2024/12/13

透明な筒





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 “待つ”ということの祈り。


 自分のなかにそれが訪れるのを待つ。それがやってきたときに迎えられるように、自身のなかを空白にする。空けておく。


 “待つ”ことは焦りではない。焦りがあると、そこから遠ざかる。ただ、空けておく。


 もう数年まえのことだけど、ある詩人のかたの朗読会に参加したとき、彼女の声、言葉が彼女の自我をこえたところから発せられていると感じたことがあって、それを「透明な筒みたいだ」といったことがあるの。「透明な筒をとおして、あなたの声が発せられているように感じた」と。


 彼女が詩を書くとき、詩を読むとき、彼女は“透明な筒”になっているのだろうと。


 つまり、自分であって自分でない、自分でないところの源泉とつながっておろす、ということ。そのようにして地上に姿をあらわす。


 彼女はわたしがいいたいことを瞬時に察してくれて、「すごく嬉しい」と笑ってくれた。


 そしてそのようにとっさに口にしたわたし自身も、“言葉”というものをかたちとしてあらわすとき、そしてenergyとつながっておろすとき、それを(透明な筒になることを)意識し大切にしている自分を自分自身に再確認したことだった。


 それは“言葉”やenergyという領域にかぎったことではなく、「“それ”と“つながる”」ために自分を研ぎ澄まし、“透明な筒”になることを、作り手であるならばしているのだと思うし、それは人生だっておなじこと。わたしたちは誰しも、自分自身の人生の作り手。誰だってクリエイティヴな力を人生において使っている。


 でもそのことを誰もが意識しているわけじゃない。だからそれをどのように使っているか、はそれぞれに異なる。


 意識しているほうがより、自分と“つながる”ことを阻んでいるものを削ぎ落す、研ぎ澄ます、ということを自覚的にしてゆくとは思うけれども。


 自分のなかを“空ける”、自分のなかに空白をもつ。そしてどれだけ“待つ”ということの神聖さを自身のなかに招くことができるか。それには“焦り”を溶かす必要がある。焦りを溶かすには自分自身との対話がもとめられる。どこまでも彫りさげてゆくことを。


 そうして溶かしていったものが空白になる。その空白と、“透明な筒”をとおしてなにとつなげるか、といえば、それは源泉ともいえるし、真我ともいえるのかもしれない。


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An Ancient Pottery Bowl Filled With Fresh Violets.







 先日お迎えした白い星のすみれと、いつかの冬至の季節に草舟あんとす号さんでひらかれたtegamiyaさんの個展『闇と光のユール』できていただいたネクタルと名づけられた葡萄酒の杯をならべると、わたしの太陽のサビアンシンボルみたいになるなと感じて、なんとなくそのように飾っている。


 An Ancient Pottery Bowl Filled With Fresh Violets.――菫で満たされた古代の陶器。


 黒い杯の葡萄、白い星の菫。


 その陰陽の対比も、太陽というものを象徴しているように感じられて。


 やっぱりなんとなくで薔薇色のリボン(そしてそこに一輪の矢車菊)を結んでいたら、隣のお月さまと握手しているみたいに。


 ふと自分の誕生石がアメジストであることを思いだし、葡萄も菫もその石に通じているものがあるなと感じたりした。紫はわたしの色だとよくいわれるけれど(そしていつしかわたし自身もそのように思うようになったけれども)、なにか呼応しているものがあるのだろうか。





 葡萄酒の杯を迎えたとき、その作品に捧げられた言葉も一緒にいただいて、それを折に触れて想いだす。


 「遠く道を追い求める人よ 永遠の秘密 心にまつわる謎 愛の行方 解き明かす目覚めの味をどうぞ」




 アメジストはアルテミスにつかえた乙女の名を授けられた石で、彼女とディオニュソスにまつわる神話の顛末から、お酒の悪酔いを防いだり、また邪悪さから身を防ぐ石だとつたえられる。


 月といえばアルテミスが想起されるし、ギリシア神話であればなおさらそうだ。でも、葡萄と月がならんだ絵を見て、わたしがその月に感じたのはアリアドネだった。


 わたしが知るアリアドネは月と深く親密な結びつきをもつ女神のおひとりで、そして大好きな女神でもある(もちろんアルテミスも)。


 それに葡萄と月を見て想うのは、邪悪さの結界よりも愛の行方でありたい。


 けれども“VANITAS”というテーマのことを考えれば、もしかしたらあの月はアルテミスの月だったのかもしれない。それでもいいの、わたしが視てなにを感じ、なにを受けとったのかが、わたしにとってはもっとも大事なことだから。





 

2024/12/10

『三浦康太郎 個展 VANITAS』 at atelier utopiano






 『三浦康太郎 個展 VANITAS』 at atelier utopiano


 黄泉を象徴する柘榴からはばたく無数の蝶を目にしたときから、この展示へ訪うと決めていた。


 彼岸が“闇”とあらわされるなら、その果実のなかから飛翔している蝶は、ひとつの世界から脱皮してゆく暗示のようにも受けとれた。


 漆黒より生まれいづる変容の羽は、氷の花びらのような白。


 そのはばたきを軽やかな強さととるか、あえかな儚さととるか。




 入り口で迎えてくれた三浦さんの言葉にも、とても胸をうたれました。


 「一歩立ちどまり天を見あげ、空のキャンパスに星座を描いた先人たちのように心を豊かにし、流行や時代に流されるのではなく、いつも静かにそこにあるもの。どれだけ時間が流れても変わらないもの」


 太陽の花の黒、月の雫をあつめたような葡萄。


 個人的にはギリシアの神話を感じるものがあって、柘榴にペルセポネを、向日葵にアポロンを、月と葡萄にディオニュソスとアリアドネを想い、その重層的なひろがりに、三浦さんが綴られていた言葉が呼応することに気持ちを馳せていました。


 独立した画が水の底で溶けあって織りなしていた物語のまえで呼吸し、それを自分のなかに迎え入れることができて、嬉しかった。




 帰り道、日没のころに空にひろがっていた青が神秘的に美しくて、そこに浮かぶ上弦の半月が白い片翅みたいで、柘榴から飛びたつ蝶の羽のように感じられた。


 でも、この目で見たものの半分もつたえられない。