2024/08/29

観音について① 赦し







 夏はとても“境界線”が曖昧になりやすい季節であると思います。


 日本の夏のお盆の時期はとくに彼岸と此岸の境目が曖昧になり、その薄くなり溶けた空間の作用が、エネルギー的にも、ひいては肉体(体調)、精神面に良くも悪くも影響をあたえていることを毎年感じています。


 それはその期間の数日間だけでなく、それと前後する夏という季節全体にわたって関わってくるものでありますし、エネルギーや月齢などの影響を受けやすいかたはとくに自分自身を“護る”ことが大事な季節であるとも思っています。


 だからわたし自身の個人としても、夏という季節をとおして毎年、観音とのつながりを深める、ということが生じているのかもしれません。


 観音は男でもあり女でもある、女でもなく男でもない中性のなかにいる存在ですが、わたしは観音に「聖なる母」としての東洋の聖母の姿を視るので、「女神」と位置づけています。


 観音は慈悲、慈愛、平和というものをあらわしている存在で、魂のもつありとあらゆる負――苦しみ、痛み、悲しみ、といったものの解放をうながしてくれます。


 奥深くに埋め込まれた強い気持ち、それがたとえば恨みつらみだったり、怒りだったり自分でも認めたくない、直視したくないと感じているような感情を癒し、シフトしてゆくことも手助けしてくれます。


 魂がとても重いカルマ的(この“カルマ”という言葉をわたしはあまり好みませんが、そうとしかいいようのないものもこの世にはあり、それを身をもって体験していますし、また自分以外のひとのなかにもそのようなものを視ること、感じることもあります。それが過去生から持ちこしてきたものなら現世で解消してほしいと“かつて”のわたしが願い、家系から受け継がれてきたものなら、それをわたしの代で終わらせることを望んでいるがために、わたし自身の課題としてあらわれたそれなのだろうと思っています。)な荷物をもっているときに、観音という存在はとても深くおおきな力を発揮して、そこに平穏をもたらすようアプローチしてくれます。


 観音は世界中で助けをもとめる泣き声や叫び声を聞き、すべての悲嘆や苦しみといったものを感じて助けてくれる、いつも、いつでもそれをしてくれる慈悲の存在です。


 この女神は彼女のもつ紫のエネルギー、アメジストの色、ラベンダーの色であるそのエネルギーで炎を放ち、わたしたちをすべてのネガティヴティから護ってくれます。


 そしてわたしたちが自分自身の“赦し”とつながれるよう、うながしてくれます。


 以前に観音が「赦し」についてつたえてきたことがあり、それは自分の“外”に苛立ちや嫌悪感、自分自身のネガティヴな気持ちを掻き立てるひとがいるとして、そのときは「このひともわたしとおなじ人なのだ。このひともわたしとおなじようにベストをつくしているのだ」とみずからに呪文を唱えるように唱えてみなさいとのことでした。


 わたしがその事象、他者より上でも下でもなく「おなじ」であり、そしてそのひとのそのときできるベストをつくしている。


 わたしの目にはそうは見えなかったとしても、「いまこの瞬間に生きている」だけでも、それはそのひとがそのひとのベストをつくしているからなしえることなのだと。


 “ベスト”の上限はひとによって異なる。“受けとる器”がそうであるように。


 だから自分の上限を「ベストの最大限」であるのだと固定して、それから外れた他者が「ベストをつくしていない」とするのはちいさな自我がくだしているジャッジであること。


 また自分のベストを“外”からそのようにジャッジされたとしても、それは真実ではないこと。


 あらゆるジャッジは“赦し”の欠如により生まれるのかもしれません。


 「このひともわたしとおなじ人なのだ。このひともわたしとおなじようにベストをつくしているのだ」という言葉に抵抗や反感が生まれるなら、その裏側には「わたしはこんなに頑張っているのに、わたしと“おなじ”ように頑張っていない相手と“おなじ”だなんておかしい」という意識が働くからなのかもしれないから。


 (あるいは反対に自分自身に対してとても厳しいひとは、わたしはひとの倍頑張らなければ“おなじ”にはなれないのだから、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張りなさい、とみずからに鞭打ち、そうとは知らずに自身を虐めているということもあります。自身を“虐めている”から外の世界にも他者をとおして自分を苦しめる現象が起きたりすることもあるのですが、そのお話をはじめると長くなるので、今回は割愛。どちらにせよ、意識的無意識的に“赦し”をもとめているいうのはおなじことです。)


 そのようなときにあらわれる抵抗や反感は、ただ自分が自分に「とても頑張っている」「ベスト以上のベストをつくしている」ということを認められたかったから生じる感情なのかもしれない。


 わたしたちが“外”にむかって感じるどのような気持ちにもエネルギーはあります。抵抗や反感にも。


 それらのものにエネルギーを注いで自分を疲弊させてしまうよりも(自分にとってためにならないことで他者に使うよりも)、自分から放たれるどのようなものにもそのようにエネルギーが宿るなら、その力を自分のために使うこと。


 そのために“赦し”というのは、重要な大切なキイワードであると思います。


 “赦し”と自分を“護る”ことは、どこまでいってもつながっているものであることも。



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2023/8/13記 加筆修正