2026/09/09

“沈黙”










 夏の記録(Ⅲ)


 八幡山古墳。


 この古墳は2年まえに行田を訪れたさい、偶然目にした案内地図で知り、


 当初の予定にはなかったけれど「行きたい」と思い、その気持ちにしたがってむかった場所だった。


 「前室」「中室」「奥室」の3つの部屋がまっすぐ一列にならぶ構造全体において、巨岩が精巧に積みあげられ、組みあわされており、


 手がこんでいることがすぐにわかるその古墳の現存状態、迫力やおおきさに感動したのはもとより、


 石室の内部を自由に歩いて見学できる(開放は土日祝日のみ)ことに驚いて、


 同行していた古墳が大好きな父は、わたしよりその方面に詳しいこともあり、まったく予期せずあらわれたこの八幡山古墳に、当時いたく感動していたことを覚えている。


 (かれのなかでは、これをきっかけに古墳への情熱が過去最高に高まり、そののち奈良へ古墳巡りの旅に繰り出したほどだった)


 そしてそのとき父がいっていた言葉がいまも、褪せずに記憶に残っている。


 “聖なる”場所は天に宇宙を映しだすように設計されているという話。


 有名なキトラ古墳や高松塚古墳が円形にアーチを描いているのもそれをあらわすものであるし、


 文明において世界的にも、“聖なる”場所とされる建築物はそういう構造を内に外にもっている。


 つまり、天に星があり、太陽と月があり、“宇宙”とつながる場所としての聖域として、それらはあるのだと。


 この八幡山古墳にも、それを感じると。


 そんなことをいう父の顔を、思わずまじまじと眺めてしまったこと。


 それは父の言葉というよりも、かれをとおして渡されたメッセージのように感じられた。


 そして“天井”に宇宙や星々を仰ぐことのできる、いくつもの“聖なる”建造物のことに想いを馳せた。


 「死」とともに還る場所。


 「生まれる」まえに存在する場所。


 それを“想いだす”ための装置。


 こんなことを書きながら、先日あるかたから「わたしたちはみんな、この命を終えたらどこにいくのだと思いますか?」と訊ねられ、それについて思うこと、浮かんでくることを答えたのだけれど、そのことを思い出したりもする。


 石室のなかの“暗闇”は、沈黙に満ちていた。


 あるひとはそれを「ボイド」といい、あるひとはそれを「コズミック・ウーム」と呼ぶのだろう。


 またここに来ることができてよかった。


 “沈黙”への帰還。