2026/04/04

東国三社








 とくべつな満月の日。


 東国の三社巡礼。





 ずっとうかがいたかった香取神宮ー鹿島神宮ではあるけれど、なぜだかそれが叶わないということがつづいて、去年の終わりに起きたことをとおして、「いまじゃないんだな」と受けとっていた。


 これまでの扉を閉じるようにして辿りついた3月、長いあいだかけて準備してきた個人的な通過儀礼であり祝祭でもあった『片翅の泉』という展示を終えたとき、つぎの満月にあたらしい扉が開かれることを感じた。


 そして「行こう」と思ったときは行けなかったその場所に、いとも簡単に向かっていた。





 ただし、かならず「三社」でなければいけないとつたえられていた。


 香取神宮ー鹿島神宮のラインに加えて、息栖神社にかならずうかがうこと、と。


 香取神宮の「か」は「禍」のことをあらわし、「“禍”をとる」という意味。


 鹿島神宮はおなじように「か(禍)」にまつわるものを断ち切る助力をしてくれる場所。


 二社は対となっているため、1日でどちらも巡るのが望ましいが、それはあまりにも強い浄化をもたらすということでもあると。


 どのようなひとのなかにも「か(禍)」の種、場合によっては深い根があるものではあれど、それを断ち切るとき、現実においてはネガティヴな現象としてそれが立ち現れることがある。


 それは大難を小難にの「小難」としてあらわれるものでもあり、自分のなかにあったものを見せてくれているだけなのだけど、「か(禍)をとる」とはそういうことでもあるから、二社だけでなく、息栖神社も巡ること、香取と鹿島だけでなく、昔のひとのように東国三社をまわること、と。


 それによって「か(禍)」の浄めの強さは中和されるから、と。





 そのとおりであることを、翌日の今日深く感じている。自分にとっても重要な場所を巡ってきたのだと。


 おかげさまで、また素晴らしい旅ができた。


 予定外に最後の場所として「物忌」にまつわる鹿島神宮跡地にお寄りすることができたのも、とても意味のあることだった。





 そこから帰るとき、夕日がおおきく黄金色に輝いていて、空は薄紅に染まっていた。


 言葉ではいいあわらすことのできない、あまりにもおおきな祝福に、思わず両手でその光を受けとるように、太陽にむかって差し出した。


 考えるよりまえに、自然とそうせずにはいられなかった。


 てのひらのうえに、まるい金色のひかり。


 まるで満月みたいな太陽。


夕暮れと夜のあわいで太陽と月がひとつになって、太陽だったものが夜の訪れとともに月になるみたいな、もとはひとつのものだったような、そんなふうにすら思った。


 その時機が訪れたら行けるようになる場所というものがあって、わたしの段階にあわせて、その場所への道は拓ける。


 そういうことがあることを経験で知っていて、この巡りはいまだったのだと、そしてこの満月がもっともふさわしいときだったのだと、心から思いながら帰路についた。





 また逢えたね*