2024/09/26

初夏から秋まで① 氷川女體神社∞氷川神社(前編)





 初夏から(と、いうよりも去年の秋からずっと一貫してそういう流れではあったけれども)夏の終わりくらいまで、自分自身のことで片づける必要があるもの、長いあいだずっとつづいていたある段階におけるクライマックスというべきものがあって、それがかなりおおがかりであったので、その期間、とくにこの夏のことで深い影響があったものでアウトプットして記録として残せるものはそうしておこうと今月に入ってから感じ、人から見ればたぶんささやかなこと、でもわたしには重要で印象的な出来事であった、いくつかのことを順番に。





 さかのぼれは5月のある夜、夢のなかで氷川女體神社にいたことがあった。


 なぜそれがかの社だとわかったのかといえば、 氷川女體神社にお詣りされたことのあるかたならおそらくわかるであろう参道につづくあの石段をのぼったさきのおおきな鳥居が夢のなかにあらわれて、夢でその階段をのぼり、鳥居をくぐるとき、そのわたしは自身がいる場所を理解しているようだった。


 夢のわたしはひとりではなく同伴者がいて、それがいつもセッションにいらしてくださるかたで、彼女と小高い山のような、古墳なのか、そのようなもののうえを一緒に登った。


 実際の氷川女體神社にはそういうものはないはずで、しかしそれも意味のあることだったのだろうと思い、夢の同伴者だった彼女は以前から大宮のほうの氷川神社にも縁のあるかただと強く感じていたので、お逢いする機会(不思議なことでもあり自然な流れでもあるのだろうけれど、その夢をみた翌日にご予約をいただいた)があったときに「訪われるとよいのではないか」ということをおつたえした。


 それでどうするかは相手次第。そのメッセージを受けとるのも流すのも自由だし、だからおつたえしたところでその件は終わりだろうと思っていた。


 けれども日にちが経つごとに「なんだか自分も呼ばれているような気がする」という気持ちがおおきくなっていった。


 「なんとなくそうしたほうがいい気がする」というのはいつも自身からの伝言であるし、その“なんとなく”に“なぜ”の理由をもとめようとすると途端に重くなる。


 「なぜそうしたほうがいいのか」「それをしてどうなるのか」の説明をもとめ、思考を納得させたがるほどに重くなる。


 「重くなる」とは「本来の自分ではいられない」ということ。


 それを踏まえなくてもわたしの“なんとなく”は、「そうしたほうがいい気がする」を行動に移すまで訴えかけてくることが多く、そのときもそうだった。


 このタイミングで友人と逢うことになり、そのひとが氷川女體神社からほど近い距離の場所に住んでいたので、これはもう完全にそうなのだなと思い、その日にふたたび夢でみたあの石段をのぼり、あの鳥居をくぐることに決めた。



 それは折しも5月の満月の日だった。


 “女體”とは女神のことであり、女神とはこの社のご祭神、須佐之男命の妃である稲田姫命のこと。


 その名のとおり花びらをふくんだようなやさしい風が吹く場所で、 氷川女體神社をはじめて訪ったとき、左半身にあたたかいものが入ってくるのを感じたことをよく覚えている。春の太陽を抱きしめたらこのような感じがするのではないかと思うような、深い慈しみが感じられるエネルギー。それは稲田姫の息吹。


 肉体の左半分は女性性をつかさどる領域。


 そこに“聖なる女性性”の顕現である女神が入ってくるのを感じたいつかの記憶は、わたしにとってとても大切なものだった。


 そしてその日とおなじように、5月の満月の日も柔らかな花びらみたいな息吹を全身に浴びることができ、なかなかその地から立ち去りがたく、できるならずっとそこに佇んで樹々の梢を仰いでいたいほどだった。


 またきっと逢いにゆく。


 ありがとう。