2024/12/16

オディールの羽根をペルセポネに捧げる





 青い花冠、後刻。

 これも古い記憶の一部だけれど、確実に“いま”につながっているもの。そして青い花冠とこのオディールとペルセポネの花冠のことは、わたしのなかで連なる物語でもあるから。

 『葡萄酒色の花冠の、菫と柘榴』という題で2021年4月7日に綴った文章の再掲として。


 ✣


 春分の翌日に“オディールの花冠”をつくってもらうことを、植物たちに魔法の呪文を唱えて愛の円環をつくられる、わたしが“蝶の庭のあるじ”と呼ぶかたにかねてからお願いしていました。


 なぜ“オディール”なのかといえば、そのまえに2月の誕生日の贈り物として“オデットの花冠”をつくっていただく機会があり、白鳥の純白の翼を思わせるその祝福の花冠がかたちになるまえ、まだ想像のなかだけに存在する夢であったころから、その花冠に対応する“黒”があってほしいとわたしが感じたためです。


 オデットとオディールの“オディール”。



      ✣白鳥乙女より贈られたオデットの花冠✣



 けれどもひとつだけ、気がかりなことがありました。


 蝶の庭のあるじには去年の誕生日にもお願いして花冠をつくっていただいたのですが、そのときわたしがお頼みしたのは“青い花冠”でした。


 そしてそれからひとつの年輪が刻まれるとき、もしふたたび花冠をつくっていただくことがあるのなら、その色は赤、あるいは紫をしているのではないかと薄い靄のごとき予感をどこかで持っていたがために。


 「青に赤がまざってむらさきになる」——去年の“青”に、またあらたな色を溶かして、さらに異なる色へと昇華すること。青が懐かしい郷愁を感じさせる色なら、赤は燃える情熱の色で、どちらかだけではなく、そのどちらの花も心にもっていることが、愛を知っているということなのではないか、というようなことをいつか考えたことがあって、あの青い花冠に捧げるひとつの願い、ひとつの祈りのための“赤”、ふたつの花輪からなる“むらさき”を迎えたいような気持ちもあり、それが気がかりだったのです。


 でも、それよりもまず、いまは“黒”なのかもしれないと結局わたしが思いなおしたのは、去年の秋から冬にかけて“黒鳥”というキイワードを深く受けとる機会があり、白鳥を思わせる“オデットの花冠”がわたしのもとにやってきてくれるなら、黒鳥のオディールも存在しなければならず、それによって黒と白、陰と陽の円環を自分自身にあらわしてみたい。そのために黒い“オディールの花冠”がわたしには必要であるかもしれないと。



 さて、ここまでは本筋のための長い前置きです。


 わたしはそのように考え、オディールの花冠をと蝶の庭のあるじにお願いしたものの、なにか“見えない意志”みたいなものが動いて、予定は「予定どおり」にいかなかった。


 春分の日に蝶の庭のあるじが連絡をくれ、彼女がいうには「“オディールの花冠”のために取り寄せた花たちの色が、自分の思っていた色とは違う」とのことでした。自然界に“黒”のお花はなかなかなく、そのなかでも“黒”と思われる花を用意したのだけども、実際に確認したら黒というよりも紅のかかった紫、黒でありながら紅、みたいなお花たちだったの、というような彼女の説明を受けとりながら、わたしの頭のなかにひらめくものがありました。


 黒でありながら赤、という言葉が浮かんできたのです。


 ご想像と違うかもしれない、と蝶の庭のあるじはいったけれども、わたしは失望どころかむしろ、気がかりがひとつ晴れた気持ちとともに彼女にむかっていいました。


 「純粋な黒ではなく、赤味がかかった黒いお花。その“黒”はオデットの白に対応するオディールで、“赤”は去年の青い花冠に対応してくれているのよ。黒くて赤いお花。きっと、ひとつでふたつのお役目を果たしてくれる花冠なの」


 「青い花と赤い花の中間にあるむらさきは愛の色。その青のための赤。オデットのためのオディール。ふたつに呼応してくれてるの。わたし、その黒で赤のお花で編まれた花冠にきていただきたい」


 そんなふうにしてこの花冠はやってきてくれ、それは嵐の日でした。





 たくさんの雨とおおきな風のにおいを授けられて、わたしのもとにやってきてくれた花冠をひと目見るなり、「素敵! オディールの花冠で、ペルセポネの花冠みたい」と考えるよりもさきに、わたしの心が感じたことを口に出していました。


 「そうなの」と蝶の庭のあるじがいいます。「編んでいるうちにどんどんペルセポネに、オディールのなかの女神が顔をだしたような花冠になっていたの。あなたもそう感じたのね。リクエストと違うことは承知しながら、手が指が勝手に動いてそのように“つくらされた”。心に添わなかったらごめんなさい。こういったことははじめてだから、それにもなにか意味があるのだろうと感じ、あなたにお届けしたほうがいいのだろうと思ったの」





 わたしがなぜとっさに“ペルセポネ”と思ったのか、その女神の名が自分のなかから浮かんできたのかわからないけれど、わたしはこの花冠を心から好きだと思い、自分のためのものであることがわかりました。


 そして“ペルセポネ”という名から一冊の書物のことを連想し、花冠を傍らにそれを本棚から引っ張り出して眺めていました。それはその時、その瞬間、花冠を手にしたわたしにあたえられたひとつのOracleにも感じたものです。





 “ペルセポネ”という女神に、なぜか昔から親しみみたいなものを感じてきたけれど、自分のなかにあの春の乙女でありながら冥界の王妃でもある女神の要素を感じたことはなかった。でもその花冠がどこをとってもわたしのためのものであることがわかり、ひと目見るなりその女神の名を思い出して、その名をもつひとにわたしが思っている以上に自分が呼応していることを感じました。


 たとえば去年の夏だったと思うけれど、ちいさなルビーが3粒刻まれたアンティークの指輪が頭から離れず、お迎えしたことがありました。そして理由もわからないままに、その指輪がなにかの“お守り”になることを「感覚」としかいいようのないわたしの直感みたいなものが感じとり、いつも左手のひとさし指に嵌めていました。ただ「そうしたほうがいい」と感覚で思い、そういったことはこのことにかぎらずわたしにはよくあることだから、理由はわからないけれども、そうしていた。そのとき説明はできなくても、“意味”はあとから遅れてやってくることを、経験で知っているから。





 “ペルセポネ”の名に想いを馳せながら、いつもわたしの指におさめられていたその指輪に気づいたとき、「まるで3粒の柘榴のようだ」と、考えるよりもさきにわたしの心がいいました。


 ペルセポネは柘榴を食べたがために冥王ハデスの妃になった。


 「それはつまり“自由を奪われた”ということ」と、そんな言葉がわたしの心のなかでつづきました。


 ハデスによって地上から冥界に攫われたペルセポネは、地下の国の食べ物——柘榴を4粒口にしたがために、完全に地上に戻ることができなかった。


 ハデスは冥界の王でありながら、繊細でシャイでやさしいひとだとわたしは感じます。でも繊細でシャイでやさしいひとだからこそ、誰かに強く自分の心の磁力が惹かれたとき、強引に攫ったり食べ物で否をいわせないかたちで、つまりは支配とともに相手にそばにいてもらおうとした。かれのなかには生身の自分では愛されることはないと諦めが最初からあって、そのようなかたちではない方法で自身の心をあらわす術がわからなかったのかもしれない。


 ペルセポネのことをいうなら、彼女もハデスを想っていたような気が、わたしにはするのです。でも柘榴を食べたから逃れられなくなったというのは、その関係は“支配”からはじまっている。最初にゆがみから入った関係が愛へと結実するためにはどのような段階が必要なのだろうかと考えるとき、相手を想っても、相手は支配で自分を手もとに置いたことは、その“結実”のための傷となるのではないかと感じる。自由を奪われることでそばにいることは愛とは異なるなにかで、それは悲しみをふくんでいます。


 柘榴はペルセポネの血の色のよう。血は“生”のあかし。“死”の国の妃となった彼女が、そのために流した血。


 彼女が口にした柘榴の“4粒”。


 わたしが勝手に自分の“お守り”にしている指輪に刻まれた“柘榴”はみっつ。花冠を傍らにペルセポネからのOracleのごとき本を眺めながら、自分の手に嵌められた指輪を見たとき、そこにペルセポネが4粒の柘榴を口にするまえに「時をとめる」ためのまじないが施されているように、なぜだかわたしには感じられました。彼女が“自由”そのものであったころの時間で。その時間軸のなかで彼女が自分の“自由”な意志でハデスの花嫁となることを決めたとき、はじめて愛のための結実への道がひらかれる。


 これはわたしのいつもの想像の話、わたしが紡ぐ夢のお話。


 なにかの“歪み”をただすためのみっつの柘榴。意味の通じないことをいっているかもしれないけれど、わたしはわたしの感じたことをそのままここに綴っておきます。どうせいつも、想像と夢のさきに意味はあとからついてくるのだから。


 それを肯定してくれるように、花冠が届けられてはじめて頭上に載せるとき、持ちあげたそれから菫の花がみっつ微笑むみたいにこぼれたことだけわたしの記憶にとどめておけば、充分なのかもしれないとも思います。





 白と黒の陰陽をつくろうとして、青の記憶に溶けあうための柘榴のあかと葡萄酒色のむらさきを呼び出した花冠。オディールとペルセポネ。すべてが神秘的で、黄泉の妖しさと成熟した美しさを放っていました。


 まるで物語のように。





 これを綴った数年まえには思いも寄らないほど、“ペルセポネ”という名から出発したひとつの旅は、わたしのなかを深く浄め、癒し、そしてわたしを導いてくれた。


 先日展示で柘榴の絵を目にしたとき、そこから飛びたつ白い蝶を見たとき、その“旅”のひとつの重要なポイントに辿りついたような気がした。旅はまだつづくだろうけれど、「ここまできたのだ」と自分自身に確認するようなこと。


 それをわたしに教えてくれたこと、それを受けとり、受けとったものを信じて“柘榴”に逢いにいったわたし自身にも感謝を。


 先月からそういう流れのなかに入ったことを感じていて、「ああ、これでいいのだな」と思わせてくれた言語化できないさまざまを、大切に胸にしまいながら。


 不思議なことに、ルビーの指輪は展示におうかがいする直前から行方不明中です。


 そして自分にとって大事なアイテムが大事な節目に姿を隠したり壊れたり(割れたり)、といったことはわたしにはほんとうによくあって、そんなふうにしてなにかを教えてくれているようだ、ということ、それにも意味のあることなのだと、これを綴りながら感じつつ。





2024/12/15

青い花冠のこと





 いまとなっては過去生よりも遠い記憶であり、これを綴ったいつかのわたしはその記憶のなかに甘さと切なさをふくんで“見えないティアラ”のように完全に溶けていますが、自分自身を構築するひとつのピース、大切な意味をもつものとして残しておきます。

 双子座の満月の日に。

 2020年6月5日記。


 ✣





 “蝶の庭”の女主人にわたしのための花冠をつくっていただいたのは、今年の2月のお誕生日のこと。


 そしてその花冠に捧げられた“物語”を紡ぐためには、それよりさらにまえに時をさかのぼって、はじまりの5月のことから。


 おととしの5月、マリアさまのお庭を傍らに臨む中世の聖堂のような場所で、「Jardin éterne~永遠の庭~」という美術展がありました。「絵画のなかの花は枯れることなく、永遠に咲きつづけている。だから《Jardin éternel》――永遠の庭」という意味とともにひらかれた展示は、聖堂のごときその場所をあまたの“枯れることのない花”で満たしていました。


 わたしが訪れた日、おなじように“花々”を愛でるために足を運ばれた淑女と遭遇する機会がありました。


 その女性はやってくると軽やかに聖堂の扉をあけ、踊るような足どりでマリアさまのお庭を臨む聖堂のあるじであり、silent musicという名のそのギャラリーのオーナーであり、マリアさまのお庭のマリアさまでもあるかたにむかって歩をすすめ、微笑みながらなにかを差しだしたのでした。


 それはジャスミンと鳥の羽根からつくられた花冠で、その淑女がご自分で育てられたお花でつくられたものであるということでした。


 「すてきな花冠!」とわたしがいうと、聖堂のあるじはそれを頭上にかかげその冠をやさしく両手で支えながらクラシカルなドレスの裾とともにふわりと回転してみせたのでした。


 そのうつくしい瞬間は、“花の記憶”としてわたしのなかに花びらみたいに柔らかな光の種を植えつけました。


 そしてジャスミンと羽根からできたその花冠をつくられた淑女こそ、“蝶の庭”の女主人とわたしが冒頭に綴ったかたのこと。


 “永遠の庭”でお逢いしてからすこし時間が進んで、その年の夏。そのかたとお話する機会がありました。わたしが自分の知人や友人を相手に「そのひとが書物の登場人物だったらどの本の誰であるか考える」という遊びをしていたおり、声をかけてくださったのです。わたしはそのかた――“蝶の庭”の女主人をメリングの『妖精王の月』という本のフィンダファーに喩えさせていただきました。このような言葉を添えて。


 “黒い服を纏う美しき少女は麗しい男の問いにイエスと答え、まばたきひとつで変貌する境界線をこえて選ばれた。妖精王の花嫁。ただひとつの恋が頭上にかかげた花冠の輪のさきにある夢を、つかまえたいの。王がゆかれる。王にさかえあれ。”


 ここでわたしが“花冠”というキイワードを使ったのは、もちろん春と夏のはざまの季節に彼女が手にしていたジャスミンと羽根からつくられたその冠に感じた甘美さを、忘れられなかったからです。そしてそのときの彼女がわたしにはまるで森から出現した乙女のように見えたので、この妖精王の物語に喩えたのでした。


 そんなふうにして“蝶”をご自分のシンボルとするそのかたとの交流がはじまりました。


 そうしてしばらく時が過ぎ、最初の霊感が落ち着けば人間はさまざまなことを忘れてしまうものなので、わたしも日常とともにジャスミンと羽根の花冠のことは片隅に置き、そのまますこしずつ消えてゆくように見えました。


 ところがはじまりの5月からちょうどひとつの年輪を刻むことができるほど季節が円環を描いた去年の、やはり5月(日付を確認すると5月16日とのこと)の眠りのなかである夢をみたのです。そのことは手帖にこんなふうに綴られてありました。


 “今朝、青い花で花冠をつくる夢をみた。その花は誰かが崖にのぼってとってきてくれたもので、その花冠を頭上にかかげたひとは幸せになれる、というより自身の幸せを「想いだす」らしい。だから女の子に花冠をつくろうとするのだけど、大切なのはまず最初に自分の花冠をつくることだよ、といわれた。


 「青い花」といえばノヴァーリス…と目覚めたあとすぐに思った。夢のなかで出逢った青い花の精に焦がれて旅にでた詩人の話。幻の花に無限の憧れを見て、自分自身を目覚めさせる旅に出た男。露草、勿忘草、瑠璃唐草。青い花にはたしかに、不思議な懐かしさがある。”


 それからというもの、ふたたび“花冠”という言葉のなかに宿る観念がわたしのなかに棲みつきました。


 もともと子どものころから花冠というものがとても好きで、白詰草を編んで円環をつくった想い出は幼少期のもっとも幸福な時間だったといってもいいほどに甘やかさに満ちています。花冠の輪のむこうにはこの現実のさきにある夢がひろがっている気がして、その輪をとおせばいつもと変わらない風景があわい祈りをふくんだ特別な光景に見えるような。


 生きてゆくのにかならずしも必要なわけではないけれど、「ただ生きていればいい」というだけの人生は空虚だから、誰にでも“必要”なものではないかもしれないけれど、でもそれがあることで心が潤い豊かになるもの。花もお菓子も絵も本も音楽もそのようなもので、そういったものを“花冠のむこうの世界”などと、自分のなかだけで密かに呼んだりしているのですが、花冠という観念のなかにある美と儚さと微笑みがわたしにそのように感じさせるのだと思います。


 その青い花冠の夢のことは、夏を過ぎてもずっとわたしの頭のなかにありました。そして冬がはじまるころ“蝶の庭”の女主人と話していたとき、不意にいつかの5月のジャスミンと鳥の羽根の冠のことが記憶の奥底から呼び起こされたのでした。


 ジャスミンと羽根の花冠、森、妖精王の月、蝶、夢、青い花冠…。


 わたしのなかでパズルのピースがぴたりと嵌るように、あの夢のなかで出逢った青い花冠をこのかた――“蝶の庭”の女主人につくっていただきたいという気持ちがその瞬間、抑えきれない衝動のように湧き、そして自分のなかの火がうながすままにそうお願いすると、彼女は快く引き受けてくださった、というなりゆきをとおしてこのような会話をしたことを覚えています。


 「花冠にはふたつある」と彼女はいったものです。


 「ひとつはウェディングなどでつかわれる一般的な花冠。もうひとつがもっと深い意味あいをもつ、いってみれば守護と浄化のお守りとしての役割をもつ花冠。前者はつくるのにワイヤーを用いて生花を使うけれど、限りなく人口的。けれど水枯れしない処理を施すから長い時間きれいで、そのままドライにしてもおおきく形が崩れることはない。後者は北欧の夏至祭などで編まれるもので、自然の花や茎、葉、蔓などで編むから萎れやすいし、ドライにできても形は崩れてしまうかもしれない」


 「あなたのご希望はどちらの花冠?」


 その問いかけに、「もちろん後者のほう」という返事は考える間もなく瞬時にわたしから飛び出ていました。


 かたちが崩れたらそれにも意味のあることだと思うし、自然なままにつくってほしい。花はそのままで美しいのだから、と。


 そして花冠にこのような意味をもたせてほしい、ともお願いさせていただいたのでした。


 夢にでてきたのとおなじ青い花冠であること。


 その花冠をわたしだけの“見えないティアラ”にしてほしいこと。


 女のひとは誰もが“自分だけの見えないティアラ”を頭上に載せているのだとわたしは信じているのですが、でもそれは「見えない」のでそれが自身の頭のうえにあることを信じられないときもある。「“見えないティアラ”をわたしは戴冠しているのだ」と信じることのできる女性は、自身がどのように振る舞い、どのような姿勢でいればその“ティアラ”を輝かせることができるか、ということを知り、自分のことを大切に育んでいける。


 だからわたしはその“ティアラ”の重みを、わたしだけの花冠をとおして感じてみたかったのです。その願いは叶えられ、とくべつな花冠を特別な日に、ということでお誕生日につくっていただくことになり、それが今年の2月のことでした。


 「戴冠式ね」と“蝶の庭”の女主人はいいました。


 矢車菊、勿忘草、リューココリーネ、羽衣ジャスミン。


 “青い花”ということだけお願いして、どのようなお花で編んでほしいか、ということはこちらからは申しあげず、ただ「わたしにぴったりなものを」とお願いさせていただいた花冠に託された花たち。


 どの花も“愛”のメッセージをもつ花たちなのだというのは、“蝶の庭”の女主人の言葉です。


 それはわたしの頭にぴったりおさまり、「ああ、わたしのための花冠なんだ」と感じつつ、「この重さを忘れないように」とわたしはわたしにいいながら、こんなことを考えていました。


 誕生日に戴冠することができたこの花冠は、たしかにわたしの“見えないティアラ”となり、いまもわたし自身の一部となってくれているように感じます。






 ✣





2024/12/14

幸福の王子







 『幸福の王子』の鳥みたい、とひと目見た瞬間に思った。

 かわいい燕。鏡のうえにいてもらっている。