2024/09/29
ホワイトターラの一斉遠隔ヒーリングのご報告
今月、Luna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのホワイトターラの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回はかなり強く“浄化”というキイワードがきています。
ネガティヴなエネルギーを洗い流す、浄める。
心の奥深い場所で、
「わたしは“疎外”されている」
「わたしは“愛されない”」
「わたしの真価が“認められていない”」という燻ぶりの感情があるかもしれません。
苦しみの感情を受けいれる、認めるには、あるいは自分のなかの苦しみを生みだす原因、パターンを知るためには、「自身がなにを“拒絶”しているのか」に気づく必要があります。その“拒絶”がみずからの人生の障壁となり、苦しみを生みだしているからです。
わたしたちは多くの場合、「自分が“苦しい”」ということを認めず自身を麻痺させようとします。
そのようにして肉体が訴える声に心傾けずにいるとき、マインドは堂々巡りをはじめます。そのとき思考の領域は“過去”から換算した“いま”をつくりだし、それによって“未来”を予測しようとするでしょう。
今回受けとったメッセージに「“いま”を怖れずに進む」とあり、そのために必要としているクリアリング、ヒーリングがおこなわれたとありますが、同時に「子供時代に教えられたこと、信じたことが、“いま”のあなたにとっても適切かどうかを自分自身に問いかけてください」とつたえられています。
その“過去”が自分の“いま”をつくりだしているからです。
わたしたちの多くは、時間は過去から未来に流れていると思っています。
それは過去――現在――未来、という縦方向に進んでいる、というものの見方です。
過去のあなたの行動や選択、放ったエネルギーが“いま”をつくりだしている。それはたしかにそのとおりです。
しかし、“いま”のあなたの行動や選択、放つエネルギー、そして浄めや癒しが“過去”のあなたへ捧げることのできる花束になることがあります。その“過去”をどのように捉えるかで、あなたの“いま”は変わり、“いま”に変更が起こるから、“未来”もまた当初の予定から変化する。
その“過去”を捉える眼差しの変更は、自分自身を浄め、癒すことでおこなわれるもの、おとずれるものでもあります。
それが進むと、“未来”のあなたが“いま”のあなたにむける微笑みが深くなる。より温かく、慈しみとともにそのあなたは、“あなた”を見ている。
あなたの浄めと癒しが進むごとに、“過去”のあなたに“いま”のあなたがそう感じられるように。
“いま”の自分を浄め癒すこと、そして喜びや楽しみを受けとってゆくというのはつまり、“過去”のあなたに捧げる花束の花を大輪にしてゆくこと、“未来”のあなたがむける微笑みをおおきく深くしてゆくことなのです。
時間は「縦」に流れていると多くのひとたちは思っている。
けれども時間は「横」に広がっているともいえるのです。
あなたが“いま”のあなたのためにひとつ進めば、“過去”、そして“未来”のあなたもそれに応じて進む。
過去は変えられないと思っているひとたちがいる。
たしかに起きた出来事自体を変えることはできないかもしれない。でも、“いま”のあなたが変化するごとにそれに対する捉えかたが変わり、捉えかたが変わればあなたの“過去”も変わる。そしてそれによってどのような“未来”へ進むのかも変わってゆく。
そのために自身を浄化してゆくのは大切なことかもしれません。
みずからの“過去”によってつくられた習慣や思考のパターン、人間関係のパターン、悲しみや怒りによってつくられた怖れ、拒絶。
自分のためになっていない不要なエネルギーをクリアリングする。
今回のエネルギーヒーリングはそのような部分への作用があったとありました。
このたびもありがとうございました。
よい10月を!
あなたがいつもあなたでありますように。
*LOVE*
2024/09/26
初夏から秋まで① 氷川女體神社∞大宮氷川神社(前編)
初夏から(と、いうよりも去年の秋からずっと一貫してそういう流れではあったけれども)夏の終わりくらいまで、自分自身のことで片づける必要があるもの、長いあいだずっとつづいていたある段階におけるクライマックスというべきものがあって、それがかなりおおがかりであったので、その期間、とくにこの夏のことで深い影響があったものでアウトプットして記録として残せるものはそうしておこうと今月に入ってから感じ、人から見ればたぶんささやかなこと、でもわたしには重要で印象的な出来事であった、いくつかのことを順番に。
さかのぼれは5月のある夜、夢のなかで氷川女體神社にいたことがあった。
なぜそれがかの社だとわかったのかといえば、 氷川女體神社にお詣りされたことのあるかたならおそらくわかるであろう参道につづくあの石段をのぼったさきのおおきな鳥居が夢のなかにあらわれて、夢でその階段をのぼり、鳥居をくぐるとき、そのわたしは自身がいる場所を理解しているようだった。
夢のわたしはひとりではなく同伴者がいて、それがいつもセッションにいらしてくださるかたで、彼女と小高い山のような、古墳なのか、そのようなもののうえを一緒に登った。
実際の氷川女體神社にはそういうものはないはずで、しかしそれも意味のあることだったのだろうと思い、夢の同伴者だった彼女は以前から大宮のほうの氷川神社にも縁のあるかただと強く感じていたので、お逢いする機会(不思議なことでもあり自然な流れでもあるのだろうけれど、その夢をみた翌日にご予約をいただいた)があったときに「訪われるとよいのではないか」ということをおつたえした。
それでどうするかは相手次第。そのメッセージを受けとるのも流すのも自由だし、だからおつたえしたところでその件は終わりだろうと思っていた。
けれども日にちが経つごとに「なんだか自分も呼ばれているような気がする」という気持ちがおおきくなっていった。
「なんとなくそうしたほうがいい気がする」というのはいつも自身からの伝言であるし、その“なんとなく”に“なぜ”の理由をもとめようとすると途端に重くなる。
「なぜそうしたほうがいいのか」「それをしてどうなるのか」の説明をもとめ、思考を納得させたがるほどに重くなる。
「重くなる」とは「本来の自分ではいられない」ということ。
それを踏まえなくてもわたしの“なんとなく”は、「そうしたほうがいい気がする」を行動に移すまで訴えかけてくることが多く、そのときもそうだった。
このタイミングで友人と逢うことになり、そのひとが氷川女體神社からほど近い距離の場所に住んでいたので、これはもう完全にそうなのだなと思い、その日にふたたび夢でみたあの石段をのぼり、あの鳥居をくぐることに決めた。
それは折しも5月の満月の日だった。
“女體”とは女神のことであり、女神とはこの社のご祭神、須佐之男命の妃である稲田姫命のこと。
その名のとおり花びらをふくんだようなやさしい風が吹く場所で、 氷川女體神社をはじめて訪ったとき、左半身にあたたかいものが入ってくるのを感じたことをよく覚えている。春の太陽を抱きしめたらこのような感じがするのではないかと思うような、深い慈しみが感じられるエネルギー。それは稲田姫の息吹。
肉体の左半分は女性性をつかさどる領域。
そこに“聖なる女性性”の顕現である女神が入ってくるのを感じたいつかの記憶は、わたしにとってとても大切なものだった。
そしてその日とおなじように、5月の満月の日も柔らかな花びらみたいな息吹を全身に浴びることができ、なかなかその地から立ち去りがたく、できるならずっとそこに佇んで樹々の梢を仰いでいたいほどだった。
またきっと逢いにゆく。
ありがとう。
2024/09/25
レーズン
本筋とは関係のない、ある彼女との会話より(人魚が教えてくれた歌 2024.9.19/「レーズンが入ってる! 大丈夫?」)
彼女とはじめて出逢ったとき、なりゆきで「レーズンが嫌い」なこととそれにまつわるささやかなエピソードを話したら、それが思いのほか相手の心象に残ったらしく、その後顔をあわせるたびそのエピソードを持ち出して、初対面の第三者がいる場合などでも「“わたし”という人間はこういうひとだ」という紹介のように披露してくれる。
よほど気に入ったようだと感じ、あるとき「その話、好きね」とわたしがいうと、彼女も「好き」と頷いて笑っていた。
わたしは物心というものがつくまえのほんの子どものころから一貫してレーズンが嫌いなのだけど、それをいうといささか驚かれることもある。
シュトーレン、レーズンサンド、ラムレーズンのアイスクリーム。一見すると、レーズンの入ったそういったお菓子を好んで食べているように見えるらしい。
レーズンをはっきりと“嫌い”と認識したのは小学校に入るまえで、それが混ざったパンをいただいたときに口のなかにひろがる味も歯にあたる触感も、飲み下したときに自分のからだのなかに入ってゆくときの、なんともいえない詰まり、自由に呼吸ができない感じ、とにかく自身の全身でそれを拒絶していたことを覚えている。
そして幼いわたしはこの嫌悪感(という言葉を当時は知らなかっただろうから、おなかのあたりがむかむかする感じ、もやもやする気分、みたいな語彙でつかんでいたのかもしれない)はなんだろう? と思い、「これが“嫌い”という感情か」という理解に至った。
ということは、それが“嫌い”を認識した最初の場面ということで、それまでそういう気持ちになることはなかった、あったとしてもそこまで強烈には感じなかったということになる。
そのようにしてレーズンはわたしに、はじめて“嫌い”という気持ちを教えてくれたわけだけど、好きも嫌いもそれをとおして“わたし”という人間のかたちを知るためのものであり、それだけのこと。
幼子が自身の好悪を「これが“嫌い”という感情」と客観的にとらえて認識しようとしているところが彼女には興味深く面白く感じられるらしく、このエピソードが好きなようだ、と受けとっている。
わたしも現在のレーズンに対する気持ちはあの強烈な拒絶よりはだいぶ緩和して、「食べようと思えば、食べられないこともない」くらいにまで和解した。
できれば遭遇しないに越したことはないけれども。
2024/09/24
お菓子のジュエル
素敵なかたからいただいたお菓子の缶が幼いころに憧れた宝石箱みたいで、きれいなものをそのままそっとしまい込んでおきたいような気持ちから、しばらく封を解けなかった。
なかに納められていたのは、菫の花、そしてジュエルのようなクッキー。
よく見ると蓋にもその花の刻印が。
余談として。
よく新月や満月の節目のたびにカードを引くのだけど、このお菓子のジュエルをいただいたあとの月の満ち欠けのさいにあらわれてくれた1枚は「三色菫の媚薬」だった。
――“幸いのために使うと誓うなら 摘むことができるでしょう”
2024/09/23
あるローズマリーの記録
無花果のパフェについていたローズマリーを持ち帰り、ガラスの器で少量の水につけていたら根を出してくれたのが、去年の秋のはじめのこと。
いただいたときのまま金粉をまとって、このハーブに特有の深い浄めの香をすこやかに放ってくれていた子をちいさな鉢に植え替えた、秋の終わりの記憶。
それからずっと元気なままでいてくれて、もうすぐ1年。
だいぶ背丈も伸び、こまかく枝分かれする様子も見られるようになってきました。
そろそろ鉢のお引っ越しの時期かな。あとすこしだけ涼しくなってきたら。
大好きなローズマリー。
聖母マリアの薔薇。
2024/09/22
秋分
秋分の日に、菊花が浮かぶお茶を。
茉莉花と千日紅の香も、ほのかに淡く。
可憐なかたからいただき、秋分の夜に淹れようと決めていたもの。
“愛らしい乙女心”という名がついているのだそうです。
世界がおおきく切り替わるとき。
美しいものに触れ、心傾ける時間、安らぎとつながり、ほっとひと息つくひとときを大切に。
2024/09/21
“流れ”
石笛にやたらと心惹かれて手もとにやってきてもらったのはいつだっけ。
梓弓という言葉がいつまでも離れてゆかなくて、弓はわたしにとってとても重要な意味をもつものだし、と思いお迎えしたのは去年の秋だった。
今年は夏から思春期以来くらいに万葉和歌が再熱して、そのほか諸々の省略とともに、そんなふうにして抗いがたい一連の流れがある。
その流れは自分のなにかを“温故知新”しようとしているのかしら、などと感じたりしながら。
冬の終わりくらいから、琴(箏)が無性に気になって和箏を習うかも、の一歩手前までいったこともあった。
結局自身の覚悟がさだまらず、心の動きが“流れ”と真に共鳴しなかったので、保留中。
いまはそれでいいかな。
2024/09/19
人魚が教えてくれた歌
夏が盛りを迎えるまえの日、朝から曇天で、でも不思議と目的地に着くころには熟した白い果実のような太陽が陽をさした日、ある彼女と海へと繰り出し、岩場に腰かけながら教えてもらった歌を、この夏、折に触れてよく唄ってた。
名月の日も、月にむかってあの歌を唄った。十五夜はとくべつな日だから。
あの日、海と太陽にむかって唄ったとき、おひさまは白く発光した真珠みたいに輝き、それを中心として雲が薄紅色に染まり、それが花びらのようにひろがって、空に大輪の花が咲くのを見た。
チーズケーキ(「レーズンが入ってる! 大丈夫?」と彼女が目をまるくしていたことを想いだす)とボウルに入ったあたたかいカフェオレをいただいたあと、ふたたび日没の海で砂浜の砂が靴のなかに入るのに笑いあいながら、今度はその歌を月にむかって唄った。
水面に月あかりが反射するさまは、光る鱗のようだった。
そこにマーメイドでも潜んでいたのかもしれない。
彼女のことをはじめて逢ったときから人魚のようなひとだと思ってきたから、それは彼女の仲間だったのかもしれない。
人魚は月の一族。
十五夜に唄った歌は、その日の記憶とつながっている。
名月の日、お月見をしていたら、真夜中をとうに過ぎてしまった。
はじめは白い錠剤のようだった月が、次第に金色の光を帯びて、纏う空気に紗がかかり黄金の稲穂色に変化してゆくのがうつくしかった。
月にむかって唄うたび、薄く纏う布が剥がれ、本来の色に近づいてゆく光の黄金を見つめながら思ったことは、あの日太陽を眺めながら感じた気持ちとおなじものだった。
2024/09/17
光を言祝ぐ
「光を言祝ぐ」とはどういうことなのかを、ここのところずっと自分自身に問いかけている。
「少女は言語でしか世界と戦えない。それは護身用のナイフみたいに大切なものだ。たぶん、わたしにとっても。」という文章を、いつかどこかで綴ったことがあって、十年をひと昔とするならばそれくらい遡ることのできる、かつての自分の言葉として覚えている。
わたしにとっての“言葉”はいつも、いかにして「醜いものを美しいと錯覚させるか」ということが主題だった。
言葉はそのための、magicとしての装置だった。
自分の心にかなう美などこの現実にありはしない。現実にないものなら夢のなかでそれを築いてしまおう。贋金をつくるように、わたしの美意識で統御された夢の錬金術で、わたしの規律によってのみ呼吸する“うつつ”を、この世界の裏側に出現させるために。
つまりそれは、自分自身のための麻酔薬でもあった。
たとえば日本神話のなかで伊邪那美命は、みずからの死によって愛する伴侶との別離にあったが、のちに彼女の夫は恋しい妻を訪ねて黄泉までやってきた。
「あなたの知っているわたしの現身は腐敗してしまったから、わたしがいいというまで、そのわたしを見ないでください」と彼女は夫にいったけれども、しかし待たされているあいだに不安になった夫は、忠告を破って彼女の姿を見てしまう。
美しかった妻の、黄泉の醜を纏い変わり果てた姿に恐れおののき、その場から逃げ去ろうとした男に、いたく傷つき誇りを損なわれた彼女は、もう二度と“死”によってわかたれるよりまえに巻き戻ることはなかった。
姿も、関係も、あるべき場所も。――そう神話はつたえる。
この伊邪那美の悲しみの涙と冥府の匂いを清潔な水で浄めて、化粧を施し髪を梳いて、そのひとつひとつの行程ごとに幾度も、「あなたは美しいんだよ」と囁いてゆくようなこと。
わたしが言葉によってしたかったこと、しようとしてきたのはたぶんそういうものだった。
醜の悲しみによって開いた淵としての傷口を縫合してゆくようなこと。
けれども世界を拡げ、視野を拡げるうち、それはすなわち傷が癒え、痛みが溶けてゆくうちに、とおなじ意味だけれども、わたしは「現実にないものを創りだすための夢」としての“言葉”を、それまでよりも必要としなくなった。
自分自身のなかの穢された美とでもいうべきものを再生させるため、涙を結晶のように見せるためのmagicとして言葉を用いることを、よしとしなくなった。
伊邪那美ははじめから美しく、だからその“醜”の欠落を光によって埋めようとする必要もない。
そのような期間、時代がしばらく(かれこれ三年以上はそう)つづき、しかし今月に入って突然、なぜだかほんとうに唐突に、短歌をつくりたいと思うようになり(これまで一度たりともそうしたいと思ったことはなかったのに)、その気持ちのままに言葉をならべたいくつかを見れば、やはりわたしの長年の習癖というのか、「醜を美に」の価値観が残っていて、苦笑を誘われた。
こうではない、と思った、少なくとも“いま”は違う。
そのとき、ふと自身のなかからあふれてきた歌が、“いま”のわたしにおそらくはとても近く、ここからならはじめられそうだ、と感じた。
先日載せたけれども、あらためて。
黄泉を光にしようすれば、それは黄泉を忌避することになる。影を無視した光は光ではなく、しかし黄泉を呼び出すためだけに、その名を唱えてはいけない。それに呑み込まれ呪縛されてしまう。
そういうものはわたしにとって“祈り”の形式ではなく、“祈り”から遠ざかった“言葉”は、“神聖さ”からも遠ざかる。
“神聖さ”から遠ざかった言葉は、それを用いた者を苦しめる。
はじめから“ひとつ”であるならば、そこに抵抗や対立は生まれない。
わたしは長いあいだ、自身の“石”を磨いてきた。それは同時に“花”を育ててきた、ということと同義語であると知っている。そしてつぎは、その石と花を融合してゆく(“ひとつ”にする)ときなのだろうと今年の初夏のあたりから感じていて、それは予感、といってもいいような、それを「知っている」という感覚で。
石長比売と木花之佐久夜毘売
ネフティスとイシス
ペルセポネとデメテル
エレシュキガルとイシュタル
黒闇天と吉祥天
神話では対となる女神が闇と光で表現される。
それはおなじひとりの女神の陰と陽の側面。
もとは“ひとつ”であったもの。
「“光”を言祝ぐ」とはどういうことなのか、ここのところずっと自分自身に問いかけてあらわれた、ひとまずの現時点における結論のようなものとして。
名月の夜に。
いつもなにかが浮かんでいる
トレヴィルの表紙を見て浮かんだ言葉。
眠る女は小野小町、黄泉の女は和泉式部。
〇思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
〇物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る
基本だけれど、やっぱりいいな、素敵だなと思う。大好きな歌。
2024/09/15
石は月、花は天つ日
花は太陽の、
石は月の光を浴びて育ってゆく。
花は死と再生の巡りの循環を、
石は不動に宿る永遠を教えている。
“石は月花は天つ日ひかりの器杯が満ちれば巡り揺るがず”
ここ数日、人生ではじめて短歌をつくって遊びはじめている。
先人たちのつくられたものを浴びるばかりで、自分で短歌をつくりたいと思ったことはなく、またつくれるとも思わないできたけれど、今月に入ってからほんとうに唐突に自身の言葉を歌にしたいという気持ちになり、それに従うことにした。
慣れない試みで、その出来すら俯瞰しえない現時点の眼差しとともに、昇ってゆくことを望んでいる。
音を掬うように、糸を紡ぐように。
2024/09/06
9月、ホワイトターラ
Luna Somniumの9月は、ホワイトターラとのつながりを深めています。
今月セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずホワイトターラのエネルギーが副次的にふくまれます。
7月のグリーンターラ、8月の観音、そして9月のホワイトターラ。このみっつの点を線で結ぶ、ということをこの夏はしたかったようでした。
以前の説明の繰り返しになりますが、ホワイトターラは観音の右目から生まれた女神です。
この世から苦しみは消えず、人々がおのれの背負った悲嘆からこぼす涙もなくならない。
そのことに観音がこぼされた涙の雫の、それぞれ右目と左目からホワイトターラとグリーンターラは生まれ、ホワイトターラは観音のなかの女性性を、グリーンターラは男性性をあらわすといわれています。
そのためグリーンターラは男性性がつかさどる“動”をあらわし、助けをもとめる声に素早く駆けつけられるよういつでも右脚をあげ、呼ばれればどのようなときでもその足を踏みだすことができるように準備している姿で描かれることが多く、“素早い救済”を示す彼女のパワーは観音のなかの“動”の力を具現化しています。
対してホワイトターラは女性性をつかさどる“静”をあらわし、この女神は両目のほかに額、両手、両足の裏に、あわせて7つの目をもっているとつたえられ、これは世のなかのあらゆる悲しみや苦しみをひとつも見逃すことのないように、という彼女の“見通す目”を示しています。坐して“すべてを知る”このパワーは、観音のなかの“静”の力の具現化です。
物事をなし遂げるときには行動力が必要であることを教えてくれるのがグリーンターラなら、おなじように洞察力、想像力、内省が大切なことをホワイトターラは教えてくれています。
そして「直感」も「直観」も、それが極まった力であると。
またホワイトターラは、純粋、成熟、慈愛といったキイワードによってもあらわすことのできる女神ですが、自分自身のなかに自分ではない低いエネルギー、すなわち不純物を多く摂り入れているときわたしたちの意識は混乱したり、堂々巡りをしてしまうため、それをとりのぞいてゆくこと(純粋)、高い意識の状態であること(成熟)、それには自他への愛をもった眼差しが不可欠であること(慈愛)、そしてそれらをみずからのなかに宿し、育むことこそが“見通す目”をもつための秘密であることを、教えてくれています。
ホワイトターラもグリーンターラも「恐怖、制限からの解放」への示唆をあたえてくれる女神ですが、それら“不純物”が自分自身のなかにあるとき、それがわたしたちの視野や行動の歪みになり、狭めてしまうからです。
“見通す目”で事実を捉え、どのように“行動”したらよいかをさだめる。
それは女性性で“受けとり”、男性性で“顕す”ということ。
二対のターラはどちらも、わたしたちがわたしたち自身であるために力を貸してくれる存在です。
*
*9月、これからの予定*
9月29日(日・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のホワイトターラの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもよい9月をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
登録:
投稿 (Atom)