのお水も、あらためてお渡しして祈りを捧げました。


 ふたつのお社は神聖な川とつながっている場所で、そのそばを歩いているだけでも心落ち着くやさしい土地です。


 歩いているとふと、川のそばに桜の姿が。もうすこし季節が深まると、川べりにいっせいに桜が咲くのだそうです。


 井之頭の池を囲んでいた桜が「桜龍」のようだと感じて感激した記憶もあたらしく、今年はこの貫井の桜と井之頭の桜には訪わなければならない、と自分自身から強く訴えかけるものがあります。


 今年の桜はとても、特別なもの。





 このあとお誘いを受けて八重垣稲荷神社の初午祭に。


 この日に初午祭があったことも知らずに日程が決まって、この日の最後が八重垣稲荷神社であったこともふくめて、とても感慨深いものがありました。


 夜の竹林の竹筒に灯る蠟燭の火。


 それが境内の参道に長くつづいている風景。うかがえたことは導きであることを感じ、隣にいてくれた巫女でもあるかたを「竹のようなかた」と以前に形容したことを想いだしました。


 「いつも一生懸命で健気でおやさしくて、しなやかな竹みたいなかた。まっすぐで凛とされて」


 出逢いは星の巡り。すべての“巡り”に感謝を。


 ここで聖地巡りは無事に終わったのですが、この日のわたしにはまだひとつ、おおきな“仕事”が残っていて、それは『鹿の国』という映画を観ることでした。


 そのような次第で、夜も更けてくる時間帯にさしかかるころ、ミニシアターのみで上映されているその映画を観に東中野へ。


 それがとてもおおきな意味をもつものであることは、観るまえからわかっていたことでした。


 このことは言葉にするのはむつかしいので、文章として書けるかはわかりませんが、映画については簡単にでも、またべつの機会に触れたいと思います。











   

2025/03/08

新月の江ノ島










 新月の日の江ノ島の海。


 これまでおおやけにはあえて固有名詞をもちいず文章を綴ることが多かったわたしですが、これからは名前を出せるものは出してもいいという許可を得て、そのようにしてゆこうと思います。


 ご縁あるかたがた(宗像三女神の“3”をあらわすように、この日は3人でした。諏訪は御柱の“4”で4人)と諏訪からの流れで江島神社に、そしてそのまえにわたしはひとりで片瀬諏訪神社にお詣りしてきました。




 江ノ島の湧水。





 新月の日の海に、太陽なのか月なのか、一瞬見まがうような水面の円環。


 上弦の月も過ぎ、あれからもう1週間が経つのだと、そのことに驚きつつ。





 中津宮にて。


 



 岩屋のなかの洞窟巡りは、“生まれなおし”でもあり、その日が新月だったことの意味を、いまさらながらに感じている。


 わたしたちは現実のなかで幾度も神聖な死を迎え、そして再生している。








°˖✧


 海の歌、波の音











2025/02/27

ラクシュミの一斉遠隔ヒーリングのご報告







 2月にLuna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのラクシュミの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 今回のヒーリングのキイワードとして、向日葵、ほうき、ターコイズ、海、潜在意識、がおもにあげられるようです。


 ラクシュミの色である黄色、黄金色とおなじ花である向日葵は、ヴィジョンではなく言葉としておりてきたのですが、この花は“太陽”を意味する花でもあるのです。


 ラクシュミはわたしたちのなかに「“黄金”の意識」がある、すでにあったということを想いださせてくれる女神です。


 黄金意識、太陽意識、キリスト意識。言葉は異なれど、みなおなじ根をみなもとにしています。


 それはつまり、自分のなかに「光がある」ということを、ほんとうの意味で知る、知っている者の意識のことであるといえるのだと思います。


 今回のキイワードのひとつである「ほうき」は、不要なものを掃除してくれるものであり、不浄を祓ってくれる、そしてすべてを整えてくれる道具です。


 それと同時に「ははき」――母の木という意味ももち、「なにかを生みだす」ことをつかさどるものでもあって、それは「より良いものを生みだすためには、場を清めて祓う必要がある」ことを暗示しています。


 それはすべてのことに通じ、「つけ足す」よりも「そぎ落す」ことのほうが大切で重要なことだといえて、たとえばなにかを望む、なにかを意図したら、望んだ自分、意図した自分と現在の自分とのあいだにエネルギー的な隔たりがあるとき、分離があるとき、それをクリアリングするための事象が“外”によって引き起こされたり、見せられたりします。


 そのようにして「自分には“ない”」「でき“ない”」と思っている幻想を打ち破ること、また“外”側に生じる争い、競争、あらゆるネガティヴティをとおして自分のなかにある分離に気づくこと、クリアリングを自分自身からもとめられることもあります。それらの部分へのアプローチ。


 またターコイズは心身の疲れを解きほぐすこと、ストレスに働きかけてくれる癒しの石で、疲労や不安の解消、心身の回復をうながしてくれますが、この石が「幸運を引き寄せる」といわれているのも、やはりそのように「本来の自分」であれば不要なものを掃除し、不浄を祓ってくれるからです。


 そのようにスペースが空くところに、幸運というものは入ってくるものだからです。


 「つけ足す」のではなく、「そぎ落された」ところに。


 またこの石は古代エジプトにおいて女神ハトホルに捧げられた石でもありますが、ラクシュミとハトホルは、とても近しい女神であり、今月ラクシュミのことを「牡牛座の金星の女神」と綴りましたが、ハトホルもまさにそのものです。今回のヒーリングでハトホルの名が出てきたことも無関係ではなく、ラクシュミと縁があるかたは同時にハトホルとも縁をもっています。


 そしてどちらの女神も自分にとってはもはや役に立っていない誓いを手放すこと、自信をもつこと、人生で自己実現してゆくことをサポートしてくれます。


 今回はこれらのものに作用があったようですが、ひとつつたえられていることとして、いまは「静観する」「自分を見つめる」――動か静でいえば静の時間をご自身にとってあげるのが大事な時期であるかもしれません。


 みずからのなかを“掃除”し、再活性化や癒しのための分離しているものを「ひとつに」してゆくこと、そのようにして自身のスペースを空けることが大切であるのかもしれないと。


 この部分はぴんときたかたのみお心にとめていただくかたちで大丈夫です*


 それではラクシュミのヒーリングをお受けとりくださり、ありがとうございました。


 感謝とともに。


 どなたさまもよき2月最後の日を、そして3月をお迎えください。


 あなたがいつもあなたでありますように。







 

2025/02/26

世界にむかって“ひらく”ために






 *


 “ちいさな世界”こそ、すこしのほつれがあればすぐに目にとまるもの。ちいさな世界を愛せるひと、その場を神聖に保てるひとは同時に、おおきな世界、宇宙そのものに愛をおくるひとだとも思います。


 ここ数年、“愛”とはどういうものだろうかと自分に問いかけつづけ、ひとつの答えとして「世界にむかってひらかれている」ことかもしれないと感じるようになりました。


 素直さとは安心していること、緊張していないこと、それは自分を取りまく世界を信頼しているということ、信頼――自分は“愛されている”(自分は大丈夫だ、自分は安全だ)ということを知っているということ、また自分も世界を“愛している”ということ。それは世界にむかって心がひらかれているということ。それが“愛”なのではないかと。


 土の器をつくられる陶芸家の友人がいっていたのですが、昔の武人がお茶を嗜まれたのは、「静けさを自分の内側に招き、自分自身を保つためだったのではないか」とのことでした。


 ときに心が受けとめきれない現実に直面することがある武人だからこそ、自分の“神聖さ”を取り戻すため、それを想いだすための時間を習慣的に必要としていた、それはかれらにとって瞑想としての時間だった。


 自分と“つながる”時間。


 茶道もそうですが、文学も音楽も絵画も、芸術とされるものには、そういう側面があると感じます。


 「世界にむかってひらく」ことの大切さを知るひとは、それらをとおして「自分とつながる」ことの大切さをも知るひとたちではないでしょうか。


 *






Nostra Madre del Perpetuo Soccorso








 Nostra Madre del Perpetuo Soccorso


 ここのところ“絶えざる御助けの聖母”に想いを馳せる機会があり、「そういえば」と数年まえに聖なる魔法使いのようなかたから、かの聖母のメダイをいただいていたことに気づいて、大切にしていた宝物にまたひとつ、あらたな意味がつけたされた。


 魔法使いがかけてくれた“魔法”が時を経て発動されるとき、そんなふうに合図として知らせてくれる。






2025/02/24

聖花






 誰かと「心かよいあう」と感じるとき、それは相手が自分を理解しようとしてくれるやさしさが根底にある。


 いつもその“根底”を感じる、しなやかな植物みたいなひとから、大切なものをおさめるための桜の函をいただいた。


 今年の桜は特別であることを、理解してくれているがために。






 今年の桜は特別だから、花と自分のための時間をとってお花見してあげるといい。


 それが、つぎなる扉をひらく助けをしてくれる“お守り”になるから。


 誰かと一緒に見るのだったら、そのひとと桜を見たいと心から思えるときだけ、そのようにしてあげるといい。


 先日もかわいい女の子にそうつたえたばかり。


 桜の季節に花びらが手のひらに舞い降りたら、この函におさめようと思う。






 そしてある枝ではもうすでに、蕾がひらきはじめ、花もほころびはじめていた。










天花








 天から降ってくるような。







2025/02/23

光の路








 水面にあらわれた光の路。





 その土地と親しいひとといると、場所も安心して日ごろは秘めている顔を顕してくれることがある。


 “森”の女王のようなかたと過ごした、あたたかくてやさしい水が“流れる”時間。








2025/02/22

2月、ラクシュミ













 Luna Somniumの2月の女神はラクシュミで、今月はこの女神とのつながりを深めてきました。


 そのため今月のセッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずこの女神のエネルギーが副次的にふくまれています。


 私事ですが、今月のはじめに諏訪を旅して、それは魂の故郷に還るような旅でもあったらしく、みずうみに自分の半分を置いてきたみたいな不思議な感じがつづいており、それがおさまってからラクシュミについての文章を紡ごうと思っていたところ、この「不思議な感じ」はもうずっとつづくのかもしれない、そしてそれはわたしにとって祝福でもあることを理解するにいたり、ようやくこの2月もあとわずかとなったいまになって、こうして綴りはじめているのでした。


 女神ラクシュミはヒンドゥーの豊かさの女神で、日本においては吉祥天として知られています。


 このラクシュミは「金星」という星と関わりが深い女神であるとわたしは感じていて、金星はわたしたちの愛や美や喜びを象徴する星でもあります。


 そしてその星は星座でいうと牡牛座、天秤座に該当しますが、ラクシュミの金星は牡牛座と呼応するものであり、それは牡牛座が“土”というエレメントと深い関わりをもつからです。


 土は現実、物理的なもの、形として“視える”もの、顕現、具現化してあらわされるもの。


 ラクシュミのつかさどる愛、美、喜びは、そのように「五感で触れられるもの」であると感じます。


 (そして天秤座の金星をつかさどる女神としての代表は、アフロディテやフレイヤなのではないかと。)


 愛、美、喜びに「形をもたせる」からこそ、ラクシュミは“豊かさ”の女神でもあるのです。


 だからこそ「形をもたらす」には、それを受けとる“器”がなければいけない、ということも教えてくれる。


 この女神が欠乏(わたしにはこれが“ない”)、終焉(これを“もったら”、いつか“なくなって”しまう)の意識にアプローチしてくれるのは、それがわたしたちの“器”の罅割れや穴となって、自分や自分の世界を取り巻く愛や美や喜びに気づくことなく、気づいたとしてもそれを受けとめきれず、それらのエネルギーを水のように漏洩させてしまうからです。


 そのようにしてわたしたちの意識こそが現実をつくりだすため、この物質の世界で具現化するためには、この意識から変容させる必要があるからです。


 「世界が自分にはどのように見えるか」ではなく、「自分は世界をどのように見ているか」を知ることが重要なのです。


 そして「“自分は自分を”どのように見ているか」が。


 この女神がつかさどる豊かさは、“外”よりまえに“内”なる準備をうながしてきます。


 自分が自分の内側に黄金をもっていること、黄金を受けとる価値がみずからにあること。そして真の意味での“黄金”とはなにかと問いかけてきます。


 その“黄金”の功徳が現実のなかであらわれるよりまえに、その“黄金”とはなにかを知ることは、自分自身の精神、内側からそれを「受けとる」準備をすることでもあるのです。


 自分以外の他者と関わりすぎているがために自身の内側に目をむける空白の静けさから遠ざかっていたり、気持ちと行動がともなわないために疲弊していたりして、自分が自分の人生や現実をつくっている創造主であるというパワーからずれていたものへの修正。


 豊かさには内側の豊かさと外側の豊かさがあり、まずわたしたちは自分の内側に豊かさがあることに気づき、“ある”ものに気づき、そしてそれを外側にむかって愛とともに放つことで「自分が何者か」を他者に知らせ、人をとおしてその“豊かさ”をひろげゆく。


 そうして循環させてゆくところに「黄金の滝」はあらわれるのだと、女神ラクシュミはつたえます。


 “豊かさ”は自分に“ある”ものに気づき、「受けとる器」を育み、そのようにして“内”に培われたものの反映として、“外”から人が運び、見せてくれるもの。


 自分の内側が豊かであること、愛をもって与え、受けとる準備ができていること。そうでなければ、人との関係における神聖な境界線が崩れ、他者との関係が愛ではなく、疲弊や重荷に感じてしまいます。


 お金の問題にフォーカスしすぎて欠乏の意識が拡大すると、ラクシュミは遠ざかってしまう。実際にこの女神が遠ざかっているのではなく、その恩恵を感じられなくなるという意味で、自分から遠ざかっているように感じる、ということとして。


 「欠乏」のベールを纏うと、精神も物質も豊かさが消えていったように見える。


 自分の生命のすこやかなエネルギーを感じられること。それが“豊かさ”における重要なことでもあると、ラクシュミは教えてくれます。




――――°˖✧






 *2月の予定*    


 2月15日(土)*母なる“マリア”の3(Three)アクティベーション・ヌナカワヒメ(終了しました)

 2月27日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のラクシュミの一斉遠隔ヒーリング *(該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます)


 それではどなたさまもひきつづきよき2月をお過ごしください。

 いつもあなたがあなたでありますように。







2025/02/20

自覚






 「人からどう見られるか」「人にどう見えているか」は、わたしが自分でコントロールできる領域ではないので、それについてあれこれ考えること、迷うことはもうやめた。


 「もうやめる」と強く思ってそうしたわけではなく、いつの間にかそれを手放していたことに気づいた。


 「あれこれ考えて」「迷っていた」ことに、自分でも無自覚だった。


 どうせ人はそれぞれがそのひとの“見たい”ようにしか見ない。


 開き直ったともいえるし、ようやくここまで吹っ切ったともいえる。


 わたしは“わたし”にしたがっていく。







2025/02/18

星の森









 森の奥にある礼拝堂で、天井に刻印された天の川にあそぶ星たちを眺め、いつもそこに活けられている白百合の香に満ちた静謐なとき。





 そののち、サロンにてチョコレイトのお菓子と林檎のお茶、テーブルに飾られていた赤いラナンキュラスと過ごした過日の午後。


 ここも水の気配にあふれている場所。





 わたしのそばにいてくれた“赤”



 ヘールポップ彗星が近日点を通過した年に建設されたのだという星の礼拝堂。その土地に古くから湧く清らかな恵みの水を護っている森。




『中世の華・黄金テンペラ画』 at 目黒区美術館









 『中世の華・黄金テンペラ画』 at 目黒区美術館


 おおきな王冠に象られた“受胎告知”の絵に圧倒され、密かに息をつきながら、聖母マリアの“青”を見つめていました。


 マリアの青はラピスラズリでとさだめられていたこと、深く頷くものがあった。


 “空”という意味を名に宿した聖なる石、叡智の象徴。


 だから「神につながる石」とされ、いにしえの王たちはその石でみずからの装飾品をつくらせ、「神の代理人」であることを示した。


 昔のひとたちが“空”や“宇宙”をあらわす石、“神”の意志をつかさどるとされる石で「天の女王」と呼ばれたかたの姿をこの世に復元しようとしたことの、祈りについて思った。




 緻密に描きだされた紋様も、繊細に顕された象徴も、幾度も重ねられる色も、すべてが“祈り”そのもの。


 ボッティチェリの『聖母子』、クリヴェッリの『マグダラのマリア』などの模写が集っていたマリアたちの一角や、『輝く森』という題のこの絵にも、心惹かれました。













『そこに光が降りてくる』 at 庭園美術館









 『そこに光が降りてくる』 at 庭園美術館


 アール・デコの窓やランプ。そこから射す陽、注がれる灯は、透きとおる水のようであり、揺らぐ風のようであり、目では捉えられないそれを「受けとる器」としての作品たちが、「ここに光がある」ということを、零れんばかりの輝きをとおして教えてくれた。





 「石を積みあげる」という祈りの形式。そのようにしてひとつの“塔”をつくることで、自身の穢れをそこに「置いてくる」――祓い浄める。


 石という漢字が使われ、なおかつ清潔にするために用いられる石鹸で、白を基調に美しい夢のような色の“石”としてそれが再現されているのを見て、感じるものがあった。





 メデューサ。“怪物”として“石”のなかに閉じられた女神。





 ひとつの輪から、いくつもの輪が生まれる。


 回転することで顕れるかたち。


 地母神のしるし。


 “石”として眠っていたもの、封じられていたもの、固められていたものが、“光”を受けてそれを解く。


 言葉にならないいくつものこと。


 うかがえてよかった。










 窓から見えた梅。