2024/05/16
イシスの路
もう先月のことになりますが、『イシスの路』という言舞劇を鑑賞してきました。
数年まえからこの目で見てみたかったもので、機会があればかならず足を運んで自分自身の目、耳、皮膚感覚で感じてみたいと思っていた、女神イシスの永い魂の旅路を言葉と踊りで魅せる舞台。
「わたしはイシス、そしてマリア」というせりふの冒頭から、インスピレーションにあふれるイメージの連続で、その“音”を紡ぐひとの衣の白と、長い髪に結ばれたリボンの青が、そのひとが舞う動きにあわせて意志をもって流れ立ち昇る、水であり火のようでした。
「乙女? 母? 伴侶? ――イシス」
「七つの頭をもつ赤い竜がイシス(そしてマリア)という筒をとおして生まれる天の幼子を生贄にする、だから」というふうに流れ、昇ってゆく旅路への合図。
「砂漠の泉、渇ききった砂の道を歩いていると、天の滴を宿した泉に出逢った」
「星の神殿。炎の海に沈む島、失われたはじまりの言葉。そして、失われたものを守りながら旅をつづける者たち」
「橋立。かつてひとつだったものをつなぐ橋がかかる」というふうに降り注ぐ声を浴びているあいだ、わたしはずっと眠くて、おおきなものを自身のなかに招き入れるとき、いつも眠くなるのですが(自分自身の意識を“オフ”にすることがそういうときには大切なので)、それとおなじ状態のようでした。
砂漠の泉、星の神殿、橋立。天の御柱を自分自身のなかに招き入れるようなこと。
ずっと心から見てみたいと願っていた舞台で、わたしにはこの“場”を味わうことがとても必要なことだったのだと感じました。
舞台を終えたあと、最後に挨拶にあらわれた“イシス”を舞われたはたりえさんが、「わたしはイシス」とこの舞台のはじまりの言葉を口にされたあと、翼をひろげるように両腕をひろげて会場全体の観客を指し示しながら「わたしはイシス」ともう一度言葉にされました。そしてその腕でご自分を抱きしめるようにされながら、すこし涙ぐみそうな感極まったお声で「それだけです」といって、退かれてゆきました。
「わたしはイシス」でありながら、「あなたもイシス」であること。「誰もがイシス」であること。
そういった意識が、今後の世界においてますます重要になってくること。
それをさらに深く肌で感じるようになってきています。
去年制作した私家本の自著、『天の花 地の星』ともかなり共通の主題をもっていることを感じて、そのこともほんとうに嬉しく思いました。
わたしたちの中心にある“泉”――あれをひとつの祈祷書だといってくださったかたがた。自分のなかにある聖なる祈りとつながるためのものだといってくださったかた。わたしは自分の“姉妹たち”のお守りになるようにとあの本をつくったのでした。そしてあの本にかぎらず、わたしの書くものは昔から一貫して、わたし自身とわたしの“姉妹たち”のためのものです。
(当然ですが、“姉妹”とは性別のことではありません。そしてあれは「ふたりのM」――聖母マリアとマグダラのマリアのことをわたしなりに綴ったものですが、“ふたりのマリア”と深い結びつきをもつイシスをその背後に感じていたことは、もちろんのことです)
この言舞劇もまた、わたしにとってはひとつの「祈祷書」でした。
このようにして自分の“お守り”になるものが自身のなかに増えてゆくたび、それとともに時を重ねてゆくたび、わたしたちは「まだ見ぬ自分」を想いだしてゆく。そしてそれは「自分が自分自身に還ってゆくこと」と同義語です。
いまこのタイミングでこの“場”を訪れる機会があったことに、感謝を捧げて。