2024/09/25
レーズン
本筋とは関係のない、ある彼女との会話より(人魚が教えてくれた歌 2024.9.19/「レーズンが入ってる! 大丈夫?」)
彼女とはじめて出逢ったとき、なりゆきで「レーズンが嫌い」なこととそれにまつわるささやかなエピソードを話したら、それが思いのほか相手の心象に残ったらしく、その後顔をあわせるたびそのエピソードを持ち出して、初対面の第三者がいる場合などでも「“わたし”という人間はこういうひとだ」という紹介のように披露してくれる。
よほど気に入ったようだと感じ、あるとき「その話、好きね」とわたしがいうと、彼女も「好き」と頷いて笑っていた。
わたしは物心というものがつくまえのほんの子どものころから一貫してレーズンが嫌いなのだけど、それをいうといささか驚かれることもある。
シュトーレン、レーズンサンド、ラムレーズンのアイスクリーム。一見すると、レーズンの入ったそういったお菓子を好んで食べているように見えるらしい。
レーズンをはっきりと“嫌い”と認識したのは小学校に入るまえで、それが混ざったパンをいただいたときに口のなかにひろがる味も歯にあたる触感も、飲み下したときに自分のからだのなかに入ってゆくときの、なんともいえない詰まり、自由に呼吸ができない感じ、とにかく自身の全身でそれを拒絶していたことを覚えている。
そして幼いわたしはこの嫌悪感(という言葉を当時は知らなかっただろうから、おなかのあたりがむかむかする感じ、もやもやする気分、みたいな語彙でつかんでいたのかもしれない)はなんだろう? と思い、「これが“嫌い”という感情か」という理解に至った。
ということは、それが“嫌い”を認識した最初の場面ということで、それまでそういう気持ちになることはなかった、あったとしてもそこまで強烈には感じなかったということになる。
そのようにしてレーズンはわたしに、はじめて“嫌い”という気持ちを教えてくれたわけだけど、好きも嫌いもそれをとおして“わたし”という人間のかたちを知るためのものであり、それだけのこと。
幼子が自身の好悪を「これが“嫌い”という感情」と客観的にとらえて認識しようとしているところが彼女には興味深く面白く感じられるらしく、このエピソードが好きなようだ、と受けとっている。
わたしも現在のレーズンに対する気持ちはあの強烈な拒絶よりはだいぶ緩和して、「食べようと思えば、食べられないこともない」くらいにまで和解した。
できれば遭遇しないに越したことはないけれども。