2025/09/28
矢車菊と人魚
いつもやさしいひとたちが手渡してくれる花のひとつ、矢車菊。
この矢車菊の花びらが人魚の尾鰭みたいに見え、その尾がつどって円をつくり渦を生んで、それが花になったのではないかと、わたしはそんなことを考えてしまう。
その発想から以前、「矢車菊 人魚つどいて 渦を呼び」という句をつくって句会にもっていったことがあった。
おなじ句会で「燃ゆる血の 故郷はどこや 夏の星」という句をつくり、
これは友人になった小学生の男の子がゴッホの星月夜が好きだと聞いて、こういう子は地球を出身としながらも星にも故郷をもっていて、
そのかけらを芸術や物語にさがしているのだろうと思い、そこから連想を飛ばしてできたものだった。
けれども昨日、柔らかく笑うひとの微笑みに誘われて人魚の話をしているうちに、もしかしたらこれも矢車菊と連動した人魚の句だったのかもしれないと気づいた。
先生はこの句に“デラシネ”を感じるといっていた。
そしてアンデルセンの人魚姫は、漂流者が自身の“ほんとう”の居場所をさがしつづける話だから。
人魚姫が仰いだ空に星を見る場面があったはずだと想いだせるけれど、あれは明星だっただろうか。
解説なんて野暮なことだけれども、浮かんでは弾ける泡のようにかわした会話から、消えないで溢れてくるたくさんのものを、ほんの一部分だけでも言語化しておきたかったので。
泡のように弾けても消えていかない会話のなかで、「おなじものを目にしても、それを見るひとによって捉えかたは異なる。視線の角度が違う」という話をして、俳句という表現方法は「世界がわたしにはこう見える」のだと顕すのに、とても適しているように感じる。
十七音。
その簡潔さと奥深さがいい。
だってほら、あたたかなひとが手渡してくれた矢車菊の青と一緒に忍ばせられたキャンディにも、人魚の尾鰭を発見することができる。
そして彼女の美意識は、意識的にしろ無意識にしろ、そんなふうに本来は別々であるはずのものを視えない糸でつなげて、現実のなかで美しい織物を編みあげているに違いないだろうし、わたしもわたしなりの方法で、その“織物”を紡ぎたいと思うから。
包みを開けるとあらわれた貝殻みたいなキャンディは、人魚が海のなかで呼吸すれば口のなかにこんな味がひろがるのかもしれない清涼感があり、それが溶けかけたとき“貝殻”のなかに封じられていた甘いミルクがこぼれた。
なんとなくミルキーウェイを連想した。