2026/01/20
伊勢山皇大神宮
数日まえですが、横浜にうかがったおり、伊勢山皇大神宮にようやく参詣することが叶いました。
「ようやく」という言葉がついているのは、数年まえから幾度もお名前をお見かけする機会があり、幾度も意識に引っかかって、「呼んでいただいているのだな」ということはわかっていながらも、どうしても「まだ」と自分からストップがかかって、うかがえないでいたからでした。
駅からの坂道が大変だと聞いていたものの、子どものころに長く急な坂道を往復して学校に通っていたこと、家からどこにむかうにも坂があった場所に住んでいたわたしは坂が得意らしく、「坂をのぼる」というその行為が子ども時代に通じているためか懐かしい気持ちにすらなりながら辿りつきました。
社務所のお守りに桜のしるしを発見すると、ここ数年の一連の流れにいつもいてくれるその花がこうして思いがけずあらわれたことに、また「これでいいのだ」というサインを受けとりながら、そういえばここは「桜木町」だったと気づき、“桜”の地名からとられたシンボルをいただいているのだと思い至り。
「桜新町」の桜神宮もそう。
あの場所からも言葉では説明できないくらい、さまざまなご助力をいただき、いまに至ること。
そのようにして辿ると、神社自体は桜のシンボルはいただいていないけれども、聖蹟桜ヶ丘にある小野神社とも、とても深いご縁があり、去年の2月の雪と4月の桜の諏訪の旅は、この神社からはじまったことも想いだされて、おそらく伊勢山皇大神宮もまた“桜”を辿ってやってきた場所であるのだと、いまは気づかなくてもいつかはわかる領域で、この場所とも縁があってこの日ここにやってきたのだと、感じるものがありました。
“いつか”のわたしのために“いま”できることは、行きたい、行かなければと思ったところに足を運ぶこと。ひとまずはやってみること。
それがなにを意味しているのか、すぐにはわからなくても。
その繰り返しでようやく、ここまできた。