2025/01/29

ASSERTIVE







 2023年3月3日に記したと思わしき言葉の記録が出てきて、このころといまとでは意識のあらわれかたはおおきく変化したものの、いまのわたしでも「わかるな」と感じる部分が残っており、またこれを書いた自分がどういう状態であったか、そこにどういう思いがあったのかはまったく想いだせないものの、その自分に対する愛しさのようなものも感じられて、旧暦新年であり水瓶座新月の今日にかつての自分の言葉を再発見することになったのもなにかのタイミングであると感じ、アウトプットとして。


 あくまで内省的なものでありながら、「誰かにむかって語りかけている」ように見えるこの記録であり視線のありかたは、自分自身を“うしろの正面”から眺めよう、つまりはみずからを背後から見つめて俯瞰的に捉えようとするための“ありかた”です。


 巳年の年である今年は、蛇という生き物がそれを象徴しているように、脱皮、殻を破る、死と再生がおおきなテーマになるのだと思いますが、だからこそ個々や全体の“変化”をもとめてくることもあり、そしてそれは長いあいだ「光をあてる」ことが準備されてきたもの、見つめることをもとめられてきたけれど見ないふりをしてきたものがあるならば、それを“見つめてあげる”ということでもあるのだと感じます。


 “見つめる”ことは“光をあてる”こと。


 おととしの下半期くらいからもうずっとそういう流れではあるけれど、これからはとくに自分のなかに“潜伏”していたものがあらわれやすいので、体調不良なども罹りやすいときではあると思います。


 無理を無理とも思わずそうしてきたひとほど蓄積されたものが精神的な停滞感にもつながってくる流れではあると思うので、今年のテーマの裏側には「ごまかさず、正直に」もあるのかもしれません。


 自身のからだの声、こころの声に“正直”に。体調も停滞も、自分が“ほんとう”はどのような状態であるかを、教えてくれているだけ。


 わたしはごく子どものころからそのことを嫌というほど知っていて、知りすぎているくらいです。でもそれに“気づく”のに、とても時間がかかってしまった。


 みんなもう“正直”になる必要がある。それがどんなに怖かったとしても。それを教えてくれているだけ。


 今年のわたしのおおきなテーマのひとつは「ASSERTIVE」なのだそうで、折しも下記につづく過去の言葉と連動し、それもひとつの“流れ”なのだと思いつつ。


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 幼少期より対人関係やコミュニケーションに苦手意識があり、それにともなってハートをオープンに開くことも困難に感じた時代が長く、その領域における浄めと癒しをおおきく必要としていました。


 自分のなかにある“層”をひとつずつ丁寧に浄め、癒していってあげること、それを繰り返すことで近年はその領域におけるさまざまもだいぶ緩和してきたことを自身でも実感していますが、最近になって自分のことをまったく誰も知らない第三者しかいない環境に身を置く機会があり、やはりまだ自分のなかに“閉じている”部分があると自覚することがありました。


 (自分のなかに“ある”ものは、いつも人が教えてくれ、“外”の現象としてそれがあらわれることになっている。ほんとうによくできているものだと感心する。)


 自尊心の低さ、自信のなさのようなものに、ごく子どものころから「自分はひととどこか違っているようだ」という思いがあり、おなじものを見たり聞いたりしても大多数と感じかた、考えかたがだいぶ違っていること、大多数に迎合できなかったこと、それを「変わっている」と変換されることを怖れ、他者の目というものをつねに気にして怖れてきたこと、それによって「自分」というものを表現すること、主張することを妨げてきたものがありました。


 とにかく他者から「変だと思われること」「変わっていると思われること」が嫌だという意識が幼少時から根深くあるようで、「“みんな”の仲間入りをしたい」と思っていた当時のわたしがそのように感じているようです。


 けれどもわたしが「仲間入りしたい“みんな”」とは、わたしの個性を愛してくれるひとたちだと理解しています。


 わたしが“わたし”をあらわして、離れたり怪訝に思う“みんな”は、わたしの人生において、真の意味では必要ないひとたちであること。


 また自分のなかにどうしても子ども時代からつづく「わたしは醜い」という意識がどこかにあるようで、周囲の賞賛に気まずい気持ちになったり、本来受けとっていいはずのものを受けとることに抵抗があるのも、貢献しなければ好かれない、愛されない、という気持ちもそこからくるもののようで、これも以前とは較べられないほどに回復していることは自分で“知っている”のですが、もとをただせば辿りつく自尊心としてあるものを、さらに高めることの必要性を感じています。


 自分のもつ可能性を拡げるには、まず自分を“閉ざしている”ものを知らなければいけません。


 なにに“制限”され、“束縛”されているのか。


 わたしがわたし自身を認め、赦し、受けいれ、それを表現してゆくことを妨げているものを。


 “真実”をあらわすことを怖れているもの、許可できないでいるもの。


 自身のなかにあるものを、それがなんであれすべてゆるす。それをゆるし、そう意図するように。




 (2023.3.3)


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