2023/07/30

いつか見た







シグナス







 そういえばすっかり忘れていたけれど、


 おととしのメイポールのとき、わたしが手にとったリボンに刺繍されていた星座は白鳥座だった。


 今年のはじめに思いがけず貸していただいた衣のことを、「天女の羽衣」と呼んだりした。


 それもたぶん、いつか見た夢のつづき。


 夢はいつもわたしの、イマジネーションの源泉。


 シグナスはサラスヴァティの星。あの星はスワンクイーンの故郷。


 そろそろわたしにも自身のための、自分のためだけの“羽衣”が必要なのだろうと、なんとなくで感じている。


 たとえば自分が王になりたいからといって誰かの“王冠”を強奪しても、みずからがその冠に見あう器でなければ“重さ”に圧し潰されて王位は失効される。冠はもともと自分のものではないから、それがもつ威光だけを横取りすることはできない。――聖なる泉で耳を傾けたそんな話を想いだす(そしてそれはわたしが、鏡や剣や勾玉にも感じていること。)


 自分自身の内側から生みだされる王冠と、“外”に具現されたそれが深くつながるとき、そのひとは真の“王位”を頂く。


 “羽衣”もおそらく、そういうもののひとつなのだと思う。





2023/07/29

羽衣




***




 夢。白い町の忘れられたような森で、天女の羽衣みたいな布を手に踊ってる女性。

 二十歳を過ぎて間もない年頃に見えるけれど、見かけどおりの年齢とはかぎらない。



 「あなたはこの町で、この場所でなにをしてるの」と問うと、彼女は「なにも。ただ風になってるの」といった。

 「あなたはなにをするために生まれたの」と問うと「おおきな嵐を呼ぶため」といった。

 「それではわたしはどうして生まれたの」とわたしがわたしのことを問いかけると、彼女はこちらに一瞥をあて、掌のひらをうえにして両手を差しだした。



 その掌のひらのうえに蓮の花が浮かんだ。

 クリスタルガラスみたいに透明な蓮の花。それが輝いて光の反射で虹色に光った。

 そして彼女はひとこと落ち着いた声で「わかってるでしょ」といった。




***


 いつか見た夢のこと。日付を確認すると2020年1月9日だった。


 聖なる泉の地でわたしと“外”との境界をつくってくれたベール。「このなかから選んで」とつたえられ、躊躇うことなく純白のそれを手にとったのは、それがわたしの目にはサラスヴァティの羽衣のように映ったからだった。


 サラスヴァティは白鳥と孔雀の女王。うつくしい鳥たちの、その羽根がこぼれる舞に彼女はいる。

 白鳥の白。その輝く羽ばたきを象徴するベールで、彼女は水の流れを呼ぶ。


 かの女神を感じる清らの色。それ以外、そのときのわたしの心にはなかった。けれどもあれから数日が過ぎたいま、不意に記憶から呼び起こされた、あのいつか見た夢のなかの“天女”とおなじ“羽衣”を、という無意識が働いたのかもしれない(――あれはサラスヴァティだったのだろうか)と感じたりもする。




 余談として。

 緑、青、紫の色が混ざりあった、まさに「孔雀色」としかいいようのない色のベールを手にし、大切に纏っていたひとにそういったら、「森のイメージだったの」という答えが返ってきた。森と白鳥と孔雀と泉と、そこに溶けあういつかの夢。





2023/07/27







 森の奥深くの澄んだ空気。


 境界としてさだめられた樹の柱の頂にあった蝉の抜け殻。


 それを見つめながら、「ここにも死と再生が」という誰かの声を聴いたこと。


 不意に黒い揚羽蝶がわたしの目のまえにやってきて、踊りはじめた。


 「インフィニティ」と誰かの声がすこし驚きをふくんで弾む。


 おおきく弧を描く祝福の舞。それを誰かがフィルムにおさめようとした瞬間、飛び去っていった蝶を視線で追いかけて見失う。


 「そういうことじゃないっていってる。あなただけに見てほしかったのね」


 記憶のなかにだけ残る風景。


 「わたし、インフィニティの指輪をしてるの」といって、左手のひとさし指を差しだしてみせる。


 この旅の数日まえに、どうしてもお迎えしなければと感じて衝動的にもとめたリング。おそらく旅にもっていきなさいということなのだろうと思ってそうしたこと。


 ∞Infinity∞


 このシンボルは、今回の旅のなんらかの象徴だったのかもしれない。


 あの黒い蝶はいまも、銀の指輪のなかにいてくれる。





2023/07/26

2023/07/21

ふりかえり(3)未来と鏡





 未来、誘導。


 リーディングは鏡。見つめるのは自分自身の心。


 真の予言者であるほどに、その予言は抽象的な言葉がならべられているのではないか。“誘導しない”ために、そして“守る”ために。


 それを紐解いて解を出すのは集合意識。ノストラダムスの大予言も「ひとびとが見たかった」ものでしかない。


 破壊を望んでいるはずなどないとそのひとびとはいうかもしれない。――でも、ほんとうに? 平安の末法思想のようなもの。


 そして再生のまえに破壊があることは、個人レベルでもおなじ。


 「封じられていたもの」を解くとき、それを「封じていたもの」を昇華する過程で破壊は起こる。いくつものそれを経験した。物理的にもエネルギーレベルでも。


 そのすべてが自分のプロテクションとなってゆくのだと。ようやく自分をプロテクションするとはどういうことなのかということを体感で知りはじめている。目に見える存在や目に視えない存在、おおくの力を借りながら。


 お部屋に好きなものだけをならべている。曼荼羅のように。それはわたしのための、そしてこの部屋を訪れてくれるひとたちのための護符となる。




 2022.6




ふりかえり(2)握りしめた手のひら





 闇を見るということは、そこに光が眠っていることを知らせてくれているということだから、自分を見つめることが自身の力にもなることを知っている。



 見つめることが力であることを知っている、


 けれどもそれを“外”にもとめるとき、光は外にあると思っていることがある。


 そのとき、自分にはないと思っている“外”にある光を模倣することがある。


 それはそのひと自身の光をそのひとみずからが退けている状態だから、ますます自分の光を信じられなくなるような、そういう状態になることがあって、でもそれも、そのひとが自分の中心に辿りつくために必要なことではあるのかもしれない、とも思う。


 力を“思い出す”ために必要な道であるのかもしれない、と。


 それでいながらそういう段階にある他者の“もたれる”エネルギーというか、そういうものにはよくよく注意する必要も感じてて、相手の期待する答えや態度じゃなくてもそれがとても大事なことだと。

 それをあげることがやさしさのように感じるひとたちには冷たさのように感じられることでも、相手のなかにある力を信じたり、それを信じているからこそ距離を保つことも大切なことだと。


 依存とやさしさを区別することは誰にとっても大事なこと。


 怖がらなくていいんだよ、でも、怖くたって大丈夫だよ、その固く握りしめた手のひらをゆるめたら、なにが起きるのだろうと怖いんだね、なにも起きないかもしれないと怖いんだね、その手をずっと閉じてきたのだもの。


 自分が“ずっとしてきたこと”からなにかを変えようとするとき怖さがある、それが自身のためにはならなかったものやことでさえ。


 それはあたりまえのことだから大丈夫だよ、その手をずっと閉じてきたことの、理由はあとからついてくる。だからそれをはなして(離して、放して)みても怖くないよ。でも、怖くてもいいんだよ、と心のなかで囁きかけるとき、わたしはかつての自分、“ちいさな女の子”にそれをつたえているんだと思う。



 それはかつてのわたしにむかって流れてゆく“ゆるし”でもあるのだと。



 2022.6




ふりかえり(1)知識と知





 ひさしぶりにこの場所に戻ってきたら、いくつも「非公開」のまま「下書き」で眠らせている言葉たちがあって、わたしもいまひとつの節目をこえてゆくときでもあるし、それを「ふりかえり」として残しておくことにしました。


 このいくつかの「ふりかえり」はすべて去年の2022年6月に記したもののようで、題名もそのときの自分がつけていたもの。





 知識があれば知を知ることができるわけではなくて、100の知識をもっていても、それを体現できなければいろいろとむつかしくなる。

 経験をともなってはじめて知は知になるものだと思うから、でも知識が0の状態からそこにいけるかというと、100の知識をもとめる執着とでもいうべき段階もある。


 それにしがみつきながら「わたしはすべてを知っている」「すべてを知っていたい、把握していたい」という驕りが雷でうたれて、過剰にまとった知識をすべて剥がされて「わたしはなにも知らなかった」の状態からすべての知識は自分の心の中心とつながっていれば不要だったという氣づきのあと、「わたしはすべてを知っている、だからすべてを知らない」みたいな状態に――そういう段階が必要なときある。



 だから貪欲に知識をもとめてすべてを把握したいと思っているひとたちに、その必要はなくてそれは反対に脳や心の毒になることがありますよ、といっても納得しないし、結局ひとは自分の心が腑に落ちなければ納得しないのだから、毒をもとめているときは毒を摂取して、それをつづけたらどうなるかということを本人が経験したいのだなと見守るしかないときもある。


 知識はもちろん大切なもの。外の知識をとおして自分の肯や否を感じとり、自分という人間を知ってゆく、わたしも。

 そのうえで自分のからだや心の反応を無視しているときは、自身のなかにいれる知識は選んであげるのが大事なこと。



 その取捨選択が。



 2022.6




音遊び









 音を奏でなさい、音を鳴らしなさい、音で遊びなさい。


 そんなmessageが、去年くらいから幾度も入ってくる。


 その“音”をわたしは“言葉”のこととして受けとっていた。


 「“言葉”をもちいてみずからを表現しなさい」ということなのだと。


 けれども、ほんとうに“音”のことをつたえてきていたのだ、ということを最近の流れで肉体が納得しているのを感じる。


 肉体が納得しているということは、心が納得しているということとおなじ。



 「土と響きあう感性で語らっておられるお姿が凛々しくもあり、また女神のようでもあり」とあるかたがいってくださったけれど、このかたはまた、わたしの声を「少年のよう」だと形容してくれて、そのように喩えられるのははじめてだったので、新鮮な驚きだった。


 その言葉と同時に白鹿をかたわらに、中性的で玲瓏な横顔、銀色と金色のはざまの長い髪をもつ少女(から出ていこうとしている。でも“女”ではない)かたのお姿がヴィジョンのなかに入ってきて、アルテミスかしら、などと感じながら。


 「目と声はどれだけ生まれ変わっても、おなじものを宿している」


 「弟橘媛の“おと”は“音”のことでもある」


 音遊びのなかでかわした会話は、どれもoracleのごときもの。






ガネーシャ





 あるかたとお話をしていて。



 「すべてがつながっているから、過去生の自分(たち)への癒しは、いまの自分の“内なる子ども”にも深く届くことを感じる」というそのかたの言葉から、インドの神さまであるガネーシャのことを思いだした。







 「ガネーシャがおなじようなことをつたえてきたことがあります。ガネーシャはシヴァ神とシャクティ(女神ドゥルガーのことでもある)の子どもで、女神ラクシュミーを養母とする象の頭をもつ神のこと。


 未来の子どもたちのために、未来世のために現在の自分を癒す。

 それは過去の子どもたちのため、過去生の自分を癒すことでもある、と。


 それがそれぞれの“内なる子ども”をダイヤモンドのひかりで満たしてゆく、ということで、そしてある地点において泉があふれだしたとき、閉じていたものが開いて、力となって還ってくる。


 ガネーシャは女神たちにつながる“扉”を護る、ウィズダムキーパーみたいな存在でもあり、どのような女神であれ女神とつながることは同時に、ガネーシャとつながることでもあるんです。


 それはかれが女神たちの守護者であるとともに、“内なる子ども”の守護者でもあるから」



7月のマグダラのマリア



 7月のマグダラのマリア





 明日はMary Magdalene――マグダラのマリアの祝祭日。

 その日、女神の森の奥深く、聖なる泉につながる扉を開きにゆく。


 それはおそらく偶然ではなくて、
 幾重にもかさなるその女神の面影に、
 “彼女”もきっといるのだと。