2025/01/31
星つむぎの村のこと
去年の終わりに、素敵なかたから「星つむぎの村」という取り組みのことを教えていただきました。
「すべての人に星空を」を合言葉に活動をされていて、そのなかのひとつとして否応なく病気や障害で長期間病室の天井を見つめている子どもたちに、「空を近くに感じること」「満天の星空を届けること」を目的に、プラネタリウムを出張させる試みがなされていること。
子どものころのわたしにとって病院は学校よりも身近な存在であり、白い病室で白い天井を仰ぎながらある時期を(とても長い時期を)過ごして、振り返れば数年まえまでは動いていることより臥せっていることのほうが多かった人生をおくってきたので、そのお話を聞いたとき、胸をうたれるものがありました。
わたしは幼少期から想像力だけは旺盛だったので、なにもないところから1を生みだすこと、自分のなかで物語をこしらえて楽しむこと、ひとり遊びが得意であったから、白い天井だけを見つめる日々であっても「退屈」と感じたことはなく、「ここにはないけれど、どこかにはある世界」のことを夢みて生きていましたが、でも、それさえも空白になることがあるかもしれない子どもたちのことを思うと、心が締めつけられるような気持ちです。
満天の星空は、この世のきれいなものを見せてくれる、という意味で、その記憶が忘れられたとしても、ある種の“希望”として残りつづけるものでもあると思います。
ここ何年かはとくに、地球のため、そして女性の自立や未来の子どもたちのために自分にできることはないかということを問いかけるようになりました。
そしてまず主軸は“わたし”、最優先にする必要があるのは“わたし”、“わたし”がいつも健やかであること、満たされていることが、もっとも“外”のためになること、を念頭に置いて、淡々と微力ながらいま自身にできることをしてきました。
これもまた、ほんとうにささやかではあるのですが、星つむぎの村のプラネタリウムのお話をうかがったとき、おととしに紡いだ私家本、『天の花 地の星』の“星”のつながりから、売上の一部を寄付にまわしたいと感じ、そのようにすることにいたしました。
この本で記したかったのは、「すべてのひとが自分自身の内側とつながることで開く花と戴く星がある」ということで、わたし自身が自分と“つながる”ことによって、どんどん力を取り戻していったという経緯があり、それをひとつの“祈り”のかたちとしてあらわしたものでした。
本のサイズ、装丁の色、デザイン、箔押しふくめ持ち主となるかたの“お守り”となるように意図しています。
その装丁の表表紙の星、裏表紙の百合と薔薇、そして挿絵はharumieさんにお願いいたしました。
星は聖なるつながりを想いださせてくれるもの、空は世界のひろさを教えてくれるもの、満天の星空を見あげることは、そこに宿る叡智を迎え入れること、自身の可能性を蘇らせること、そのように感じています。
開く花と戴く星が溶けあったとき、あらわれる王冠。
(画 harumie)
°˖✧
あらためて『天の花 地の星』をお取り扱いいただいているお店をご紹介します。
✣Café norn(カフェノルン)✣
『天の花 地の星』は、ノルンさんでの『星降る夜に』という展示のために編んだものでした。
“ノルン”は北欧神話の運命の女神の名ですが、複数形で“ノルニル”といい、過去、現在、未来をそれぞれにあらわす三女神です。
カフェノルンは三角形の建物で、みっつの角を女神たちが守護している場所、などとわたしは想像して遊んでいますし、実際そのとおりなのだと思います。
その場所につづいている階段の入り口で案内役をしているうさぎを目印に。
展示期間外は週に3日間(また3!)火、水、木にカフェを営まれています。
通販も不定期にカートがオープンされています。
°˖✧
✣草舟あんとす号✣
holy gardenと呼ばれるちいさな森、とんがり帽子の屋根の建物のなかにみっつのお店がならんでいます。
お花やさん、お菓子やさん、そして植物のご本やさんである草舟あんとす号さん。
物語のなかよりも物語を奏でているような聖域。
本と薔薇の日、聖ゲオルギオスの日に扉をひらいたお店の、いつかのサン・ジョルディに、植物たちと弦の音、あたたかな灯り、書物たちのなかで過ごした柔らかな記憶を忍ばせつつ。
通販も受けつけてくださっています。
実店舗の営業日は土、日、月、火となります。不定期で出張やおやすみもありますので、営業時間とあわせてお確かめください。
°˖✧
また、Luna Somniumではお部屋の入口にこの本をならべているので、お運びくださり直接ご購入くださったかたもいらっしゃいました*
その節はありがとうございました。心より感謝しています。
完全に余談ですが、イシスの路という記事にも、本書とリンクする想いを綴っておりますので、ご興味のあるかたはお読みいただければ嬉しく思います。
アリアドネの一斉遠隔ヒーリングのご報告
1月にLuna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのアリアドネの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
まずはじめに、この一斉遠隔ヒーリングのメッセージをお届けすると、「全体につたえられているものなのに、自分に宛てていわれているようだ」とご感想をくださるかたがいらっしゃるのですが、この遠隔ヒーリングはその月にセッションを受けられたかたの集合意識に必要なヒーリング、クリアリングをその月の女神におまかせしてしているものなので、受けとられたかたすべてに共通して「いまもっとも必要としているエネルギー」を流しています。
そのエネルギーをとおしてあらわれる言葉、メッセージもだから全体に宛てていながら、個人に宛てているものであるといえます。
そのため「自分に宛てていわれているようだ」と自分ごととして受けとってくださることは嬉しく、またそのように受けとってくださることで、効果は増幅されるものでもあります。
ぜひそれを意識されながら、このメッセージもお読みいただけましたら幸いです。
「脳は迷宮のようだ」と月のはじめにアリアドネについてお話したときに述べましたが、それと無関係ではないのでしょう、今回のエネルギーヒーリングは脳に集中的にアプローチするものとなりました。
「妨害されているもの」というキイワードが浮かんできて、エネルギーがスムーズに流れなくなっている原因、「封印」として蓋をされている部分へ働きかけること、外部からの要因によって侵害されているもののクリアリングとなったようです。
“妨害物”をとりのぞき、物質である肉体の活力を取り戻す。
アリアドネの“迷宮”の中心にはミノタウロスという怪物が“封印”されている、と神話は語ります。
そして“ミノタウロス”とは怖れの象徴であるのだと、わたしは感じます。
それは幻影であったり、強迫観念であるかもしれません。否定や重荷のあらわれであるかもしれません。
「人生とはこういうものだ」「物事はこうあるべきだ」「こうしなければ正しくない」というような概念や判断が、自分自身の“真実”を覆い隠すことがあります。
幻影が真実にベールをかけるのです。でも、その幻影が真実である、と思っていることがある、ということ。
わたしたちのなかにはそれぞれに、どのような人間であっても“ミノタウロス”が存在しているのではないでしょうか。
それを“エゴ”と呼ぶひともいます。
そしてそれはわたしたちが自分に“封じているもの”を餌にしておおきくなるのです。
疑いや怖れのもっと奥深くにある感情。自分で自分を“妨害”しているもの。そして外部からの影響で習慣になっている思考、自分のエネルギーと混ざりあってしまっているものの除去。
そうして脳の迷宮のなかに集積し、“ミノタウロス”となっているものへのクリアリングに今回はアプローチがあったとつたえられていました。
脳に集中的にエネルギーを流しましたが、そのようにしたほうがいいと感じたので、首や肩にもできうる範囲でヒーリングをお送りしました。
浸透してゆくごとにエネルギーは黄金の色に変化していき、それはアリアドネの色で、彼女が“迷宮”の道案内をしてくれていることを感じました。
アリアドネのサポートをいただいたヒーリングで、それぞれの“ミノタウロス”に働きかける動きがあったのは必然だったと思います。
あなたがあなたの迷宮で迷うことなく人生を歩んでゆくこと、つまりはいつもあなたがあなたであることを祈っています。
そして余談ではありますが、昨日写真の整理をしていたら、大昔に石と植物でつくったラビリンスの断片の記録を発見しました。
このラビリンスはアリアドネの迷宮であるクノッソスのラビリンスに倣ったものです。
「ラビリンス それは死と再生である」――わたしたちはこの人生のなかで、幾度も生まれ変わっています。今年はこの言葉をとくに道しるべにしながらわたしも進んでゆきたいと思います。
それではアリアドネのヒーリングをお受けとりくださり、ありがとうございました。
感謝とともに。
どなたさまもよき2月をお迎えください。
2025/01/29
ASSERTIVE
2023年3月3日に記したと思わしき言葉の記録が出てきて、このころといまとでは意識のあらわれかたはおおきく変化したものの、いまのわたしでも「わかるな」と感じる部分が残っており、またこれを書いた自分がどういう状態であったか、そこにどういう思いがあったのかはまったく想いだせないものの、その自分に対する愛しさのようなものも感じられて、旧暦新年であり水瓶座新月の今日にかつての自分の言葉を再発見することになったのもなにかのタイミングであると感じ、アウトプットとして。
あくまで内省的なものでありながら、「誰かにむかって語りかけている」ように見えるこの記録であり視線のありかたは、自分自身を“うしろの正面”から眺めよう、つまりはみずからを背後から見つめて俯瞰的に捉えようとするための“ありかた”です。
巳年の年である今年は、蛇という生き物がそれを象徴しているように、脱皮、殻を破る、死と再生がおおきなテーマになるのだと思いますが、だからこそ個々や全体の“変化”をもとめてくることもあり、そしてそれは長いあいだ「光をあてる」ことが準備されてきたもの、見つめることをもとめられてきたけれど見ないふりをしてきたものがあるならば、それを“見つめてあげる”ということでもあるのだと感じます。
“見つめる”ことは“光をあてる”こと。
おととしの下半期くらいからもうずっとそういう流れではあるけれど、これからはとくに自分のなかに“潜伏”していたものがあらわれやすいので、体調不良なども罹りやすいときではあると思います。
無理を無理とも思わずそうしてきたひとほど蓄積されたものが精神的な停滞感にもつながってくる流れではあると思うので、今年のテーマの裏側には「ごまかさず、正直に」もあるのかもしれません。
自身のからだの声、こころの声に“正直”に。体調も停滞も、自分が“ほんとう”はどのような状態であるかを、教えてくれているだけ。
わたしはごく子どものころからそのことを嫌というほど知っていて、知りすぎているくらいです。でもそれに“気づく”のに、とても時間がかかってしまった。
みんなもう“正直”になる必要がある。それがどんなに怖かったとしても。それを教えてくれているだけ。
今年のわたしのおおきなテーマのひとつは「ASSERTIVE」なのだそうで、折しも下記につづく過去の言葉と連動し、それもひとつの“流れ”なのだと思いつつ。
*
幼少期より対人関係やコミュニケーションに苦手意識があり、それにともなってハートをオープンに開くことも困難に感じた時代が長く、その領域における浄めと癒しをおおきく必要としていました。
自分のなかにある“層”をひとつずつ丁寧に浄め、癒していってあげること、それを繰り返すことで近年はその領域におけるさまざまもだいぶ緩和してきたことを自身でも実感していますが、最近になって自分のことをまったく誰も知らない第三者しかいない環境に身を置く機会があり、やはりまだ自分のなかに“閉じている”部分があると自覚することがありました。
(自分のなかに“ある”ものは、いつも人が教えてくれ、“外”の現象としてそれがあらわれることになっている。ほんとうによくできているものだと感心する。)
自尊心の低さ、自信のなさのようなものに、ごく子どものころから「自分はひととどこか違っているようだ」という思いがあり、おなじものを見たり聞いたりしても大多数と感じかた、考えかたがだいぶ違っていること、大多数に迎合できなかったこと、それを「変わっている」と変換されることを怖れ、他者の目というものをつねに気にして怖れてきたこと、それによって「自分」というものを表現すること、主張することを妨げてきたものがありました。
とにかく他者から「変だと思われること」「変わっていると思われること」が嫌だという意識が幼少時から根深くあるようで、「“みんな”の仲間入りをしたい」と思っていた当時のわたしがそのように感じているようです。
けれどもわたしが「仲間入りしたい“みんな”」とは、わたしの個性を愛してくれるひとたちだと理解しています。
わたしが“わたし”をあらわして、離れたり怪訝に思う“みんな”は、わたしの人生において、真の意味では必要ないひとたちであること。
また自分のなかにどうしても子ども時代からつづく「わたしは醜い」という意識がどこかにあるようで、周囲の賞賛に気まずい気持ちになったり、本来受けとっていいはずのものを受けとることに抵抗があるのも、貢献しなければ好かれない、愛されない、という気持ちもそこからくるもののようで、これも以前とは較べられないほどに回復していることは自分で“知っている”のですが、もとをただせば辿りつく自尊心としてあるものを、さらに高めることの必要性を感じています。
自分のもつ可能性を拡げるには、まず自分を“閉ざしている”ものを知らなければいけません。
なにに“制限”され、“束縛”されているのか。
わたしがわたし自身を認め、赦し、受けいれ、それを表現してゆくことを妨げているものを。
“真実”をあらわすことを怖れているもの、許可できないでいるもの。
自身のなかにあるものを、それがなんであれすべてゆるす。それをゆるし、そう意図するように。
(2023.3.3)
*
2025/01/27
Correspondances
カフェスローで開催された「イタリア植物紀行研究報告会――植物と人とのミクロコスモとマクロコスモを繋げて――」へ。
自分に必要な自然の“薬”としての植物の効能を見るのではなく、植物という存在のなかに“わたし”を見て、それと“交感”をする、自身のなかに“招き入れる”というありかた。
ラベンダーなら、その効能とされる“鎮静”のためというよりも、ラベンダーのなかに鏡として映しだされた自身を見て、「どこに効く」「なにに作用する」という“意味”をとり(だからそれは“思考”をとるということでもある)、「自分という存在に“効く”薬」とする植物療法のありかたが、とても興味深かった。
お話うかがいながら、東山魁夷の絵と言葉が浮かんでくるのを感じた。
『私の風景の中に人物が出てくることは、まず無いと言ってよい。その理由の一つは、私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を語っているからである。』
魁夷がその師から学んだという「心を鏡のようにして自然を見る」ということ。
素敵な偶然でお逢いすることができたかたが、会の途中からボードレールの『Correspondances』が浮かんできて離れていかなかったと、あとから教えてくださった。
Correspondances――交感、あるいは万物照応そのもののような話だった、と。
「自然は荘厳な寺院のようだ」からはじまるその詩にあるように、自然の“神殿”のひとつの柱であることを“想いだす”こと。
投げかけられた言葉がそれぞれの水鏡のなかに波紋を描いたり、森にこだまして“想いだす”ものは、聖なる霊感であり、植物の精との交感であり、自然との繋がりである。
そういった美しい夜を受けとりました。
植物紀行のお話会のまえに立ち寄った場所で出逢って、心惹かれた樹の記憶とともに。
2025/01/22
2025/01/21
迷宮と脳
*
迷宮は自分の脳のことでもあるのだと、数年まえから感じるようになったんです。
脳の状態が自分の“見ている”世界をつくる。そして自分が“見ている”世界が“現実”になる。
そしてスピリチュアルでよくいわれる“アセンション”とは、自分の“迷宮”を俯瞰的に見る力のことでもあると。
それはやはり脳の状態の向上? 発達? どうなんだろう、“進化”というよりも、自分が自分である状態、余分なものを削ぎ落されて“還って”ゆくこと、そういう状態というか。
対面セッションではかなり脳へのアプローチが主題になっているからそう感じるのかもしれませんが。
いろいろなひとの頭部に触れてきて思うのは、わたしたちは脳のなかに“いま”の人生だけでなく、数多の過去生、そして先祖の人生を内蔵しているのだろうということで、だから自分の“迷宮”を解いてゆくことは、過去生の自分、家系の先祖と重なる“迷宮”を解いてゆくことでもあり、だからかれら、彼女たちの“迷宮”を解いてゆくことでもあるんだなと思います。
そして自分自身も誰かと重なる“迷宮”の一部を自身でもそうと気づかずに、誰かによって解かれていることもあるのだろうと。
*
2025/01/20
下弦の月を迎えるまえに
真昼の月が宵の月に変じる一瞬のあわいに浮かぶ銀色が、とてもきれいだった日。
深紅のセーターを着て、紅薔薇の耳飾りをして、しらゆきべにばらのべにばら気分でお出かけしたら、うかがったコトリ花店で冬の王女といった趣きの、ちいさな赤い薔薇と目があった日。
草舟あんとす号の本棚に見つけた『夢語り 夢解きの中世』の目次に触れただけで「これは」と思い、お迎えしたこと。
やはり以前におなじ書架から『古代人と夢』をいただいてきていて、読む時機を待つ眠りに就いていたのだけど、この書物の目覚めのタイミングを迎えたのだなと感じた日。
双子の星で、ふたつの水晶に棲む、ふたりの眼差しが交差する地点から生まれるものの狭間の時間を過ごした日。
満月の数日まえの日のことを、下弦の月を迎えるまえに振り返る。
2025/01/04
宿り木の樹の下で
元日、初詣から帰る道すがら森を散歩して、いつもは通らない道を歩きながらふと頭上を仰いだとき、葉を落とした樹々の高いところに巨大な球状の塊がたくさん確認できることを発見して、「え?」と停止してしまった。
「ヤドリギ?」と思いつつ半信半疑だったけれど、どうやらほんとうにヤドリギだった。
自然のなかのヤドリギをはじめて目にした。
しかもこんなに身近な森で。
視線の角度を変えれば見える景色が違う、というのをわかりやすく体験して、「ヤドリギの樹の下で」というのは物語のなかの風景だと思っていたけど、現実にその樹の下に佇んでそれを見あげるのは、なかなか感慨深いことだった。
ヤドリギは「宿り木」という表記で書くのも好き。
この樹の実を好物としているヒレンジャクという鳥もやってくるとのことで、いつか逢えるかもしれない。
子どものころからすぐそばにある場所なのに、いつも神秘にあふれている。
2025/01/01
ガレット・デ・ロワ
新年をガレット・デ・ロワで祝福しました。
公現祭にはすこしはやいけれど、はじまりの日にと思って。
王冠つき。
去年の12月に入ってすぐにご予約したから意識していたわけではないのだけど、“冠”というキイワードがここにも。
祝いのお菓子、とてもおいしかった。
1月、アリアドネ
Luna Somniumの年があけて1月は、アリアドネとのつながりを深めます。
そのため今月のセッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。
アリアドネはギリシアの女神であり、Wikipediaによるとその名は「とりわけ潔(きよ)らかに聖(きよ)い娘」という意味をもつとのことで、つまり彼女はその名のなかに二重に「きよらか」を宿しているということになります。
神話においてアリアドネはクレタ島の王女として登場しますが、彼女の母とされるパーシパエが本来はその土地の古い女神であったように、アリアドネもまた古くは月の女神であり、時代を下るごとに伝承が姿を変えていったのだろうと感じています。
また神話のなかで彼女は脱出困難な迷宮の出口を“糸”によって手繰り寄せたことから、現代においても難問を解決する鍵、抜けだす道しるべとなるもののことを「アリアドネの糸」と形容されることがあります。
わたしは“迷宮”のことを思うとき、それはわたしたちの頭のなかにある脳のことでもあると感じていて、ゆきどまりの袋小路に入るのも、おなじところを堂々巡りするのも脳の“迷宮”のなかに迷い込んでいるときの現象であるならば、また視線の角度を変えれば思わぬ抜け道を発見したり、頭のなかがクリアであると一度通った道(おなじパターン)のなかに入り込むことを回避することができたりして、みずからの“迷宮”の“糸”を自身が手にしている、と自分で感じられることは人生においてとても重要なことだと。
アリアドネの名が「きよらか」を二重に重ねているのも、その糸を手にするには「きよらかさ」が大切であること、そしてここでいう「きよらかさ」とは、自分自身の意識と肉体(心)がそういう状態である必要性を示しているのではないかと、わたしは思うのです。
アリアドネの糸はわたしのなかでは黄金の色をしていて、それは月のひかりの色。夜のなかでも輝くそれは、人生の道しるべの色でもあります。
そしてわたしたちの“意識”のなかにもその色を迎えることができれば、あらゆる物事はこれまでとは異なる景色に変化します。おなじことであっても、自分がそれに感じること、反応がこれまでとは変わってくる。あるいはアリアドネの名の「きよらかさ」とは黄金色のことなのではないか、というのがわたしの意見です。
新年をアリアドネからとつたわってきたとき、すこし意外に思いましたが(今年の干支は巳年なので、蛇というキイワードと関わりの深いシャクティのエネルギーを宿す女神からのはじまりになるのかな、となんとなくで思っていたので)、しかし最初の啓示から時間が経つほどに、あらためてあたらしい年のはじまりにふさわしい女神だと感じています。
わたしたちが自分自身のなかに“きよらかさ”を招くことができたとき、自分自身の“きよらかさ”を想いだすとき、“迷宮”とはおのれがつくりだしていた幻影であることに気づきます。
誰もがきよらかな年のはじまりを、そして1年を迎えられますように祈っています。
アリアドネとディオニュソスが描かれたタロットカード。
これは21番“世界”に該当するカードで、“TRIUMPH”という言葉が添えられています。
TRIUMPH――勝利、成功、偉業。人生において、なにがそれにあたるかという問いへの答えとして、それは自分がつくりだした“迷宮”から抜けだすことなのだとこのカードは示唆します。
アリアドネは「かんむり座」という星座にまつわるエピソードももっていて、冠というキイワードとも結びつく女神ですが、さきほどの黄金色の話に戻ると「冠を戴冠する」ことは「黄金の意識とつながる」ことでもあり、それを戴く者は“迷宮”から抜けだしTRIUMPHする者、きよらかにきよい者であるのだと、そう感じています。
――――°˖✧
*1月、これからの予定*
1月30日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアリアドネの一斉遠隔ヒーリング *(該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます)
それではどなたさまもあたらしい年のはじまりが祝福に満ちていますように。よい1月をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
登録:
投稿 (Atom)