2024/08/30

観音について② 水のようであること







 観音のエネルギーとつながっているとき。


 彼女(観音は男でもあり女でもある、男でもなく女でもない中性のなかにある存在ですが、わたしに働きかけてくるとき女神の姿をしているために、観音をあらわす言葉にわたしは“彼女”を使います)がもっとも強く「つたえたい」と思っていることは、リラックスのことであるようです。


 「すべてのことを、ゆっくりと行いなさい」と彼女はいいます。


 食べることも、湯船につかることも、書物を読むことも、歩くことだって、ゆっくりと。


 慌ててやろう、急いで進もうとするとき生じる“焦り”は、自分を自分以外のものにしてしまうから。


 しかしそのようにいえばかならず、「だけど」という反論があるでしょう、とも。そして「わたしにはやることがたくさんあるのです」とその声はいうでしょう。


 「あれもしなければいけない、これもしなければいけない。生きてゆくためには“やらなければいけない”ことであふれているのに、どうしてゆっくりなんてできるでしょうか」


 そのような声には「話は逆なのだ」と返すことができる、と観音はつたえてくる。


 ――“わたしにはすることがたくさんあるから、いつでもリラックスのなかにあるのです”――


 ――“することがたくさんあるからこそ、あれもしなければこれもしなければと、「しなければ」で自分をいっぱいにして過ごしていたら、その「しなければ」と思っていることの半分もできず、次にはその「できなかった」ということに圧し潰されてゆくでしょう”――


 そのときそのひとを圧し潰すのは「焦り」


 すること、したいことがたくさんあるほどに、焦りを自分のなかから遠ざけておく必要がある。急ぐほどに焦りはおおきくなり、それで誰もが自分自身を責めはじめる。そのような状態にあるときそのひとは、「聖なるタイミング」からは外れているので、真の自分自身からも逸れている、といえます。


 真の自分自身から逸れている、ということは「聖なるフロー」のなかにもいない、ということになる。


 flow(フロー)――流れ。


 ――“こんなにたくさんのことをしているわたしを、なぜわたしが責めたり批判することなどできるでしょうか。

 わたしがわたしを責めたり批判したりして、自分に対する文句や不満でいっぱいにして自身に負荷をかけつづけることに時間を使うことを選ぶなら、わたしは「こんなにたくさん」のことをこなすことはできないのです”――


 不満や批判で負荷をかけたり、不安や迷いで堂々巡りしているとき、フローはとまっています。とまったものは、停滞して澱みます。


 そしてその停滞や澱みのなかには、「間違っている」という気持ちが隠されているかもしれません。


 もっといえば、自分を責めたり批判して自身に負荷をかけることも、不安や迷いで堂々巡りすることも、「間違っている」「間違いたくない」という思いが隠されてはいないでしょうか。すべての「焦り」の根本は、そこにあるとはいえませんか。


 「“ほんとうは”こうあるべきではないのに、この状況は“間違っている”。あるべきでないこの状態を、“正さないといけない”」


 だからその状況に感情や行動で逆らったり抵抗したりして、“流れ”とはさかさまの方向にいこうとしたり、“流れ”ているほうにいきたくないと必死で留まったりすることもある。


 そのようにして“流れ”を受けいれられないとき、抵抗したり留まったりすることに自分のエネルギーは使われているために、もちろんとても疲れてしまう。


 負荷をかけることも堂々巡りもおなじように、自分の人生から自分の貴重なエネルギーを吸いあげている状態をつくりだしていることがあります。


 観音のいう「リラックスのなかにある」ということは、起こったこと、起こっていることのすべては「正しい」ことであるのだということを受けいれてください、ということで、それがリラックスであるのだと彼女はつたえます。


 わたしたちはそれがなかなかできなくて、自分自身が思う“正しさ”に自分や他者や状況や物事、あらゆることを「“修正”するにはどうしたらいいか」ということに思考や時間を長く使いがちですが、それがエネルギーのフローに抵抗し、自分で自分をその状態に留めている、ということを起こしていたりします。


 それが必要なときもあるのでしょう。


 でも、すべてが「計画どおり」とはかぎらない、ということ。


 わたしたちが“正しさ”のなかに“修正”したいと思うとき、AのあとにBがあり、そのあとにCが、という順番に起こるから、AのあとにBにいかなければいけないと考えている。Bにむかわなければいけないのに、と考えつつぜんぜん異なるほうに運ばれている自分がいたら、Bに修正するためにはどうしたらいいかと考える。けれども「聖なるフロー」は、そのように目に見えてわかりやすくないことがほとんどです。


 わたしたちはいつも「自分が“正しい”場所にいる」という確認のために、計画しているように物事が運ばれることを好みます。


 でもこの計画とはわたしたちの頭のなかにあるものなので、「聖なるタイミング」とは異なることが多々ある。


 そしてそれが認められずに、自分が“正しい”と思うほうに自身を修正していこうとして、フローから離れてゆく。


 観音のつたえるリラックスとは、流れにまかせるということ。


 聖なる規律があるのだということ。あるべき物はあるべき場所におさまるのだということ。それを信頼するということ。それがフロー。


 ――“だからリラックスしてフローをすべてそのまま受けいれてください”――


 命の流れというものが、そのまま流れてゆくことを、ゆだねてまかせるのが、すべてのことのいちばんの近道なのだと。


 そのためにこそ、彼女はよくいいます。


 ――“すべてのことを、ゆっくりと行いなさい”――


 ――“なにをそんなに急ぐことがあるの?


 あなたがあなたの時間を味わうより、焦りに苛まれて疲弊することを上回る価値が、それにはあるというの?


 急いでいるということは、はやく成し遂げたいということ。


 疲労に全身がおおわれてしまったら、それは可能でしょうか?


 そのときは可能だったとしても、その状態をずっとつづけられるでしょうか?


 自分で自分を追いかけることに時間を費やしていたら、エネルギーはみるみると減ってゆく。


 そしてその磨り減ったエネルギーの状態が自分自身の真の状態なのだと錯覚し、自分に対する信頼も失ってゆきます。


 たくさんのことをしようとするなら、あなたの心も頭もからだも弛めて味わう時間をもたなければ、その半分もこなせない。


 だからゆっくりと、人生を味わいなさい。フローにまかせて、あなたのエネルギーを自由にしてあげなさい”―― 


 流れてゆく水のようであることを、彼女はいつでもわたしたちに教えてくれる、そのような存在です。



 余談ですが、いつかの夏にひと目見たときから観音の存在を感じてお迎えしたアメジストエレスチャルの写真を記事の冒頭に載せました。


 わたしにはこの石に育まれた紋様が、観音の遣いの白龍のように見えました。光の角度によって虹色に輝くので虹龍でもあるかもしれません。


 紫の衣をまとって微笑む、美しい女神を感じます。


 そして女神は笑いながらいう。


 ――“それでもなお、あなたが経験した出来事、置かれた状況が“ 「正しくない」と思うなら、自分自身に問いかけてみてください。”――


 ――“その出来事、そして状況は、あなたに「なにを教えてくれたのか」、「なにを教えてくれているのか」を。”――


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2022/2/5記 加筆修正