2026/07/08

『月の片翅をよむ 夏の回』朗読教室 7月5日









 四季を巡る大勢待なつみさんの朗読教室、『月の片翅をよむ』の夏の回 、草舟あんとす号にて


「では薔薇は?
 薔薇の花はどんな秘密をその渦のなかに隠しているのだろう。」


 からはじまる文章を読みました。





 “森”のなかに入ってゆく場面を、holy gardenの緑がもっとも濃く繁る季節に。


 発声をはじめた途端にささやかに降りだした雨は、“森”の奥深くへと進むほどにはげしくなって、終わりの合図のころに突然やんだ。


 「まるで退行してゆくよう」だといっていた誰かの声。


 淹れていただいたホーリーバジルのお茶を飲みながら声を放ち、言葉をかわしあうひとときは、


 一時的に外界から隔てられた“森”のなか、あるいは泉の水の底を映す“舟”のなかで、自分自身のこだまに心澄ます時間でした。





 *


 蛇足としての余談のようなもの


 『月の片翅』を書くとき、今回の朗読教室で読んだ場面の言葉をおろしてゆくことはとても苦しかったことで、この部分を“読む”のだということになったとき、胸が塞がれるような、呼吸がしづらいような気持ちになり、それはこの場面を記すことが、わたしにとってクノッソスの迷宮のごとき“森”のなかに入ってゆくようなことであったこと、おそらく“声”をとおして文字を“読む”ことで、それをふたたび体験することを知っていたからでした。


 漠然と心に靄がかかるとき、自分のなかの“森”が騒めいている。


 またひとつ、さらに“奥”へと進むようにもとめてくる。


 入口と出口がおなじ場所にある、誰のなかにも存在する迷宮のごとき“森”


 ――「まるで退行してゆくよう」


 声という音にしてみずからの“外”に言葉を放つことによって、その音を、その言葉を自分自身にも聴かせることは、二重の意味をもつ“まじない”のようなものでもあるのだな、と昨日は感じた。


 家に帰った途端にとても眠くなって寝床に籠り、長い時間意識から離れる必要があったのも、その“森”の道を、しるべを辿りながら歩いてゆく“つづき”が無意識のなかではおこなわれていたのだろうと。


 とても貴重で、重要なことでした。


 それは「より呼吸を深くするために」「さらに澄んだすがすがしい風が胸のなかを通るために」起こること、いつだって。


 自身からうながされ、“森”の奥へと進み、その景色と対峙して自分のものとするたびに、


 奥へ奥へと進み、みずからを研ぎ澄ませてゆくたびに。



 次回のお教室は秋も深まるころの、10月25日(日)を予定されているそうです*


 またふたたびの“巡り”を楽しみに。