2025/03/15
問いへの答え(ある段階においてのa)
先月中旬くらいからセッションをとおしてお逢いする機会のあるかた、お話する機会のあるかたにお話していることを、ここにも記しておこうと思います。
順を追うととても長くなってしまうと思いますので簡単に説明するならば、去年、そしてもとを辿ればそれより以前から、「これからもセッションをつづけてゆくか」について迷っていたことがありました。
自分のなかに深く沈みこむような迷いでした。
一時期は「もうやめよう」という気持ちにおおきく傾いて、去年の後半はそのつもりで進めており、そういうことはつたわるものなのでしょうか、何人かのかたに「これからもセッションをつづけられますか」というご質問を秋から冬にかけていただいたことがありました。
そのときのわたしはYESともNOとも答えられず(場合によっては「どうかな」とか曖昧な言葉をこぼしながら)、微笑み返すことができるだけでした。
12月に入ってひとつ、おおきくて深い切り替わりがあり、それにつづいて派生した事柄が多くあるのですが、いまは「セッションをこれからもつづけるか否か」のお話なので、それだけに話をしぼると、「ひとまずはつづけよう」と気持ちが回復し、年があらたまり、そして2月の諏訪の旅を迎えるころには、それが固まってゆく“流れ”のほうを自分は選んだのだと感じました。
そして「つづけてゆくなら必要」である変更が来月から生じる、ということなんです。
(春の終わりから夏の始まりくらいを目処に予定している遠隔ヒーリングの変更のことも、こちらで軽く触れておりますので、ご興味がおありでしたらお読みになってみてください。)
「やめよう」「やめたい」と思った理由も、ここではやはり簡易的な説明になるのですが、わたしは当初からクライアントの幸せを心から祈ることができなくなったらやめたほうがいいと思っていて、金銭をいただいて施術をする、それを“仕事”にするという形式のとき、施術を受けてくださるかたのなかには「いまの体調、状態が思わしくない。だからすこしでも良くなってほしい」という気持ちからご依頼くださるかたもおられます。
(また反対に、自分のなかにそういう気持ちがあることを知られたくない、体調、状態が思わしくないのだと、思われたくないから受けられない、というかたもいらっしゃいます。どのようなご依頼にもわたしはそのようなジャッジをまったく持っていないつもりですが、そういった気持ちを理解することはできます。)
わたし自身も毎月クリアリングやヒーリングを受けていますが、それは自分のずれの修正、メンテナンス的な意味で受けていて、そのようにメンテナンスとしてお受けくださるかたもいらっしゃり、施術を受けられる理由はそれぞれだと思います。
そのうえで、「状態を回復したい」とか、ぎりぎりの状態を「踏みとどまりたい」という意図で(ご本人がそれを意識しているにしろ無自覚であるにしろ)施術を受けてくださるかたがいらっしゃるのもまた事実であり、仕事として金銭をいただくとき、「相手の状態がある程度“思わしくない”からいらっしゃる」かたがいるのだとすれば、相手をその状態にとどめようという無意識が、今後わたしのなかに発生しないとはいえないのではないか、という問いはつねに自身に対してありました。
自分では「相手が幸せであることを願っている」つもりでも、無意識、潜在意識がどうであるかはわからない。わたしは他者からむけられるエネルギーで如実にそれを感じたことがあります。
相手はおそらくは自覚していない。でもエネルギーはごまかすことができない。わたしはそうではないと、わたしはそうならないと、果たしていえるだろうかと。そう断言してしまえるならば、それはある種の傲慢さではないのかと。
(そしてそのようにエネルギー的なつながりが生じるとき、相手の“重い”ものを受けてしまうとき、自分のなかにもおなじ質量の“重さ”があることを、わたしは経験で理解しました。
そこにふくまれる種類はそれぞれに異なれど、質量としての“重さ”はおなじ。
そして自分が“軽く”なってゆくごとに、その“重さ”はこちらに近寄れなくなるのです。
“外”にある“重さ”は鏡の役割としてそこにある、それだけのことなのだと。
これもまたひとつの話の脱線なので、ここまでにします。)
そのようなとき話を聞いてくださったかたが、「癒しの段階はおおきく3段階にわけられる」という言葉をかけてくださいました。
その「みっつの段階」としてつたえてくださった言葉を、そのまま記憶することはできなかったのですが、わたしなりにその後そのことに思いを馳せ、解釈したこと、納得したこととしての「3段階」はこのような感じでした。
ひとつめは、ひたすらエネルギーを浄化して癒す状態、籠り、眠りの時期、自分を外から「隠す」「隠そうとしている」時期、自身を見つめ内省する時期、傷を修復し、自分でないものを浄めていく時期。停止の時期、つまり停滞を感じやすい時期、でもその立ちどまりこそが「護られている」ことのあかしの時期。
ふたつめは、自分を確立してゆく時期、浄めて空いたスペースによりよいものを受けとってゆく、具現化してゆく、自分を“顕して”ゆく、開いてゆく時期。それはエネルギーのクリアリングがある程度進んでいる時期でもあるということ。
みっつめは、高次とつながる時期、他力と自力が完全に融合する時期、視えないもののサポートを受けとることで見えるものの力も拡大する、そのようにして無限大に循環してゆく時期。
そのみっつ。
(みっつの段階は場合によって往き来したり、混ざりあったりもします。そしてこの3段階について考えをわたしなりに咀嚼し、発展を見せたので、それも機会があれば綴りたいと思います。)
いずれにしても、そのみっつの段階のどの段階であっても、クリアリングやヒーリングは、そのときそのひとの段階、階層においてもとめられるのだと。
生きているあいだ、そのひとが「もうここでいい」「ここまでにしよう」と思わないかぎり、ずっとそれは必要なものであること。そして「ここでいい」という判断も、そのひとにとってはそれがベストであること。――これはあとからわたしが感じ、つけ加えたものです。
わたし自身、毎月自分自身にクリアリングの時間をとってあげることを長いあいだ継続しているように、自分とつながってくださるかたがたはわたし自身の“鏡”でもあるので、それを理解してくださっているかたがただと、そのようなお話でした。
それをご自身が明確に意識で理解していなかったとしても、無意識、潜在意識でそれを“知っている”と。
そして「相手の幸せをこのさきも祈れるのだろうか」という問いかけを自分にしていること自体が、それが可能であることをあらわしているのだと。
――「だからもっと“信頼”してあげなさい。“内”も“外”も」といっていただいたように感じました。これまで誰にもいえなかったことを、あたたかく包みこんでくれるやさしさは、出逢ったころからずっと変わらない、地母神のようなそれ。
そのあたたかさにぽろぽろと涙がこぼれて、わたしのなにかがほどけはじめるのを感じました。
簡易的な説明ですが、そのひとときがあたたかいお茶みたいに沁みこんで、そののちに生じたさまざまと連動しあいながら、自分のなかでいろいろと納得するものがあり、絡まった糸がどんどんほどけるように気持ちがほどけて、いつまでつづけられるかはわからないけれど(これからはさらに“風”にしたがって生きてゆくことになるのだろうと思うので、風がこのさきどのように吹くのかはわからない。でも“いま”の自分は)、“いま”できることをやっていこう、と気持ちをあらたにしたのです。
そしてほどけていったさきから、目に見えて動いてゆくものもあり、いまはその“流れ”にのることを最優先事項としているようです。
そういうことがありました、そういう時間を過ごし、いまの段階でのそれはきれいに終わりました、ということを、おおやけに記しておいたほうがいいみたいだったので。
つまりはなにがいいたかったのかというと、「あなたがいつもあなたでありますように」と祈っているということです。
そしてその祈りのためには「わたしがわたしであること」――主軸は「まず自分」であり、自分自身が幸せで“ある”ことが、とても大切なことなのだと理解しています。
いつもありがとうございます*