2025/09/30
“Maria”
聖テレーズ合唱団の「小さな演奏会」
聖母生誕祭があった月の静かな夜に、澄んだ調べの“Maria”
目を閉じて音のいざないに身をまかせ、意識を手放す。
“祈り”がどれだけ自分というものを超えたおおきなものとの繋がりを感じられるか、そのための空間を自身に迎えられるか、なのだとしたら、その“空間”のありかをいつも、教えてくれる場所。
今月はやはり、はじまりからおわりまで、ほんとうに聖母マリアの月だった。
と、いうよりもここ数年の一貫した主題として、ずっと聖母マリアはいてくれている。
ずっとずっとまえからそうであったけれど、わたしがそれに“気づいた”のが近年のことだというだけのことだともいえる。
今月だけでもそのシンクロニシティに、自分でも驚いてしまうくらいに。
聖母生誕祭、イグナチオ教会であったこと、マリア地蔵さま、青い贈り物、マリアさまのお庭、Ave Maria、言葉にできない数々のもの……
すべてへの感謝とともに、この祝福を10月にも渡してゆく。
聖母マリアの一斉遠隔ヒーリングのご報告
9月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへの聖母マリアの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
敏感な反応、神経の鋭敏さ。外部のものを自分自身の“重さ”として吸収しているもの。
今回はそのあたりへのクリーニングがなされていたようでした。
そしてそのうえで、敏感や繊細であるということは、けっして悪いことではないのだということをお心にとめておいてほしいです。
わたしたちの浄化が進み、自分との繋がりが深まれば、おのずと神経もまた鋭敏になります。
それは大なり小なり“麻痺”していなければ、「この現実で生きていくことができない」という物の見方、眼差しの角度が、人生をとおして植えつけられる経験をくぐり抜けてきたひとたちにとって、無防備であることはある段階において“危険”と同義語でもあったからです。
純粋であることは無知であることと捉えられ、世のなかから見た価値観によってYESとされるものが“正解”であることに息苦しさを感じながらも、その息苦しささえ気づかなかった、気づいてはいけなかった。
そして気づいていたとしたら、「わたしのほうが“間違っている”のかもしれない」という思考の転換で、自分でも普段は意識しない心の奥の奥で、無意識に自分を責めつづけてきた。
だからこそ、世界に対して身構えてきた、防御してきた、そのような流れ。
しかし知性をもちながら純粋であることは可能ですし、それは矛盾していません。
鋭敏であることを“防御”によって守ってきたことがあるならば、そこで目にしてきたものはどのようなものでも、あなたの“知性”の種です。
その目に映してきたものが、怖れに紐づくものであっても、愛に基づくものであっても、すべての経験は“種”であり、そこから学んだもの、学ぶべきものがあります。
それをどのように“解釈”するか、というところに人間性の成熟はあります。
だから自分自身の浄め、癒しが進むごとに、その“解釈”は変化していきます。
そしてそのようにして、みずからのなかに多様な眼差しがもてるようになるとき、“種”であったものはわたしたち自身の“創造”するものも変化させ、現実にもそれが反映されてゆきます。
「自分の現実はそれぞれ、わたしたち自身が創りだしている」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
それは「あなたの“種”はいま、どのような状態か」「あなたはこれまでの“経験”をどのように“解釈”しているか」ということと如実に結びついています。
すべてはその“種”から生みだされているからです。
わたしたちの浄めが癒しが進むごとに、これまで気づかなかったことに気づいたり、鋭敏さを取り戻してゆくのは、これまでならば「それが自分に思わしくない影響をあたえている」ということにも気づかなかった不要なものやエネルギーを摂り入れないようにするためでもあります。
その“経験”はもう充分だ、という合図でもあります。
不要になっているエネルギーをクリアにし、自分のためにはならない悪習慣や思考などにもアプローチがあったとあります。
今回は以上のような領域に作用があったとのことでした。
このたびもありがとうございました。
どなたさまもよき10月をお迎えください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2025/09/28
黒猫
物語に出てくるような喫茶店に案内してもらった。
ランプの灯りが夜道のしるべみたいに淡い光を放つ、ほの昏い室内。
セシリアンブルーに染まった壁。
梯子がなければ手が届かないところに設けられた本棚の背表紙。
正体はカップに注がれた珈琲の底からあらわれた黒猫なのではないかと感じたご店主。
矢車菊と人魚
いつもやさしいひとたちが手渡してくれる花のひとつ、矢車菊。
この矢車菊の花びらが人魚の尾鰭みたいに見え、その尾がつどって円をつくり渦を生んで、それが花になったのではないかと、わたしはそんなことを考えてしまう。
その発想から以前、「矢車菊 人魚つどいて 渦を呼び」という句をつくって句会にもっていったことがあった。
おなじ句会で「燃ゆる血の 故郷はどこや 夏の星」という句をつくり、
これは友人になった小学生の男の子がゴッホの星月夜が好きだと聞いて、こういう子は地球を出身としながらも星にも故郷をもっていて、
そのかけらを芸術や物語にさがしているのだろうと思い、そこから連想を飛ばしてできたものだった。
けれども昨日、柔らかく笑うひとの微笑みに誘われて人魚の話をしているうちに、もしかしたらこれも矢車菊と連動した人魚の句だったのかもしれないと気づいた。
先生はこの句に“デラシネ”を感じるといっていた。
そしてアンデルセンの人魚姫は、漂流者が自身の“ほんとう”の居場所をさがしつづける話だから。
人魚姫が仰いだ空に星を見る場面があったはずだと想いだせるけれど、あれは明星だっただろうか。
解説なんて野暮なことだけれども、浮かんでは弾ける泡のようにかわした会話から、消えないで溢れてくるたくさんのものを、ほんの一部分だけでも言語化しておきたかったので。
泡のように弾けても消えていかない会話のなかで、「おなじものを目にしても、それを見るひとによって捉えかたは異なる。視線の角度が違う」という話をして、俳句という表現方法は「世界がわたしにはこう見える」のだと顕すのに、とても適しているように感じる。
十七音。
その簡潔さと奥深さがいい。
だってほら、あたたかなひとが手渡してくれた矢車菊の青と一緒に忍ばせられたキャンディにも、人魚の尾鰭を発見することができる。
そして彼女の美意識は、意識的にしろ無意識にしろ、そんなふうに本来は別々であるはずのものを視えない糸でつなげて、現実のなかで美しい織物を編みあげているに違いないだろうし、わたしもわたしなりの方法で、その“織物”を紡ぎたいと思うから。
包みを開けるとあらわれた貝殻みたいなキャンディは、人魚が海のなかで呼吸すれば口のなかにこんな味がひろがるのかもしれない清涼感があり、それが溶けかけたとき“貝殻”のなかに封じられていた甘いミルクがこぼれた。
なんとなくミルキーウェイを連想した。
『oratio † 祈り』展 at silent_music
『oratio † 祈り』展 at silent_music
閉じられた瞼の奥にひろがる空間。
聖なる書に添えられた手の、静謐でありながら豊かな表情。
目に宿る光。
古い記憶を呼び覚ますように整然とならべられた文字。
昼と夜のあわいに一瞬だけあらわれる青い時刻。
窓のむこうのマリア像が、すべてを見つめている。
その青は聖母マリアの青で、この音楽室でやさしさや親愛の気持ちとして、たびたび人から人へ渡ってゆく矢車菊の青でもあって、ある聖女の背景にその花が描かれていることを、密やかに、けれども隠しきれない華やいだ声で教えてくれるひとたちのそばで“祈り”に触れるひとときに、心から安らぎを覚えた。
2025/09/09
2025/09/08
9月、聖母マリア
Luna Somniumの9月の女神は聖母マリアです。
Luna Somniumでは毎月、その月にとくに必要なエネルギーを宿す女神を許可を得ておひとりさだめ、その「月の女神」とし、つながりを深め、セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにもすべて、対面、遠隔問わずその女神のエネルギーが副次的にふくまれる、ということをしています。
この9月は聖母マリアとのつながりを深め、施術にもこの女神のエネルギーが副次的にふくまれます。
聖母マリアは文字どおり“聖なる母”をあらわす存在ですが、だからこそわたしたちがわたしたち自身であることを受けいれ、見まもり、それぞれが自分自身の道を歩いてゆくための光を灯してくれる存在でもあります。
彼女は「人と違うこと」を怖れ、本来の自分自身の光をちいさくしている痛みや悲しみに働きかけてくれる存在でもあり、過去からのタイムラインをあたらしくシフトしてくれる役割も担っています。
水と共鳴する彼女のエネルギーは、“水”というものが太古の昔からそうであるように、わたしたちの内にある苦しみを安らぎに変換することも助けてくれ、また、教えてくれます。
また、聖母マリアのことは過去にも綴っている言葉に詳細がありますので、ぜひそちらもお読みいただければと思います。
この9月は“水”の底でゆっくりとすこしずつ、けれどもたしかに流れを調えてゆくときであり、それには自分のペースというものがあること、そのペースを大切にしてあげることを意識してあげるのがいいときであると感じます。
「自分の魂が喜ぶことはなにか」「それは自身の魂が喜ぶことか」ということを、あなた自身に問いかけてあげながらお過ごしになられてみてください。
ボッティチェリ『書物の聖母』
*
余談ですが、今日9月8日は聖母マリアの生誕日であるとされています。
そして今日は魚座の満月の日でもあります。
魚座とは古来よりイエス・キリスト的なものの象徴とされてきました。
(魚座は境界線というものを消失させ、“溶けあう”星座であり、その星座がもつ力が高められたかたち、成熟したかたちが「わたしはあなた」「あなたはわたし」というワンネスの意識や無条件の愛へとつながり、それがキリストの体現する“愛”ともつながるからです。)
魚座のシンボルである二匹の魚はマリアとキリストであるともいわれていますが、その魚座満月の日に聖母の生誕日が重なることを意味深く感じています。
*
9月、これからの予定
9月29日(月・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の聖母マリアの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもよき9月をお過ごしになりますように。
あなたがいつもあなたでありますように。
2025/09/02
2025/09/01
アテナの一斉遠隔ヒーリングのご報告
8月にLuna Somniumのセッションをお受けになられたかたへのアテナの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回は“ボイド”“ファミリーヒーリング”“コミュニケーション(独立)”というキイワードがつたえられました。
まず“ボイド”というのは「空白」をあらわします。西洋占星術において、星々のパワーとのつながりが一時的に断たれる時間を“ボイドタイム”ということがありますが、その“ボイド”です。
光(星の力)のおよばない闇(無)のなかで、行動ではなくリセットや休息を必要とする時間のこと。自分自身を無(ゼロ)に還し、過去から成り立つ価値観や思考のなかですでに現在の自分にあわなくなっているものを手放す、抵抗するのをやめて“ボイド”に身をゆだねる。
“ボイド”はつぎなる可能性に動きだすまえに、休息して準備する。無(ゼロ)に戻し、空白のスペースをみずからのなかにつくる重要性を示しています。
“ファミリー”という言葉もあらわれており、「家族の歴史」のなかでさまざまに影響を受けているもの、繰り返しになりますが“過去”から紐づけられ“現在”にネガティヴな意味で力をおよぼしているものへの“ボイド”
そして“コミュニケーション”というキイワードのなかに(独立)という言葉がならぶのは、真のコミュニケーションは自分という“個人”が確立していてこそ可能である、というメッセージも入ってきます。
自分自身に“自由”をゆるしていなければ、他者との関わりにおいてもバランスを崩すことになります。それは相手の意見を聞き入れすぎたり、配慮しすぎて疲れてしまったり、反対に自身のなかのある意味での信念が強すぎて相手の言葉がまったく入ってこなかったり、相手が間違っていると断じて人との関係をとおして怒りを感じやすいというのも、どちらもコインの表裏で自分に“自由”をゆるしていないから生じる現象であったりします。
自分に“自由”をゆるしていないとき、誰かの“自由”もまた、ゆるすことはできない。
自分が自分であるということを“ゆるす”から、相手が相手であることを(自分とまったくおなじ人間ではないこと、自分とは異なる考えかたをし、自分とは違うものを好み、だから相手は「自分ではない」ということを)受けいれる(ゆるす)ことができる。
“独立”は、自分が自分であることをゆるし、相手が相手であることをゆるす、ということです。
それは“自由”をゆるすということであり、それがないところに争いはあるのだとアテナはつたえます。
そしてこの“ボイド”“ファミリーヒーリング”“コミュニケーション”“独立”は、それぞれ関係をもたない単独のもののように見えながら、すべてがつながっています。
すべてのことが“つながっている”
今回は以上のような領域に作用があったとのことでした。
このたびもありがとうございました。
どなたさまもよき9月をお迎えください。
いつもあなたがあなたでありますように。
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