2025/05/23
ひとつの収束
今日、日づけ変わってもう昨日のことですが、諏訪の雪と桜の旅は「こういう収束のしかたを見せるのだな」と感心してしまうくらい、“導かれた”としか思えないような場所で、待たれていた完結を迎えました。
これからもわたしの日々はつづいてゆくけれども、しかし確実に自分の人生のある章に終止符がうたれるのを感じます。そういう巡りがまたこうしてふたたびやってきたことを。
その場所で松の大樹が迎えてくれたことは偶然ではなく。
冬と雪の、春と桜の諏訪の旅。
ふたつの季節を巡ることで、そのふたつを御神渡りみたいに繋ぎ、天の川のように融合させる。それがとても大切なことでした。そしてそのふたつの旅をつないでいてくれたのが松という樹でした。翡翠の松。
約束の場所で迎えてくれた松の大樹に「またね」と告げたあと、思いがけない流れによって(そしてそれは必然でもあるのでしょうが)辿りついた「はじまりの場所」
わたしを諏訪に(そこにいたるまでのあらゆる“流れ”に)導いてくれたと、いまとなってははっきりと意識できる“はじまり”の地。
諏訪湖へお返しした翠の玉が、その“はじまり”として、これも偶然に(必然に)手のなかに飛びこんできた場所。
桜の諏訪から帰ってきてからすぐにそこへご挨拶にうかがおうと思っていたのに、なかなかそういう気になれなくて、そんな自分の心の動きを不思議に感じていたけれども、それはそのまえにまだすることが残されていたということで、それが終わればこんなふうにするりと自然で幸運な流れでその日のうちにそこへ案内されてしまった。
「行きたい」「行かなければ」という思考のおよばないところで。
このような場ではすべてが抽象的にしか記せないようなことですが、これでようやく諏訪の旅のつづきのことも綴ることができるのだろうと思います。
あれからひと月以上経ち、ますます夢のなかの出来事であるような手触りのする、あの旅のこと。
2025/05/15
竹と満月、かぐやひめたちの集い
満月の日、それぞれのために用意された竹の器をいただいて、それぞれが準備した食べ物をその器にならべ、飲み物をそそぎ、それを招き入れる。
季節が移ろうたび表情を変えて、それでいながら“いま”このときに見る姿がいちばん美しい“星の樹の下で”の、しなやかな心をもったかぐやひめたちとの集い。
竹の器にいれた枇杷の葉やヨモギやミントのお茶を舌で感じて自分のなかに摂り入れ、空に鉱石をかざして輝きに見惚れた。
植物や石との対話のために自分を澄ませることは、“つながり”を深めることでもあること。
あらゆる意味でやさしくてきれいなひとたちとの会話も物腰も穏やかさと愛に満ちて。
その空間全体がひとつの器。
器のなかにいるひとたちが放つもの、受けとるものが、月や星の光みたいにあふれてこぼれてきらめいていた。
“五感”と結びつけられるこの牡牛座の季節、それを集約した特別な満月の日、みんな少女みたいだった。わたしたちは幸せだとすこしいとけなくなってしまうんだね。
2025/05/02
5月、ギネヴィア
Luna Somniumの5月の女神はギネヴィアです。
Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。
この5月はギネヴィアとのつながりを深め、施術のエネルギーにもこの女神の息吹が副次的にふくまれます。
ギネヴィアはケルトにおけるアーサー王伝説のなかで、アーサー王の王妃とされている女神ですが、その起源はアーサーの時代よりも古く、その土地を守護し、土地と人々の豊穣、そして死ののちに安全に来世へと渡る架け橋をかけてうれるという二重の意味での“守護”をもたらしてくれる女神であるとつたえられてきました。
「白い女神」「白い妖精」「白い幻」というような意味を名の由来とするギネヴィアは、もともとはケルトの古い女神であり、アーサーがその土地の“王”として認められるには、土地の信仰の対象であった女神との“結婚”が必要であり、ギネヴィアの夫となるものが“王”の器であると天によりさだめられた者であると考えられた、そういうことだったのだと思います。
ケルトにおいてギネヴィアは三相一体の女神であったともいわれ、女神のなかのみっつの顔のなかに女性のみっつの季節を象徴し、“トリプルゴッデス”とも呼ばれる、月の満ち欠けと呼応した女神の総称です(一説にはこのギネヴィアとギリシア神話のペルセポネを同一に視ることがあり、わたしもこのふたりの女神は似ているところがあるなと感じます)
純粋な乙女(上弦)、育む母(満月)、叡智の護り手である老賢母(下弦)
乙女は素直さを、母は物事を生み出す力を、そして老賢母は物事を俯瞰的に見る眼差しを。
性別にかぎらず、そのみっつは「自分の人生を生きる、自身の人生を生みだしてゆく、自分の真実にしたがって進む」うえで非常に大切なことであると感じています。
アーサー王の妃であったギネヴィアですが、彼女の心はアーサーのいとこであるランスロットにあったといわれています。
そのためギネヴィアは、自身の“真実”にしたがった人間関係と出逢えるよう、その関係の絆が深まるようにサポートしてくれるという恩恵も宿している女神です。
パートナーシップとは自分の人間関係の縮図であり、それは自分自身を映しだす鏡としての役割を担っているため、ギネヴィアはわたしたちが“真実”の愛をわかちあうことができるように助けてくれ、“真実”に基づかないものは遠ざけてくれる、ということもしてくれる、わたしたちがよりよい“パラレル”にむかえるように(それは自分の“真実”に気づき、したがうということです)手を貸してくださる、そういう女神です。
自分の“真実”にしたがった関係、というのは、パートナーシップのみならず、すべての関係性のなかでとても大事なことです。
わたしたちはこの人生のなかで幾度も大小さまざまなターニングポイントを経験し、幾重にも枝分かれするパラレルのなかにいますが、ギネヴィアはそのポイントとパラレルの橋渡しをおこなってくれる女神でもあるのです。
ジョン・コリア『グィネヴィア王妃の五月祭の祝い』
――――°˖✧
*5月の予定*
5月31日(土・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のギネヴィアーの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには事前に個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもよき5月をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/05/01
タイムカプセル
特別な夜が明け、はじまりの5月。
その最初の日にあらわれた過去からのタイムカプセル。
振り返れば8年まえの8月からつながっていたこと。
(自分が意識できる領域では。そうでない領域においてはたぶん、それよりずっと以前から)
ここにもまたひとつの“冥加”を感じている。
2025/04/30
ドゥルガーの一斉遠隔ヒーリングのご報告
4月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへのドゥルガーの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回つたえられたキイワードは“変容”でした。
深い肉体的な癒し、精神的な癒し。
あなたが“喜び”とつながることの妨げとなっているもの、“外”や“内”に不調和を呼び起こすものの原因となっている傷や怖れ。
未解決の感情的問題、大地、地球に近いほうのチャクラ(レッド、オレンジ、イエローの問題、とくにイエロー――それは自尊心に関わるもの)の不調和を変容します。
イエローの問題は「自分を確立する」ということの困難を感じさせる現実を立ちあげて、自身のなかにあるものを見せてくれます。
たとえば誰かの言動に左右されやすい、ということがあげられると思います。
その「誰か」が自分のなかの不安を誘うにしろ、「羨ましい」「こうなりたい」というような羨望を誘うにしろ、自身のなかに生じる振り子がマイナスに感じられるものであれ、プラスに感じられるものであれ、「自分以外の者」によって“振り子”を「揺らされている」という点においてはおなじことです。
“振り子”は自分を見失い、迷い、的確な判断ができなくなる、という現実をわたしたちのまえに立ちあげることがあります。
それはわたしたちが“恋”と呼ぶものと似ているかもしれません。
相手の言動に一喜一憂したり(それは相手――“外”の反応によって自分の“気分”を決めているということ)、相手にどのように思われているか気になったり、ときに苦しみをともない、その苦しみが自分の心の多くを占めたとしてもそれを手放せないとき、そこにはその“振り子”に心揺さぶられて費やした時間が“固着”になっているからです。
そこには相手をとおして浮かびあがってくる自分のなかの“問題”があり、それが今回の下位のチャクラの不調和や傷、とくにここではイエローの問題に修復をおくったとありますので、それが起因する、そういうことはあると思います。
恋というふうに喩えましたが、人間関係におけるすべての“問題”に共通しているといえます。
「人の目が気になる」「自分を抑えてしまう」「自分がなにを感じているのかがわからない」などもそうですし、反対にそれが支配的な欲求としてあらわれ「自分が正しい」「相手より勝ちたい(上位に立ちたい)」「「正しくないものへの怒り」などを感じやすいということもあります。
どちらも「上か下か」の「支配と服従」の構図のなかに自分をおさめやすい、そういう人間関係が現実のなかで立ちあがりやすいという意味ではおなじ物事の表裏といえます。
わたしたちが“外”の現象に“振り子”が揺さぶられなくなることと、自身と“つながり”、自分を信じられている状態はイコールです。
そのようなとき、“幸せ”とは“外”に獲得した“条件”のことではなく、心のありかた、物事を見る視線の角度のことであると、わたしたちは気づくことができます。
今回はそのような部分における、それぞれの“歴史”にアクセスしてヒーリングをおくったとありました。
以上になります。
お受けとりありがとうございました*
あなたがいつもあなたでありますように。
どなたさまもよい5月をお迎えください。
2025/04/25
桜の諏訪①4月15日
雪の諏訪から桜の諏訪へ。
天の川をわたるように、御神渡りをつなぐように。
冬の旅から帰ってきたあと、春にまたおなじ場所に旅にゆくことになったのは、日記をふりかえると2月10日のことだったようです。
いまから思えば旅から戻ってすぐのことだったのだなと思いますし、それはやはりわたしの意志というよりもおおきな“流れ”にしたがったらそのようになった、としかいえず、自然にそう運ばれていったものでした。
雪の諏訪へはご縁あるかたたちと巡ったけれど、桜の諏訪は家族――両親と巡る必要があり、それも日にちははっきりと指定されて「4月15日」であるとのことでした。
4月15日はたぶんずっとわたしにとって特別な日であったのですが、ここ1年ほどでその意味がさらにおおきく深まりました。
それは個人的なもので諏訪とは無関係であるとひとり決めしていましたが、「4月15日に諏訪にいなければいけない」とこんなに強く入ってくるのだから、諏訪にとっても重要な日にちなのでは? と思い調べてみたところ、諏訪大社上社の例祭である「御頭祭」が毎年その日におこなわれているとのことでした。
その神事のことはひとまず置いておくとしても、「やはり諏訪にとってもこの日は大切な日なのだ」と感じたとき、自分のなかからあふれてくるものとの答えあわせをいただいたような気持ちになりました。
「なぜ桜の諏訪へ」という問いかけに対して、そのあとどんどん判明していったこと、それをおおやけにむけて開いている場所で記すことのできる範囲で綴ると、
自分自身の家系、先祖、過去生の浄め、癒し、解放
ある女神の解放と復活
そして武田勝頼公とその関係者の鎮魂
それがすべて連動しあっていること、これまでひたすらに自分自身を浄め癒してきたことのひとつは「それをするためであった」ことを理解しました。
それも桜の季節の4月15日に。
その日でなければならなかったのです。
2025/04/24
母なる“マリア”の3(three)アクティベーション、完了
母なる“マリア”の3(three)アクティベーション
2月15日のヌナカワヒメとタケミナカタ
3月20日春分のイシスとホルス
4月20日イースターのマザー・メアリーとイエス
すべて無事に終了しております。
雪の諏訪から受けとったものが、自分の誕生日をはさみ(1度目のヌナカワヒメは誕生日前夜、午前0時をまたぐ瞬間に終了するようにつたえられていました)桜の諏訪のあとの復活祭で完了したことに、とても深い意味を感じています。
いまから思うと、はじめからそのようにさだめられていた流れがあり、わたしが“わたし”にしたがうことで、その“流れ”に沿えるように配置されていたのであろう数々のこと。
“流れ”のままにしがたえたこと、つまりはわたしが“わたし”にしたがえたことがほんとうに嬉しく、心の底からほっとしています。
冬の諏訪の旅が終わったあと、ふたたび春に諏訪を訪うことになるとは思ってもいませんでした。
春の桜の諏訪でおこなったこと、そこで起きた“解放”が内にも外にもあまりにもおおきく、言葉でしたためるには自身のなかでそれを熟す時間を必要としていたようです。
それだけわたしにとっては、おおげさでなくこれまでの人生の象徴でもあるような特別で大切な旅でしたが、雪と桜を天の川みたいに、そして御神渡りみたいにつなぐ儀式のようなものとしてこの「母なる“マリア”の3(three)アクティベーションもありました。
その3(three)が無事に完了できたことも、“流れ”のおおきなひとつでした。
雪から桜をつなぐ、3度にわたる“マリア”のエネルギー伝達について、そのたびいろいろなかたからさまざまなご感想や反応をいただき、とてもありがたく、嬉しく感じました。
わたしとしましても、こんなに大規模な一斉遠隔ヒーリングをするのははじめてで、よい経験になりましたし、個人の意志というよりも天からのオーダーにしたがっておこなったヒーリングでしたが、なによりもわたしのためにもなったもののように感じます。
3度目を終えたあとは、去年の11月から顕れた“流れ”として配置されたものを、すべてつつがなく終えられたことに解放感と安堵の気持ちでいっぱいになりました。
受けとってくださったかたがたに、あらためて感謝を捧げます。
ありがとうございました***
冬と雪の諏訪の八剱神社で仰いだ聖なる太陽と十字の写真とともに。
――この場所は諏訪湖とともに、かなり深い部分でふたつの旅と3(three)アクティベーションをサポートしてくれたひとつであると感じています。
2025/04/19
4月、ドゥルガー
Luna Somniumの4月の女神はドゥルガーです。
Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。
そのためこの4月は女神ドゥルガーとのつながりを深めてきましたし、施術のエネルギーにもこの女神の息吹が副次的にふくまれます。
こちらでもすこし触れたのですが、先月のラクシュミ、今月のサラスヴァティ、来月のドゥルガーという流れに、個人的にとても意味を感じています。
この三女神のならびは、オリオンのみっつの星がひとつのラインにならんでいるように、過去、現在、未来というならびを感じさせます。
現在の自分に浄めや癒しをおくることは、過去の自分に浄めや癒しをおくることであり、そして未来の自分に浄めや癒しをおくることでもあります。
現在の自分がクリアリングされヒーリングされ、クリーニングされてゆく段階で、自分のものだと思ってきた価値観、偏っていた物の見方、固まっていた思考がほどけて、過去に対する見方、感じかたが変化してゆくことがあります。
それは“現在”から“過去”に光をおくるということであり、もう一度「過去を生きなおし、完了させる」ということでもある。
そしてそのようにして過去に対する認識が変わると、“現在”のタイムラインも変化し、選択する未来が変わってきます。それは、クリーニングされてゆくごとに、自分が“選ぶ”ものが変わってくるからです。未来は幾重にも枝分かれしていて、いくつものタイムラインがあります。
わたしたちは生まれたとき、人生の青写真というものを持っています。
だいたいこういう出来事を経験し、こういう学びを経て、このような人と出逢い、こういうことを為す、という地図のようなものです。しかしそれがかならずしも「計画どおり」にいくとはかぎりません。
日ごろどこかに出かけるとき、はじめての場所に足を運ぶとき、地図を見ていても迷ったり、交通機関が予定どおりに進まなかったりすることがありますが、人生にもおなじことがいえます。
自分のなかにある詰まり、滞り、つまりはクリーニングされていないもの、それらのものが自分自身の“地図”を見えなくしている、ということは誰にとってもよくあることです。
“現在”の自分に浄めと癒しをおくることは、同時に過去と未来の自分に光をおくることであり、そのようにしてみっつの星の輝きを回復させてゆくものであるということを、わたしたちは知っている必要があります。
――これは先月の女神サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングのご案内のときにおりてきた言葉で、そのときご案内をおおくりしたかたには繰り返しのメッセージとなりますが、そのときもなぜだかわからないけれど気がつけば綴っていた言葉を大切なものであると感じたため、きっといまそれをあらためて心にとめておくことが大切であるのかもしれないと感じ、ここにシェアいたします。
また私事となりますが、今月に予定していたとても重要な旅、わたしの人生におけるおおきな旅のひとつとなるであろう旅から帰ってきたばかりで、その旅のひとつはやはり、「過去、現在、未来に光をおくり、タイムラインを変化させる」ということが目的でもありました。
そしてラクシュミ、サラスヴァティ、ドゥルガーのこのみっつのならび、今月の女神がドゥルガーであったことを、心から理解することができました。このことはあらためて機会をもうけて綴ろうと思います。
女神ドゥルガーは、わたしたちに“強さ”というものを教えてくれる女神です。
そして自分が自分の人生の王や女王であること、自分には力があることを想いださせてくれる女神です。
ラクシュミの豊かさ、サラスヴァティの循環、ドゥルガーの強さ、そのみっつをみずからの内側にもっていること、それをもっていたことを“想いだす”こと、そしてそれを自身がつくりだしてゆけることを知っていることは、自分自身がどれだけクリーニングされているか、ということとイコールで結ばれています。
ドゥルガーはネガティヴなものへのクリアリングにもサポートをあたえてくれる女神です。
わたしたちが神聖な“境界線”を取り戻すこと。
また先祖や家系が受け継いできたブロック、パターンのなかで自分自身の可能性を妨げているもの、それに到達することを眠らせている領域の目覚めをうながしてくれること。
“呪縛”となっているものを光をあてほどくこと。
そういったものへも深く助力をあたえてくれるのは、この女神が“強さ”――自分自身のパワーを取り戻すことを教えてくれる女神だからなのです。
*以前に母なるマリアの3アクティヴェーションのときにもお知らせしたのですが、今月から対面のセッション形態に変更がありますので、ご注意ください*
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*4月の予定*
4月20日(日)イースター*母なる“マリア”の3(Three)アクティベーション・マザー・メアリー
4月29日(火・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のドゥルガーの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには事前に個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもひきつづきよき4月をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/03/31
holy gardenのピクニック
holy gardenのお庭でピクニック。
ミモザのお花のリストレットを互いに結びあい、矢車菊が飾られたトライフルをいただいて、ストロベリーのお茶に星のような花の黄色を浮かべる。
つがいの鳥が幾度も頭上を渡ってゆくたび、光のなかを通りすぎてゆく影、植物たちの揺らぎ。
柔らかで甘やかな午後。
holy gardenにむかうまえ、駅で待ちあわせしていた友人と目的地にむかって歩きながら本の話をして、今井むつみ著『ことばの発達の謎を解く』の話題になり、自分が子どものころに“シンデレラ”という発音がむつかしかった時期があったことを想いだした。
それを想いだしたからなのか、精霊たちが宿っているだろう樹木にかこまれた森の、鳩のご夫婦の安心した軽やかな羽ばたきが聴こえる庭で、シンデレラのことを考えたりしていた。
わたしが幼いころに読んだ童話はかなり原典に添ったもので、魔法使いのおばあさんは登場せず、彼女に舞踏会へのみちしるべをあたえてくれるのは、彼女を子どものころから見守っていた樹の精と鳩の夫婦だった。
そしてかれらがシンデレラにあたえたドレスと靴は、彼女の亡き母親のものだったように覚えている。架空の記憶かもしれないけれども。
靴は硝子ではなく金の靴で、金色というのは「この世であらわすことができない高次の色を、視覚化するためにあえてあらわされた色」なのだと、最近人から聞いた話も数珠つなぎに想起されて、だからその“金の靴”はシンデレラの次元を変えてくれる、時空を超えた母親からの贈り物だったのかもしれない、などと思ったりした。
そういえばシンデレラをモチーフにしたゲイル・カーソン・レヴィンの『さよなら「いい子」の魔法』が『魔法にかけられたエラ』と改題して復刊されたときも、ある女の子たちへの贈り物としてholy gardenを形成するみっつのお店のひとつ、草舟あんとす号さんにお頼みして出版社から取り寄せていただいたことがあったなと、そのことも懐かしく感じながら。
あの本もわたしにとって、とても大切な物語。
大切な場所は、大切な記憶を連れてくる。
コトリ花店さんの白いお部屋からいただいてきたお花たちが、陽射しを浴びてきらめいていた。
鱗粉をこぼす妖精みたいに。
うつくしいヒヤシンス。甘く清められるような香り。
草舟あんとす号さんの窓辺と、conafeさんの棚に気づかなければ通りすぎてしまいそうなほど密やかに置かれてあったきれいなもの。
あとから振り返ればholy gardenのみっつのお店で、それぞれのチューリップの花が沈黙で囁いてくれるような日でもあった。
サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングのご報告
3月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへのサラスヴァティの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回のヒーリングはハートとインナーチャイルドの癒し、回復というキイワードがおおきくあらわれていました。
それによる男性性と女性性のバランス、動と静のバランス、その偏りとなっている部分のクリアリング、クリーニング、ヒーリング。
過去の出来事によって細胞の記憶に“契約”となって刻まれてしまっているもの。
「こうであらねばならない」「こうあるべき」と自分自身に課している制約のなかに、たとえば親族や、幼いころ自分より“上”の立場にあったひとの教え、価値観、観念、ジャッジとして吸収したもの、またそのひとたちのように「なりたくない」と思い、その反対物を描くと自分自身にさだめたもの。
「わかってほしかった」のに「わかってもらえなかった」気持ち。
子どものころの記憶が、もしかしたらもう忘れてしまっているような記憶もふくめ、現在の「みずからに課している“契約”」につながり、そして自身のバランスが偏りにつながっていることがあります。
おのれに課しているものが多いほど自分自身のエネルギーは重くなるのですが、たくさんのものを課していると、喜びを感じる力や遊び心も自分のなかから遠ざかってゆく、ということがあり、“喜び”はわたしたちの生きる力の源にある力でもあるので、それを“忘れている”ということは、「眠ったまま生きる」ということが起こりうるのです。
この“眠り”は就寝、睡眠の眠りではなく、起きたまま“眠っている”状態のことです。
「課しているもの」とは「本来の自分ではない」エネルギーを自分のものとして纏っているということです。
だから課しているものが多いほど、エネルギーは重い。エネルギーが重いほど本来の自分ではない状態、それは自分を“眠らせている”状態である、といえます。
サラスヴァティはもともと、男性性と女性性の統合をつかさどる女神でもあります。
それはわたしたちの動と静のバランス、オンとオフのバランスともつながっています。
だからその部分の偏りに、今回は浄めと癒しをおくってくれた、とありますが、その偏りの原因となっているものとしての、ハートブレイクやインナーチャイルドというキイワード、そこに光をおくったのだとつたえられています。
サラスヴァティは水の“流れ”の女神。
“偏り”は流れていない部分から発生するものです。
“過去”のなかに留まって固定されているもの、それが現在の自分自身のためにはなっていないもの、その部分にクリーニングをうながし、そしてこの女神は、あなたがあなたのなかに光をふたたび発見すること、それが自分自身のなかにあるのだと想いだすことを願っているのだそうです。
今回は以上になります。
このたびもありがとうございました。ご参加くださったかたがたに感謝いたします。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/03/24
3月、サラスヴァティ
Luna Somniumの3月の女神はサラスヴァティで、今月はこの女神とのつながりを深めています。
そのため今月のセッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずこの女神のエネルギーが副次的にふくまれています。
サラスヴァティについては幾度か言葉で綴ったことがあり、あらたに繰り返しをここに記すより、そちらを読んでくださるほうがよいかと思いますが、ひとつ、わたしには先月から気になっていたことがあり、それは「なぜ2月がサラスヴァティではないのだろう」ということでした。
先月がラクシュミで、今月がサラスヴァティということは、2月の諏訪の旅の準備の段階で決まっていた、つたえられていたことでしたが、諏訪の旅に「サラスヴァティ」という女神はひとつのテーマとして深く深く関わっていました。
けれども2月の女神はラクシュミでした。
それについては、なぜサラスヴァティではなくでラクシュミなのだろう? と個人的に不思議でもありました。
でも、わたしは自分自身のエゴをまじえず、つたわってきたものをそのまま顕すだけ。
そのうえで3月の女神はサラスヴァティときたとき、「え? そうなの?」という疑問符が、ますます自身のなかでおおきくなりました。翌月に配置されるのだったら、なぜ2月ではなかったのだろう、と思ったのです。
しかしそのあと4月の諏訪に再訪することが決まり、ふたたびおおきな流れのなかに入ってゆく自分を感じたとき、サラスヴァティは中間の女神として、2月と4月をつないでくれるのだ、と感じました。
こんなにはやく諏訪にふたたびむかうことになるなんて、自分では考えてもいないことでした。でも、はじめからそのような“流れ”だったのだろうと。先月諏訪にうかがうまえから、そのずっとまえから。だからサラスヴァティはこの3月でなければならなかった。
サラスヴァティは流れと循環の女神。だから“つなぎ”の女神でもあります。
2月と4月の中間で“つないでくれる”ための3月なのだと、いまになっていろいろ腑に落ちるものがあります。
3月は春分がありお彼岸があり、いろいろな扉や門が開く切り替わりの月でもあります。
そのとき自分の“流れ”にしたがえるよう、とくに今年においてはそれが大切だからこそこの月の女神であってくれたこと。
そのうえでいまから告知すると4月の女神はドゥルガーのようなのですが、サラスヴァティと密接な関係にあるラクシュミとドゥルガーを“つなぐ”ということでもあったのだと。
この三女神は遠く遡れば、もともとはひとつのおおきな女神であったのではないかと、わたしは去年の終わりくらいから感じており、日本に伝来するとき「弁財天」という名を得たのは、サラスヴァティ(弁)とラクシュミ(財)の融合だったのではないかと思っています。
そしてここのところあらゆる場所で八臂弁財天と出逢うのですが、そのお姿にどうしてもドゥルガーが呼び起こされ、重ねてしまうのです。
ラクシュミ、サラスヴァティ、ドゥルガーの三位一体としての“弁財天”。
4月がドゥルガーというのは、いまのわたしにはおおきく納得し理解できることで(4月の諏訪ではドゥルガーのお力が必要なことをするのだと、自分でもわかっているので)、そして振り返れば2月の諏訪では「喜びを受けとる器」、「豊かさの復活」ということがテーマでもあって、あの旅のなかで祝いに米粒の祝福を降らせるようにして黄金色の祝福の粒を降らせたことを想いだすと、そこにたしかにラクシュミがいてくれたこと、おおきくサポートしてくれていたことを、ひと月以上が過ぎたいまあらためて感じています。
そして今月はサラスヴァティが、おおきな“巡り”を見守り、助けてくれていることを。
いまサラスヴァティと呼応しあっていること。これは意識していなくても世のなか全体にいえることのようで、とくにわたし自身とご縁のあるかた、セッションを受けてくださっているかたは連動していることもあって、なおさらそうでもあると思います。
今月も残り数日になりましたが、つぎなる“流れ”に入るために不要になっているもの、余剰になっているものを削ぎ落し、ご自身を研ぎ澄ませてあげること、疲れが出ているならば労わってあげることを大切にしてさしあげてください。
――――°˖✧
*3月の予定*
3月20日(木)春分*母なる“マリア”の3(Three)アクティベーション・イシス(終了しました)
3月30日(日・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のサラスヴァティの一斉遠隔ヒーリング *(該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます)
それではどなたさまもひきつづきよき3月をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/03/20
2025/03/19
鹿の国
自然のなかにいる鹿と出逢う機会があったので、今月のはじめに観た『鹿の国』という映画のことも記録として残しておこうと思いました。
誰にむけても「おすすめ」とつたえられる内容とはいえず、けれどもその芯にあるものを「必要だ」と感じられるかたが、直感をもってそっとスクリーンの暗闇に息を潜め、そこにある秘されたものを汲みとり、それが自身のなかの謎と響きあって、高らかに澄んだ歌をうたう、そういう映画だった。
春の兆し、一滴の躍動の血。
脈々と受け継がれた幾重にも枝分かれする記憶を宿す桜の古樹の幹に梢にその声は震動し、花びらが舞う。
大地に深く根ざした生命の柱。
散る花びらは、聳える樹々の歌。
必要としているひとのてのひらのなかに、それは落ちてくる。
少なくともわたしは、上映が開始されてまだそんなに経っていないと思っていたときにエンドロールが流れてきて、もう終わり? もう98分が過ぎたの? と驚いてしまった。
とても集中して入り込んでいたことのあかし。
わたしにはとても必要だった。そしてそれは、“いま”でなくてはならなかった。
風花の使者、“生まれなおし”の太陽
天にむかってまっすぐに立ちならぶ、数多の柱のごとき樹々。
その木立の繁みからさらに奥深く、上へ上へと昇ったさき、空からの陽射しが届く場所で、神聖な生き物と出逢った。
それは聖地からの使者。
祝福と歓迎の雪に迎えられ、2月の諏訪の旅の再来のようでもあった三峯。
三峯神社の鳥居は「三ツ鳥居」
“三峯”の名の意味であるみっつの山、雲取山、白岩山、妙法山を、このように鳥居にあらわしているのでしょう。連なる三山。
“いつき”のとき、いつも太陽はこういう姿をしていて、完全な円環が目視できる。
それを見ると、そのためにきたことを、太陽がわたしに教えてくれる。
鏡のようであり、その縁からこぼれる水みたいな光は慈愛に満ちている。瑞々しくてやさしい。
ご一緒したかたが教えてくださった石のうえの龍。
黒龍なので滞った陰の気を祓う力を宿していて、それはまさにこの社の力そのものの具現化でした。
この神社のご祭神はヤマトタケルであり、剣の男神。
狛犬ならぬ対の狼がヤマトタケルのご眷属として、あちらとこちらをつないでいらっしゃいました。
滞ったものが祓われたあとの躍動。陽、動の力。
風(それは“剣”のエレメント)が吹くたび意志をつたえ、語りかけてくる。
ある意味で春分まえの禊のようでもありました。
三峯神社のお名前をはじめて認識したのは2020年で、お世話になっている魔女さんから「うかがってみるといい」と教えていただいたのでした。
それからずっと意識はしていたのですが、機が熟していなかったのでしょう、タイミングがあわず(そういうところも諏訪とよく似ていた)、けれども思いがけない扉がひらいてするするとこんなふうに予期せず辿りついていた。
遠いと思っていたのに(たしかに物理的に“近い”とはいえない時間、距離、エネルギーを使っておもむく場所ではあったけれども)、蓋をひらけば、こんなにも簡単なことだった。
帰り道、この“いつき”が自分にとってとてもおおきく大切なことだったことを、皮膚感覚ととめどなく流れてくるエネルギーで理解したことを、ひとつの記録として。
風花の合図。
“生まれなおし”の太陽――春分まえ。
2025/03/16
氷川女體神社∞大宮氷川神社(後編)
先日、氷川女體神社と大宮氷川神社の二社巡りをして参りました。
題名に「(後編)」と入っているのは、前編があるからです。
この前編は、とても印象深くおおきな意味のあったわたし自身の去年の初夏から秋までをまとめておきたいと思い綴りはじめたもののひとつめであったので、題の最後に①が入っているのですが、そのあとをどうしても「書く」という気分に気持ちがむかなくて、そのままになっているものです。
そうしているうちにこうしてつぎの“巡り”に入ったので、これをもって(後編)とひとまずはすることにいたしました。
前編の①では氷川女體神社の鳥居の夢をみたことをきっかけとしたお詣りのことを記しました。
そのあと夏至、その翌日の満月の残り香の気配が濃厚な日に、古代蓮の里、行田八幡神社、行田とさきたま古墳、八幡山古墳石室、忍城、そして最後に大宮氷川神社にお詣りして、氷川女體神社からはじまった輪が巡り、大宮氷川神社で完成させて∞とする、そういった流れがありました。
そのほかにも映画『君たちはどう生きるか』、そして白鳥と黒鳥のマリア――この初夏から秋までの“流れ”のことはいずれ書くかもしれませんし、書かないかもしれなくて、いまのわたしにはわからないことのようです。
氷川女體神社と大宮氷川神社。
思えばこの二社の社ではこれまで幾度もおなじように∞を描く旅をしていて、とても縁の深い場所なのだと受けとるものがあります。
今回ふたたびこの巡りがあったのは、前編のなかで記した夢で“同伴者”だった彼女から、「ようやくお詣りすることができました」と先月ご報告いただいたことに端を発しています。
彼女自身はじめておうかがいした場所だったけれど、とても懐かしく好きだと感じられたこと、そしてそのとき氷川女體神社で起きたこと、受けとったヴィジョンのことなど教えてくれました。
やはりかの社の女神はこのかたを呼ばれていたのだなと感じつつ、「ずっとそこにいたくなってしまうような、そういう場所ですよね」とわたしもお話し、「大宮氷川神社にもうかがってあげるといいと思いますよ」というと、その日のセッションのまえにお詣りされたとのことでした。
「素晴らしい」といってわたしは笑い、そのときはそれで終わったのですが、自分もまた氷川女體神社にうかがわなければいけないという気持ちが日に日に深くなり、それに呼応するように大宮に足を運ぶ用向きが発生して、「なるほど」と思いながらそのときには二社巡りをなかば決めていたのでした。
去年の5月、夢のなかにあらわれくぐった鳥居。
氷川女體神社の磐船祭祭祀遺跡では女神が舞い、踊っていました。
写真のなかにもそのエネルギーがあらわれていて、女神のお社であることを再認識しつつ、いつうかがっても感じられる柔らかい花びらみたいな風を全身に浴びました。
大宮氷川神社。
大宮氷川神社と氷川女體神社のご祭神はご夫婦で、できればおなじ日に二社巡ってあげるのがいいようです。
わたしは場合によってはその二社のまんなかにラインがひかれている中山氷川神社(ご夫婦の御子神)にもお詣りして三社巡りをします。
この日は二社巡りでしたが、大宮氷川神社は“祓い”、氷川女體神社は“癒し”
祓いと癒しはセットであり、だから伴侶である二社のご祭神の二柱の力が半分と半分で統合され、そのときのそのひとの段階に応じて授かるものがあること、はじめて氷川女體神社∞大宮氷川神社の巡りをしたときから感じています。
数年まえまでは禁足地であった蛇の池から。
大宮氷川神社自体がそういう場所ですが、この蛇の池はとくに深く“祓い”のエネルギーが満ちています。
太陽も氷川女體神社で仰いだそれとはまったく異なる性質を帯び、あちらでは太陽のひかりは女神、女性性、癒しをつかさどる力を放っていましたが、こちらでは男神、男性性、祓いをつかさどる力を発散していて、それは写真を見ても一目瞭然だと思います。
おなじものでも、そのときによって見せる顔、エネルギーが異なる、ということはよくあること。
“おなじもの”だとわたしたちが思い込んでいるだけ、そう認識しているからそれがインプットされているだけ。
それはあらゆるものやことにもいえるのだと思います。
「思い込みを外してゆく」というのは、いまとても大切でもとめられていることでもあるのだと。
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