2026/10/01

熊野詣(2)










 熊野古道の苔むした石畳の階段からはじまった2日目。


 この平衡でない自然の石のまるみに足の裏を吸いつかせるように歩かなければバランスをとることもおぼつかない階段の傍らには、遠い記憶を宿した杉の巨樹がならび、


 ただ無心で石段を登るとき、なにも思考せず、感情もなく、ただただ「先に進もう」という気持ちのみが残り、からだはそれだけを目的に自動的に動く。


 「神のおわす場所」とされているところが、その歴史が古ければ古いほど、それと比例するみたいに辿りつくことに困難を要する傾向にあるのは、


 聖域として安全に護られていること、巡礼者の覚悟が問われていること、理由はいろいろにあるだろうけれど、


 ひとつには辿りつく過程で“無心”になる必要があるからなのではないか、と思ったりした。


 その状態であってこそ、「受けとるべきもの」をあますことなく受けとることができる。


 神域の核心にいたる道筋で、そのための準備をうながされているのだろうと。


 熊野では、暗闇から光へ還る“生まれ変わり”の体験を、何度もした。


 “子宮”の沈黙と暗がりに光が射して出ずるもの。


 あの古道も“胎道”みたいなものだといわれれば、そうであるのかもしれない。


 熊野三山が“過去世”“現世”“未来世”をあらわしているならば、


 “現世”である熊野那智大社が、階段の多さのために辿りつくことが、もっともハードルが高いといえばいえるのも、なんだか意味深いことだった。


 (それでも昔のひとたちが感じただろう“難航”とは較べるべくもないだろうけれども。)


 そして那智の滝。


 ずっとあの水流がほとばしるまえに佇んで、いつまでも佇んでいたいほどだった。


 動画も撮ってみたけれど、なぜだか1秒しか撮れておらず、わたしが見たその姿は、写真や動画に残っているものより、壮大で幽玄で清々しく美しかったけれど、それは自分のなかにだけしまっておきなさい、ということなのだろうと。


 霧雨なのか滝の飛沫なのか、水にやさしく包まれて、その瞬間そばには誰もおらず、わたしひとりだけの空間で、目のまえには滝があり、その滝を抱くようで、


 とても特別で贅沢なことだった。