2025/10/30

アバンダンティアの一斉遠隔ヒーリングのご報告






 10月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへのアバンダンティアの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 今回もっとも強くつたえられていたのは、“豊かさ”とはどういうことか、ということでした。


 わたしたちがなにより優先する必要があるのは、自分自身の気持ちであることはたしかです。


 自分自身をおざなりにして生みだされる平穏のなかに、真の調和も平和もありませんし、奥深くで歪みになっていたものは、いずれなにかのかたちで表出します。


 そのため、自分を“内観する”ということは不可欠ですし、自分のなかにあるものが現実に顕れるスピードも加速しているいま、そして今後の流れのなかで、それは絶対的に必要になってくるものです。


 エネルギーも内観もおなじです。


 自分のなかが重くて混沌としていれば、それは現実に映しだされますし、軽くて無駄がなければ、現実もまたそのように運んでゆきます。


 そこで大切なことは、エゴからくるものが動機であるとき、わたしたちは自分の力を充分に発揮できなくなる、そしてその動機からくるものは自分自身を真の平和からも遠ざけてしまう、ということです。


 「わたしだけのため」が動機のもの、また、「(わたしではない)誰かのため、みんなのため」という動機にもとづくものはエゴであるといえます。


 「わたしのためでもあり、誰か(みんな)のためにもなる」という動機のなかに、エゴを超えたエバァ(Eva。語源はヘブライ語で「命」または「生きるもの」)があります。


 「わたしとわたしに関わるひとの幸せのため」という動機のなかにエバァがあり、そのエバァによって“豊かさ”は生みだされます。


 「自分だけのため」という利益のことを考え計算しても、「誰か(みんな)だけのため」と無理に自分を納得させて気持ちに蓋をしても、からだはなかなか動いてくれなくなります。


 それは思考による選択であり、エゴであるからです。


 愛でありエバァであるものを選ぶのは“怖い”ことです。“怖い”と思考は反応するのです。そこには覚悟が問われるからです。


 「わたしとわたしに関わるひとたちを、わたしが幸せにする」というのは覚悟です。その覚悟から「だからわたしはこれを選ぶ」というのは責任です。


 覚悟も責任も、ほんとうは怖くて重いものではなく、愛のなかにあるもの。


 「わたしとわたしに関わるひとたちを、わたしが幸せにする」という覚悟が決まれば、自分がなにをすればいいのかおのずとわかります。からだは勝手に動いていきます。


 そうでないとき、まだその覚悟ができていない。


 まだそれが肚に落ちていない。


 そして思考に囚われます。


 思考によって「あたらしい扉」にむかうことへの抵抗があらわれていたので、そのエゴを溶かすこと、自分自身の潜在意識とつながること、今回はそういった部分にアプローチがあったようでした。


 エゴを溶かすのは愛であり、豊かさはその愛から生まれるものであるのだということ、お心に留めておいてくだされば幸いです。


 「わたしとわたしに関わるひとたちのため」を、どうぞ合言葉に。


 このたびもありがとうございました。


 明日は万聖節。此岸と彼岸の境界が薄れる特別な日でもあります。10月最後の日、区切りの日がよき日でありますように。


 そしてどなたさまもよき11月をお迎えください。


 いつもあなたがあなたでありますように。





2025/10/29

MYSTERY OF TUTANKHAMEN










 『MYSTERY OF TUTANKHAMEN』に過日訪いました。


 “死”は終わりではなく無でもなく、この地上からつぎなる世への移行であり、定められた周期で氾濫と豊穣を繰り返すナイル川の“再生”と、太陽の運行に見る“永遠”にもとづいている古代エジプトの死生観。


 王墓にはそのための祈りがおさめられている。


 ツタンカーメンの王墓の副葬品を精巧に再現したレプリカによる展示。


 複製をとおして当時の息づかいや若き王の生涯を、五感で感じるためのもの。


 黄金のチャリオット、死者の魂の守護者であるアヌビス、神々とヒエログリフ。


 おととしの角川武蔵野ミュージアムでの開催からうかがいたかった展示に、ようやく。


 ツタンカーメンとアンケセナーメン。


 王と王妃がむかいあう玉座のレリーフに、わたしは幼いころから惹かれていて、これらが発掘されたさいのハワード・カーターの言葉をふくめ、子どもの時分より神話のように感じている。


 (この場合、それが“ほんとう”かどうかは、わたしにとってあまり重要ではなく。)





 『最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花が置かれていたことだ。私はこの花を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった。』


 ハワード・カーター











タニガワマリコ・いしみずズコ2人展『ヤサシイの扉』 at art Truth










 なんといってもこの対となる扉の絵が大好きでした。渦を巻く紅色の薔薇と、白い野ばらと。星と雪の結晶が互いに呼びあい、水面にひろがる波紋でもうひとつの花の渦と、水面と溶けあいもうひとつの扉の空と、つながっているようで。


 そして花の色と暁の色も連動しあっているのだな、と気づいたのは帰り道に日暮れのあとの薔薇園で薔薇を眺めていたときのこと。








天文学者の部屋Ⅱ










 天文学者の部屋で、錬金術師の部屋でもある場所へ。


 密度高く凝縮された空間にならぶ天球儀や器具を眺めていると、時間が経つのも忘れそうなほどで、“かつて”を生きたひとたちが謎や未知なるものを解き明かそうとした形跡に触れるのは心躍る体験でありながら、解明されない余白も好きだったりする。








シブエミカ写真展『沼の鏡/鏡の沼』 at room103










 水鏡に映る森が、逆転した世界で邂逅したさかさまの双児のように繋ぎあわされた写真を目にしたときから、とても心惹かれて、その一枚のフォトグラフを頼りに訪ねていった。


 海でも湖でも川でもなく、沼。


 そこに眠っているものは底がなく、どこまでも深きに潜るみずからの深淵かもしれない。


 「その扉にいたる手がかりをどうぞ」というふうに置かれていた鍵。


 散りばめられた鮮やかな赤が、差しだされた鍵とともに、ひとつの暗号みたいだった。





 合言葉のように“Alice”とクレジットに明記された、8mmフィルムの映像に登場する女の子たちの名は、“どこでもない国”の“どこでもない場所”にあなたを誘うので、潜ってみてください、といっているみたいで、ノスタルジアというにはまだ身に覚えのある感情を撫でていく、原風景に触れる展示だった。










『ポプリア逍遙』展 at 霧とリボン










 『ポプリア逍遙』展 at 霧とリボン


 優美な気品に満ちた薬草壺と、その調合に使われるのかもしれない植物が壜に封じられてならぶ部屋に、星に捧げられた言葉が静謐に置かれてあった。


 tarotの15番、daemonとの呼応を感じた山羊座が今日のわたしには印象深く、大理石に彫られた神話のごとき断片から矢車菊の花をあざやかに手渡された。





 お迎えしたもの。


 フランスガムさんの『人魚の唄』は、アンデルセンの人魚姫とおなじ色の瞳をもつ、海の色で矢車菊の花の色を眼差しに浮かべた人魚のお話。


 自分の瞳のなかの青に囚われていた彼女が、海底より深く隠されていた記憶から、やさしい風によって浮かびあがり、そっと飛んでゆく話でもあった。





2025/10/21

鳥の唄










 新月に色づく花。


 そして最近よく聴こえてくる「鳥の歌」のこと。


 太陽が空にある時間に家にいると、鳥のさえずりがあちらからもこちらからも聴こえてきて、合唱しているようだなとすら思うほどに、ずっと歌っている。


 おおきな森がそばにあるためか、まえから鳥の声はよく聴こえていたけれど、金木犀の香りを風がふくみはじめる直前くらいから、この季節を謳歌しているみたいに、ほんとうにずっとずっと歌っている。


 今日も新月のための唄を歌っているようだった。





2025/10/20

新月前夜










 早朝の雨の庭に落ちていた酔芙蓉を、部屋に持ちかえり水の器に。


 朝に純白の花をひらき、正午から薄紅をひろげ、夕方にかけてはっきりとした紅へ。


 たった一日だけのグラデーションに物語を秘める花の神秘。


 この子は開花した日にずっと室内にいたので、日が暮れても淡く乙女の色にとどまっている。


 そんな新月前夜。





2025/10/10

仲秋







 6日の仲秋の名月の日。


 特別な日に、とくべつな場所へ。





 なにげなく開いて最初にあらわれた頁に「クノッソスのバラの物語」からはじまる言葉とともに、世界最古の薔薇の絵である「青い鳥(Blue bird)」が目に飛び込んできたとき、このうつくしい本を手もとに迎えようと決める。





 特別な月の夜に、holy gardenのお花やさんからやってきてくれた薔薇は“vintage rose”というのだそうで、そういえばこの名も“最古の薔薇”といえなくもないのかも、と思ったり。





 後日談として。


 薔薇はvintage roseではなく、vintage laceだそうです。名を教えていただいたときもantique laceといい間違えたり。“鳥”の名のお花やさん(コトリ花店)でお迎えしたこともふくめ、わたしの夢のなかでは古代の壁絵、“最古”の薔薇とつながっていたようです。


 vintage lace*





2025/10/05

reunion













三浦康太郎 銅版画展『午前0時への招待状』 at msb gallery







 三浦康太郎 銅版画展 『午前0時への招待状』 at msb gallery





 夜空を疾る汽車の十二宮の旅。散りばめられた星の地図の緻密な線や点のひとつずつに隠されている、数多の秘密や暗号を感じつつ。


 それぞれの星座を十二面体に映したオブジェもあり、ここにもちいさな宇宙を想いながら。





 『Astropia』という作品も心に残った。天にむかって羽ばたく、というよりも嘴で宙の道を切り拓いているような鳥に、“生命の樹”の構図を感じた。


 題はアストロ(星)とユートピア(理想郷)が融合した言葉だと聞き、この鳥は宇宙の中心に飛翔し、創造の種を生みだしているのだろうか、などと思ったり。








2025/10/01

10月、アバンダンティア







 Luna Somniumの10月の女神はアバンダンティアです。


 Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。


 この10月はアバンダンティアとのつながりを深め、施術にもこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。


 アバンダンティアはローマの豊かさの女神で、成功や豊穣、繁栄や幸運など、この地球上であらわされる“豊かさ”を精神的にも物質的にもつかさどる女神です。


 彼女はコルヌコピアイ(豊穣の角)という宝物をもっていて、そこからいくらでも“豊かさ”を引き出すことができる。


 そして、わたしたちにもみずからの“豊かさ”とつながる方法を想いださせてくれます。


 秋は豊穣の季節。


 それはどのようなものであれ、みずからの蒔いた種を“収穫する”と季節でもあるということです。


 自分の“豊かさ”につながるということは、まず自身が「どのような種を蒔いてきたか」ということに気づき、そしてそこに“豊かさ”とのつながりを妨げるものがあるならば、「これからどのような種を蒔いていきたいのか(それで、あなたはどうしたいの?)」という「自分の意図はどこにあるのか」ということを心に問うにも適した時期です。


 自分が育てたい“花”があるならば、その花の“種”を植える必要があります。


 しかしわたしたちはしばしば、自身が望む花とは異なる種(思考)を植え、なぜ花(現実)が育たないのだと考えます。


 アバンダンティアは、“豊かさ”という種のなかの、それが花として育つことを阻んでいる怖れを溶かし、わたしたちのなかの“豊穣”とのつながりを深めてくれる女神でもあります。


 (そういえば、なぜ先月の一斉遠隔のご報告で“種”という言葉をもちいたのかと思っていたのですが、豊穣と“種”は土のエレメントとしてのつながり、成熟と結びつきとしての10月とのアバンダンティアとすでに連動していたがために、橋渡しとして“種”というキイワードがあらわれたのかもしれません。)


 ピーテル・パウル・ルーベンス『豊穣(アバンダンティア)』


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 10月、これからの予定   



  10月30日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のアバンダンティアの一斉遠隔ヒーリング

 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。



 それではどなたさまもよきひと月をお過ごしになりますように。


 あなたがいつもあなたでありますように。