2025/05/23
ひとつの収束
今日、日づけ変わってもう昨日のことですが、諏訪の雪と桜の旅は「こういう収束のしかたを見せるのだな」と感心してしまうくらい、“導かれた”としか思えないような場所で、待たれていた完結を迎えました。
これからもわたしの日々はつづいてゆくけれども、しかし確実に自分の人生のある章に終止符がうたれるのを感じます。そういう巡りがまたこうしてふたたびやってきたことを。
その場所で松の大樹が迎えてくれたことは偶然ではなく。
冬と雪の、春と桜の諏訪の旅。
ふたつの季節を巡ることで、そのふたつを御神渡りみたいに繋ぎ、天の川のように融合させる。それがとても大切なことでした。そしてそのふたつの旅をつないでいてくれたのが松という樹でした。翡翠の松。
約束の場所で迎えてくれた松の大樹に「またね」と告げたあと、思いがけない流れによって(そしてそれは必然でもあるのでしょうが)辿りついた「はじまりの場所」
わたしを諏訪に(そこにいたるまでのあらゆる“流れ”に)導いてくれたと、いまとなってははっきりと意識できる“はじまり”の地。
諏訪湖へお返しした翠の玉が、その“はじまり”として、これも偶然に(必然に)手のなかに飛びこんできた場所。
桜の諏訪から帰ってきてからすぐにそこへご挨拶にうかがおうと思っていたのに、なかなかそういう気になれなくて、そんな自分の心の動きを不思議に感じていたけれども、それはそのまえにまだすることが残されていたということで、それが終わればこんなふうにするりと自然で幸運な流れでその日のうちにそこへ案内されてしまった。
「行きたい」「行かなければ」という思考のおよばないところで。
このような場ではすべてが抽象的にしか記せないようなことですが、これでようやく諏訪の旅のつづきのことも綴ることができるのだろうと思います。
あれからひと月以上経ち、ますます夢のなかの出来事であるような手触りのする、あの旅のこと。