2026/01/31
翡翠とカワセミ
さかのぼると今月の25日のこと。
停留所一歩手前まで来たところで、目のまえでバスが発車してしまい、ベンチに座ってつぎの時刻を待ちながら、ふと仰ぐと、むかいの建物の屋根に鳥が舞い降りてくるのを認め、それがカワセミであることに気づいた。
宝石の翡翠に喩えられる青翠色の羽。
その子はつぎのバスがやってくるまでずっとそこにいて、うつくしく澄んだ姿を見せてくれていた。
以前にカワセミを目にしたのは、数年まえのおおきな節目のときで、ある意味でのメッセンジャーでもある。
バスに乗り遅れて運が良かったな、という話。
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そして去年の4月の諏訪で、諏訪湖におかえしした翡翠の石を想いだし、恋しく思ったという話。
思い返せば数年まえにカワセミを目にした場所から、その翡翠の石はやってきてくれたのだった。 その場所でカワセミを見た日と翡翠が手もとにやってきた日がおなじ日だったかはさだかでなく、忘れてしまったけれど、翡翠がほんとうに思いがけなくわたしのところにきてくれた日のことはよく覚えていて、2022年の1月のことだった。
多摩の小野神社の境内で、足もとに不意にきらりと光るものに目をとめ、わたしはとっさに「硝子かな、あぶないな」と思い、手でひろったのだった。
砂まみれになって存在を隠すように青翠色も失くしていたそれは、でも手にのせるとぴりぴりと反応して硝子片でないことはすぐにわかった。
わかったけれども、一度手にしたものを、ふたたび砂利に戻す、ということができなかった。
まずこの子をきれいな水で清めてあげなくてはと思い、手水舎の水であらってあげると、嬉しそうにきらきらと輝いて、石の姿をあらわした。
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そのときはまだ、翠の色ははっきりしていなくて翡翠ということはわからなかったけれど、なにか特別な石であることはわかった。
どうしよう、やはりもとに戻したほうがいいのではと思いつつ、手のなかであまりにも反応するので、コートのポケットに入れて、一緒に連れてゆくことにした。
そのあとおなじ日に高畑不動尊をまわっているあいだも、石はわたしのポケットのなかでずっとぴりぴりと反応してなにかをつたえてきていた。
やってきたときからこの石は、いつかしかるべきときに、しかるべきところにご返納するのだろうと感じ、それまでのあいだわたしはこの石を本来の姿、力に近づける必要があるのだと、なぜだかすごくそのように思って、各地を一緒に巡り、この石に聖水を捧げてきた。
石もすこしずつ本来の深い翠の色を取り戻していった。
そしてそれからおよそ3年が経った2025年の4月、桜の諏訪湖で起きた言葉にはできないようなこと。そのまえの2月にはじめて訪うことができた雪の諏訪のこと。 雪と桜を繋ぎ、巡る旅のこと。
4月の諏訪でなすべきことを無事になすために、天と地をむすび大地のものざねをあらわすかたに蝶の器もつくっていただいた。
その中心で光っていた、あの翡翠の石を想いだす。
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今年、諏訪湖は御神渡りが起きるかもしれないという話で、先日の富士の泉の旅をとおしても(この旅のことはいずれ、また)、その可能性は高いのではないかという事象を受けとってはきたけれど、どちらでもいいと思う。
それが目に見える現象として、生じても生じなくても。
ただそれが諏訪湖の意志であるならば、それは起きる。そう感じている。
カワセミからつながった、翡翠と諏訪の話。
いまやっとできるタイミングみたいだった。
2026/01/20
伊勢山皇大神宮
数日まえですが、横浜にうかがったおり、伊勢山皇大神宮にようやく参詣することが叶いました。
「ようやく」という言葉がついているのは、数年まえから幾度もお名前をお見かけする機会があり、幾度も意識に引っかかって、「呼んでいただいているのだな」ということはわかっていながらも、どうしても「まだ」と自分からストップがかかって、うかがえないでいたからでした。
駅からの坂道が大変だと聞いていたものの、子どものころに長く急な坂道を往復して学校に通っていたこと、家からどこにむかうにも坂があった場所に住んでいたわたしは坂が得意らしく、「坂をのぼる」というその行為が子ども時代に通じているためか懐かしい気持ちにすらなりながら辿りつきました。
社務所のお守りに桜のしるしを発見すると、ここ数年の一連の流れにいつもいてくれるその花がこうして思いがけずあらわれたことに、また「これでいいのだ」というサインを受けとりながら、そういえばここは「桜木町」だったと気づき、“桜”の地名からとられたシンボルをいただいているのだと思い至り。
「桜新町」の桜神宮もそう。
あの場所からも言葉では説明できないくらい、さまざまなご助力をいただき、いまに至ること。
そのようにして辿ると、神社自体は桜のシンボルはいただいていないけれども、聖蹟桜ヶ丘にある小野神社とも、とても深いご縁があり、去年の2月の雪と4月の桜の諏訪の旅は、この神社からはじまったことも想いだされて、おそらく伊勢山皇大神宮もまた“桜”を辿ってやってきた場所であるのだと、いまは気づかなくてもいつかはわかる領域で、この場所とも縁があってこの日ここにやってきたのだと、感じるものがありました。
“いつか”のわたしのために“いま”できることは、行きたい、行かなければと思ったところに足を運ぶこと。ひとまずはやってみること。
それがなにを意味しているのか、すぐにはわからなくても。
その繰り返しでようやく、ここまできた。
2026/01/19
『片翅の泉(katahane no izumi) 津木野由芽 × yukane ふたり展』
♢展示のお知らせ♢
冬のおわりであり春のはじまりである境目の季節に、小平にあるholy gardenの植物の本屋さん、草舟あんとす号にて、水彩画家のyukaneさんとふたり展を開催いたします。
出逢ったときからいつもわたしにとってとくべつな意味と象徴をもちつづけたyukaneさんの絵と、おなじように大切で重要な場所であるholy gardenの草舟あんとす号さんで展示の機会を設けていただけること、とても嬉しく、光栄なことだと思っています。
その絵と場所から着想し、新月と満月という双子の姉妹を軸として、holy gardenのみっつのお店、そして“泉”を舞台に、『月の片翅』という物語を編みました。
ほかにも今回の展示のためにyukaneさんが制作されたORACLECARDからつくったおみくじにも、言葉をしたためてお手紙をつくっています。
詳細はまた後日あらためてお知らせいたしますが、ご予定に入れてくだされば嬉しいです。
よろしくお願いします。
♢片翅の泉 katahane no izumi♢
津木野由芽× yukane ふたり展
at 草舟あんとす号
3/14(土)- 3/22(日) 12:00-18:00
*水木休み
暗示
新月の日に。
「植物は大地からの手紙」――それぞれが詩の断片のような、7つ揃って"虹"となる大地の色をした焼き菓子を。
蝶の対の紋様がなんだか暗示的で、最後のひとつに残した。
「湧き水を汲み植物と響きあう歓び」とご紹介にあったuquwaltzさんのBiscuit Bottle。
そういうつもりはなかったけれど、ならべた皿も青に薔薇が浮かんだ模様で、その蝶たちがまるで泉に浮かんでいるみたいだと、最後のひとつを眺めながら思った。
この蝶たちも、ゆたかな“泉”からやってきてくれたのだろうか、と思いつつ“隠秘植物園”の象徴に満ちた景色と時間を迎え入れるみたいに菓子を自分のなかに迎え入れながら、わたしは日常のなかに潜んだ暗示や象徴を見つけるのが好きなのだなと感じた。
ささやかでありながら、いつも深い予感に満ちているし、それを目にとめることで、その“予感”の方向に運んでくれる。
2026/01/18
桜と富士
日づけ変わって昨日、
あるひとにメッセージをお送りしたとき、そのひととのエネルギー的な通路がひらいて、そのひとのエネルギーが入ってくるのを感じ、それが聖なる星とつながる回路でもあったから、今日いたただいた返信への返信としてそのことをおつたえしたら、そのひとはちょうど海岸から富士山を眺めていたということで、その写真を送ってくれた。
わたしはおなじときに桜に想いを馳せ、3月の展示のための言葉をおろしていた。
とりかかる必要があると思いつつ、ここ数日いまひとつ気持ちがそちらの方向にむかなくて、いまではないのだなと置いてあったもの。
彼女に返信を記したあとで不意に“言葉”がやってきて、桜の花について綴り、綴り終えたとき、ほとんど同時に彼女から夕暮れの赤にそびえる富士の写真が届いていた。
それを認めると、部屋に飾ってある桜の絵、yukaneさんの『散華』を眺めながら富士と桜の結びつきにあらためて想いを馳せつつ、こんなふうによく起こるシンクロニシティのことを思った。
昨日、ようやくおおきなことをひとつ終えて、ほっとしている。いくつもあった扉のひとつで、前回は双子座の満月のときだったけれど、山羊座新月まえに終えることができてよかった。あともうひとつ。
今回の扉も最後はやっぱり桜で締めくくられたし、それはまたこれから予定していることの予祝でもあるのだろう、と。
桜と富士。
(yukane『散華』より)
2026/01/17
『隠秘植物園Ⅱ』tegamiya個展 at atelier utopiano
『隠秘植物園Ⅱ』tegamiya個展 at atelier utopiano
世界の秘密をそっと囁いてくれている、とtegamiyaさんの作品を目にすると、いつも思う。
植物が内包する懐の深い愛に通じる眼差しでさまざまな欠片を拾いあげ、どのようにちいさなものでも見落とすまいとする、おおらかさとあたたかさを感じるから。
だからこちらもおなじように、「見落とすまい」としなければ、作品の隅々にまで宿る暗示を見逃してしまう。
それでいて、「それでもいいよ」と笑いかけてもくれる。
目から入ったものは視覚をこえて、それがこぼしてしまったものをも含みながら養分となっているから、だから「それでいいよ」と。
自分では気づかない領域にまで“養分”を届けてくれる作品たち。やはりじかに拝見すると、それだけおおきくてあたたかい力を受けとることができました。
やってきてくれたお月さまは、硝子瓶の蓋をあけて手のひらにのせると、秘めごとを打ち明けるように、ちいさな喜びをあらわすように淡く発光した。
眺めていると球根みたいにも感じられ、持ち主をさだめるとそのひとと深く呼応して、そのひとだけの花を咲かせる"種"となるのかもしれないと思ったり。
おみくじでは隠秘植物園のスペードの園の守り人である「AER」が出てきてくれた。
“風”があらためて親しみをあらわしてくれて嬉しく、この絵の翡翠のような色あいは、長年自分のなかのひとつの主題の色でもあると。
ケシの実のかたちの真珠で閉じられ封におさめられた、5つのことづてとともにお迎え。
“植物園”でいただいてきた“虹”という名のBiscuit Bottleは新月の日にあけることに。
あの空間で目にした色や象徴、耳にした音、かわした言葉に想いを馳せながら、とくべつな月の日にとくべつな菓子を口にする、五感を研ぎ澄ませ響きあう時間を自分にあたえてあげたいなと。
19日の新月の日まで開いている神秘の“植物園”の扉。
その地図が、必要なかたがたに隈なくゆきわたりますように。
2026/01/16
糸のごときもの
holy gardenへ。
草舟あんとす号さんで贈り物のための書物を。
コトリ花店さんで春を夢みているようなちいさな球根をみっつ、スノウドロップ、アイリス、ヒヤシンスを。
conafeさんでしあわせを掬うスプーンのかたちと、口のなかでほろほろと溶けてゆくやさしい甘さの焼き菓子たちを。
お花屋さんで球根をお迎えしたとき、バーバラ・クーニーが挿絵の『エミリー』という絵本で、"雪とおなじまっ白なふく"を着た女の子がユリの球根を手にして"春をもってきてあげたの"という場面を想いだした。
スノウドロップもまた雪の花。
これもいつかこの“聖なる庭”の本屋さんでお迎えした書物の一冊。
そしてそのあと思いがけずそのまま“エミリー”の流れになって、ディキンスンの詩のなかにあらわされた“むらさき”の色をこの目で見る機会があった。
「貝紫」と呼ばれるむらさきがその色なのだと教えてくれたひとのおかげで。
球根に“エミリー”を感じたときからこの一日のなかでつながっていた“糸”のごときもの。
『日本の色 染司よしおか 吉岡更紗の仕事』 at 三鷹市美術ギャラリー
『日本の色 染司よしおか 吉岡更紗の仕事』にうかがってきました。
和紙でつくられた椿も、貝紫も、天女の羽衣みたいな植物染の薄絹も、源氏物語の女君たちの衣裳再現も、どれもとても印象的だった。
着物のかさねあわせについての説明で、“襲(かさね)”と“重ね”でそれぞれ表記がわけられており、おなじ“かさね”という言葉でなにが異なるのだろうと、一緒に展示を拝見した友人と話していた。
あとで調べたところによると、“襲(かさね)”は人生や四季の移ろい、“もののあはれ”に代表される消えてはあらわれ、あらわれては消える泡沫を衣裳で表現するときにもちいた言葉で、“重ね”は構造や、物理的な機能性のことをさすとのことで、それが精神的なものからくるのか、あるいは物質的なものからくるのかで、おなじ音を字によって使いわけたのだとか。
それはおそらく“色即是空”につながる美意識にもとづく“捉えられないもの”に宿る美を愛でた日本人の心のありかたなのだと感じた。
源氏物語の女君たちの再現された衣裳を眺めながら香りの話になり、幾重にも“かさね”あわせることで、複雑な層をもち角度や時間によって変化する美を視覚であらわすためにあったのが平安時代における装束なら、それを嗅覚であらわしたのが香であったのだと。
五感というものを研ぎ澄ませること、気配にしのばせることが“美”であることの、豊かさを想う。
会期まえからうかがいたいなと思っていたものの、自分のスケジュール的にどうなるかわからなかった展示、うかがえてよかったし、うかがってよかった。
2026/01/08
1月、ククリヒメ
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
みなさまにとりまして、そしてどなたさまにとりましても、佳い年になりますようお祈りしております。
今年は午年ということもあるのだと思いますが、前進する火のエネルギーの強さを感じています。
あらゆる場所、事象で引きつづき“生まれ変わり”がおこなわれるのだと感じますが、誕生や再生にともなう陰と陽の陰もまた目に見える現象としてはあらわれてくるでしょうし、「夜明けまえがいちばん暗い」という言葉の意味を感じられるかたも、なかにはいらっしゃるのかもしれません。
そのようなとき、自分がひとりぼっちであると感じるような孤立感、寂しさを、ときには理由もなく感じることもあります。
そういう気持ちがあっても大丈夫なのだと、自分を否定せず認めてあげてください。
すべては起こるべくして起こるのだということを、ここ数年皮膚感覚で理解するようになりましたが、年が明けてからとくに自分のなかのエネルギー的なデータのクリアと更新が速まっているのを感じ、それをもっと深いところから、おなかの底から(つまり心底)感じるようになりました。
すべては起こるべくして起こる。
ただそれを受けいれる器をおおきくするために、自分をクリアにしてゆくこと。
クリアになってゆくほどに、自分の奥深くに隠され封じられていたものとつながることができるのだということ。
“愛”というのもその場所にあること。
前置きが長くなりましたが、Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深めて、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしていますが、新年最初の女神はククリヒメです。
そのため今月はククリヒメとのつながりを深め、施術にもこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。
ククリヒメは白山におわす女神で、日本の神話において仲違いしたイザナギノミコトとイザナミノミコトの夫婦神を和解させた女神として知られています。
そのことから、この女神はご縁の配置をつかさどる女神でもあります。
“縁”というと人間関係のことと思われがちですが、この世のすべては“縁”からなっています。
仕事も住居も環境も、わたしたちは“縁”があってその場所にいて、魂の成長のための“経験”をします。
そしてそこから学んだもの、気づいたものを吸収し、バージョンアップすれば“配置替え”がおこなわれる。
なにごともその繰り返しです。
生涯深い絆で結ばれている縁もあれば、そのときどきの成長にあわせてあらわれる縁もあります。
それが“良縁”といわれるものでも、俗に“悪縁”といわれるものでも、理由があってそれはそれぞれの現実に配置されています。
そのすべての“縁”をククリヒメは“くくる”女神であり、すでに学びを終えた縁、もう手放す必要のある縁を切り、よりそのひとのためになる縁と結びつけるのをサポートしてくれます。
また“和合”をつかさどるこの女神は、それぞれのなかの“統合”も手助けしてくれます。
そのひとにとって真に素晴らしい縁を人生に招くため、それを充分に受けとるためには、そのひと自身の内部が“統合”されている必要がある、自分が自分と“和解”している必要がある、そしてそのように内側にあるものが外側にあらわれるのだと、それを教えてくれる女神でもあります。
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余談ですが、最初に載せたククリヒメの絵は青木哥彦によって描かれたククリヒメのお姿をモノクロにしたものです。
彩色のあるものより、わたしは二色であらわされるこのお姿にククリヒメの本質と威厳を感じるため失礼で勝手なこととは存じながら、そちらの写真のほうをさきに掲載しました。
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【対面セッションを、土日祝日ご希望でご予定くださるかたへ】
土日祝日のスケジュールですが、現時点で確実にご予約お受けできます日は、17日(土)18日(日)24日(土)31日(土)となっております。
開始時間は基本的に13時以降からとなりますが、要相談でお受けできますのでお気軽にご相談くださいませ。
平日でありましたら、ご希望日を第3希望くらいまでお知らせくだされば枠を設けることが可能だと思います。こちらもお気軽にご連絡ください*(ご希望の曜日などひろくお知らせくださるほうが、枠をご用意しやすいと思います。)
遠隔セッションは夜でありましたら、ほかのご予約と重ならない場合にかぎり、なるべくご希望の日に添えるようにしております。日中ご希望の場合は要相談としておりますので、まずはご一報ください。
よろしくお願いいたします。
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1月、これからの予定
1月31日(土・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のククリヒメの一斉遠隔ヒーリング
【該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます】
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それではどなたさまもよきひと月をお過ごしになりますように。
あなたがいつもあなたでありますように。
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