2024/05/31

聖母マリアの一斉遠隔ヒーリングのご報告





 今月、Luna somniumのセッションをお受けくださったかたへの聖母マリアの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。



 ・ハートとマインドをつなぐ

 ・ヴァイプレーションを高める

 ・エネルギーを安定させ、境界線をひく

 ・あらゆる人間関係は、わたしたちが“愛”を知るためのものであり、親子関係、パートナーシップ、友人関係、仕事仲間などすべてのひとのなかに自分は反射されています。その関係のなかにネガティヴなものを感じるなら、そこにある学びから自分自身の“影”を掬い取る必要があります。その“影”の部分へのヒーリング

 ・地球や世界もおおきな変化のときであり、わたしたちもその影響を受けています。わたしたち個人も変化するとき、それがおおきいほどにそのまえに浄化が起こることはご存じだと思います。この変化は継続的なものであり、体調面にも少なからず影響をもたらしているので、気づかないうちに吸収し蓄積しているそれらの浄め

 ・2ではなく、3。「どうしよう」と迷い、頭を悩ませているとき、わたしたちの視野は狭まり、考えれば「どうしよう」の答えが出ると思っています。しかし考えても答えは出ず、出たとしてもそれは思考の選択で、心からの答えではないことがままあります。“答え“をもとめている頭の不安はふくらんでゆく。「どうしよう」「どちらにしよう」ではなく、「どちらでもなくただそのままにしておく(流れるままにしておく)」という姿勢は自分に対する信頼がもとめられます。ただそのままにして“受けいれる”“委ねる”“観測”する。それが「どちらにしよう」の2ではなく、3。第3の道。その“3”のための自己信頼への回復

 ・「進む」力



 このような部分にアプローチがあったようです。


 たくさん書いてしまいましたが、なんとなくでお心にとめていただけましたら幸いです。


 エネルギーをお流ししているとき白百合が視えて、この花は聖母マリアの象徴ですが、同時に来月の女神である瀬織津姫を暗示する花でもあり、5月と6月の架け橋になってくれるようにも感じました。


 5月最後の日、よい一日をお過ごしください





2024/05/16

イシスの路









 もう先月のことになりますが、『イシスの路』という言舞劇を鑑賞してきました。


 数年まえからこの目で見てみたかったもので、機会があればかならず足を運んで自分自身の目、耳、皮膚感覚で感じてみたいと思っていた、女神イシスの永い魂の旅路を言葉と踊りで魅せる舞台。


 「わたしはイシス、そしてマリア」というせりふの冒頭から、インスピレーションにあふれるイメージの連続で、その“音”を紡ぐひとの衣の白と、長い髪に結ばれたリボンの青が、そのひとが舞う動きにあわせて意志をもって流れ立ち昇る、水であり火のようでした。


 「乙女? 母? 伴侶? ――イシス」


 「七つの頭をもつ赤い竜がイシス(そしてマリア)という筒をとおして生まれる天の幼子を生贄にする、だから」というふうに流れ、昇ってゆく旅路への合図。

 「砂漠の泉、渇ききった砂の道を歩いていると、天の滴を宿した泉に出逢った」

 「星の神殿。炎の海に沈む島、失われたはじまりの言葉。そして、失われたものを守りながら旅をつづける者たち」

 「橋立。かつてひとつだったものをつなぐ橋がかかる」というふうに降り注ぐ声を浴びているあいだ、わたしはずっと眠くて、おおきなものを自身のなかに招き入れるとき、いつも眠くなるのですが(自分自身の意識を“オフ”にすることがそういうときには大切なので)、それとおなじ状態のようでした。


 砂漠の泉、星の神殿、橋立。天の御柱を自分自身のなかに招き入れるようなこと。


 ずっと心から見てみたいと願っていた舞台で、わたしにはこの“場”を味わうことがとても必要なことだったのだと感じました。


 舞台を終えたあと、最後に挨拶にあらわれた“イシス”を舞われたはたりえさんが、「わたしはイシス」とこの舞台のはじまりの言葉を口にされたあと、翼をひろげるように両腕をひろげて会場全体の観客を指し示しながら「わたしはイシス」ともう一度言葉にされました。そしてその腕でご自分を抱きしめるようにされながら、すこし涙ぐみそうな感極まったお声で「それだけです」といって、退かれてゆきました。


 「わたしはイシス」でありながら、「あなたもイシス」であること。「誰もがイシス」であること。


 そういった意識が、今後の世界においてますます重要になってくること。


 それをさらに深く肌で感じるようになってきています。


 去年制作した私家本の自著、『天の花 地の星』ともかなり共通の主題をもっていることを感じて、そのこともほんとうに嬉しく思いました。


 わたしたちの中心にある“泉”――あれをひとつの祈祷書だといってくださったかたがた。自分のなかにある聖なる祈りとつながるためのものだといってくださったかた。わたしは自分の“姉妹たち”のお守りになるようにとあの本をつくったのでした。そしてあの本にかぎらず、わたしの書くものは昔から一貫して、わたし自身とわたしの“姉妹たち”のためのものです。


 (当然ですが、“姉妹”とは性別のことではありません。そしてあれは「ふたりのM」――聖母マリアとマグダラのマリアのことをわたしなりに綴ったものですが、“ふたりのマリア”と深い結びつきをもつイシスをその背後に感じていたことは、もちろんのことです)


 この言舞劇もまた、わたしにとってはひとつの「祈祷書」でした。


 このようにして自分の“お守り”になるものが自身のなかに増えてゆくたび、それとともに時を重ねてゆくたび、わたしたちは「まだ見ぬ自分」を想いだしてゆく。そしてそれは「自分が自分自身に還ってゆくこと」と同義語です。


 いまこのタイミングでこの“場”を訪れる機会があったことに、感謝を捧げて。





2024/05/14

女教皇についての覚え書き





 あるかたとタロット談議をする機会があったのですが、その場ではおさまりきらなかったものが言葉として浮かんでくるので、浮かんでくるものをイメージとしてつかもうと形に残して送りつけたものが我ながら面白かったので、ごく個人的なものは省略したり補足が必要そうな箇所は加筆修正したりしながらも、ほぼおなじものをここにも残しておきます。


 相も変わらずmaniacな話を、わたしとおなじように面白がってくださるかただけお読みになってくださればと思いつつ。





 ウェイト=スミス版のタロットの女教皇のことなのですが、わたしはこのカードにギリシア神話のペルセポネを感じるというお話をしました。それでいながらこのカードはイシスでもあると。


 でも、イシスであれば本来、頭に載せているのは牡牛のシンボルではなく玉座であるはずで、牡牛をシンボルとする女神はハトホルです。


 エジプトにおいて時代が下るごとにイシスとハトホルは融合され、現在ではイシスの頭にあのシンボルがあることもめずらしくありません。


 なぜあのシンボルがハトホルからイシスに移動したのかについて、わたしはあのシンボルはトリプルゴッデスのシンボルにも見えるからなのではないかと感じたことがありました。


 上弦の月、満月、下弦の月で、乙女(インナーメイデン)、母(マザー)、老賢母(ワイズウーマン)をあらわすトリプルゴッデス。


 女教皇は背後にある二本の柱を統合して次なる数字である3にむかうカードで、3のまえの2をあらわすカードでもあります。


 またこのカードは「目には視えないものを読みとる」「現実にはあらわれていないもの(地下)にあるものを視る」という意味での巫女を示してもいますが、イシスはオシリスの伴侶であり、オシリスは冥界の王です。またペルセポネも冥王ハデスの妻でもあります。


 冥界=黄泉は、地下にあるもの、目には視えないもの、現実にはあらわれていないもの、彼岸であり、その王たるものの伴侶である彼女たちは、その力に認められている存在であるともいえるのだと思います。


 だからわたしは彼女たちに共通するもの、女教皇の姿を感じているところがあり、またペルセポネの神話のなかにトリプルゴッデスも感じて(彼女のもともとの名は“乙女”の意味をもつコレー、母であり一心同体であり陽としての自分であるデメテル、そして“地下”の女王になったときの名がペルセポネ)、2を統合して3になる女教皇に、そしてつぎなる数字である3の女帝に、たくさんの陰と陽の女神たちを見ることがあるんです。


 それはそこにあらゆる女性のなかのトリプルゴッデスを感じているといえるのかもしれません。


 また、本来の牡牛の女神であるハトホルはそのまま牡牛座で金星でタロットでいえば女帝をあらわす女神であるとわたしは感じています。ウェイト=スミス版の女帝はギリシア・ローマ神話のアフロディテ(ヴィーナス)をあらわしているといわれることもありますよね。わたしとしてはおなじ金星でもハトホルはそのまま牡牛座、アフロディテは天秤座のイメージです。


 そういえば先日のお話のなかですこし触れた分野については、エジプトとイシス、ホルスあたりのことを辿ってゆくと、避けてはとおれないところがあり(とくにイシスとのつながりを深めるうえでは、わたしには重要なことのように感じられました)、すこしだけ学んだことがあるのですが、その分野にかぎらずすべてのこと、たとえばスピリチュアル(とひとくくりにはできないほどさまざまな側面をもつ言葉ですが)と呼ばれるものでも、宗教と呼ばれるものでも、芸術と呼ばれるものでも、哲学と呼ばれるものでも、おそらく科学と呼ばれるものでも、つきつめればいきつく答えはおなじ、おなじことをべつのいいかたであらわしたり、べつのいいかたであらわしているから自分が所属しているもの以外のものが異端に見えたり、派閥になったりするのだ、ということに気づいたとき、お話した分野について深める必要は自分にはないかな、ほかのルートからでも、それを深めるのとおなじ見地に辿りつくことはできるだろうなと感じ、学ぶのを中断しました。


 単純にあまりその“ルート”を取りまく空気(としかいいようのないもの)が自分の好みではなかったというのもあります。





  神話のなかの姉妹や母娘のなかに、女性のなかの陰陽、闇と光を映しだしているというのはよくあることで、昔、イワナガヒメとコノハナノサクヤヒメを巡ってこんなことを書いたこともありました。


 自分自身はあれからすごく変化したように感じるし、また事実そうなのだと思いますが、それでも好きなこと、考えることはおなじなのだな、子どものころからそんなふうに遊ぶことが好きだったな、つまりはわたしにはすこしmaniacなところがあるのだなと感じたりします。そしてそんな自分がけっこう好きです。





2024/05/13

「Angel Rose」後記





 遅ればせながら、カフェノルンさんで開催された『Angel Rose』展、展示、通販ともに終了しております。


 天使や薔薇にちなんだAngel Roseのお手紙、おかげさまで会期4日目からはじまった通販開始のさいには残り1通という状態で、最終日にお運びくださったかたにはお届けできず申し訳ありませんでした。


 最終日にお運びくださったかたが、サンプルとして置いてあったわたしが自分用に引いたサンダルフォンのお手紙に記されている言葉が、今日来たひとたちへのことづてなのかも、というようなことをおっしゃってくださり、それはすごく素敵な受けとりかただなと嬉しく感じました。


 お心寄せてくださったかたがたにありがたい気持ちでいっぱいです。どうぞそれぞれのかたをお守りする言祝となりますように。


 そしてご希望くださったけれどもお手もとにゆかなかったかたにも、たくさんの祝福をおくります。


 この展示をとおしてひとつ想いだしたことがあり、それはごく幼少期に「手紙やさんになるといいよ」といわれたことがある、という記憶でした。


 「Yちゃんはお手紙が上手だから、将来お手紙やさんになるといい」「みんなYちゃんからの手紙を楽しみにしている」というようなことが、卒園アルバムの“あなたの素敵なところ”みたいな欄に書いてあったことを、この企画展の準備をしているときに呼び起こされたのでした。


 それは大昔のことであるはずなのに、いまもおなじようなことをしているんだなと思うと、その懐かしさにほのかにあわい笑いを誘われるものがありました。


 「お手紙やさん」をする機会をあたえてくださったノルンさん、ご一緒できた素敵な作家さまたち、とりわけ優美で繊細な絵をお貸しくださり手紙に花を添えてくださったyukaneさん、すべてに感謝です。


 ありがとうございました。








2024/05/12

5月、聖母マリア









 Luna Somniumの5月は、聖母マリアとのつながりを深めています。


 今月セッションをお受けくださるかたに施術させていただくエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わず聖母マリアのエネルギーが副次的にふくまれます。


 すでにこの“聖なる母”がつないでくれたのだなと思う縁や出来事などが生じていて、今月は聖母マリアの月なのだなと、あらためて感じているこの頃です。


 聖母マリアは星々の記憶を宿す“古代の歌”と深いつながりをもっていて、彼女の“歌”はときに人間の耳ではとらえきれない“音”――周波数としてわたしたちのなかに降りそそぎ、あらゆる癒しをもたらしてくれます。


 わたしたちの細胞、わたしたちの水、わたしたちの記憶、そしてわたしたちの瞳の奥にその“音”が迎え入れられ刻まれたとき、それはわたしたちのなかのあらゆるレベルに届き、不足感や猜疑心を手放すこと、歪み、痛み、悲しみといった内側の混乱への深い浄め、古くなり現在の自分にはそぐわなくなったタイムラインから愛とともに別れを告げること、否定的なエネルギーを肯定的なエネルギーに変換することを助けてくれます。


 星、光、水が混ざりあってきらめくわたしたちの母なるマリアの“音”は“創造の歌”でもあり、それは“奇跡”と呼ばれるものとつながりをもちます。


 奇跡と魔法というのは、自然の法則のなかでもっともパワフルなものです。


 それはわたしたちの理解を超えたところにあるものともいえます。でも、それは存在するのです。


 わたしたちの“理解”がその自然の法則に追いついていない、なぜそれが起きたのか“証明”できない。そういうことが生じたとき、そういう現象があらわれたとき、わたしたちはそれを“奇跡”と呼び、それには“魔法”という別名がつくこともあります。


 より高次の力によってなにかが与えられたかのように、それが現実のなかに顕れたとき、そしてわたしたちが善き力によって祝福されていると感じたとき、わたしたちは“魔法”というもののエッセンスに触れています。


 その“魔法”はわたしたち全員のなかにあるもので、だから“奇跡”をつくりだすパワーもわたしたちすべてのひとのなかにあるものです。


 奇跡というのはわたしたちの理解できる法則にのっとっておらず、わたしたちのもつ知識や、理解の外にあるものです。でもそれでも、それは存在しています。


 わたしたちが自身の内側にある魔法のパワーというものを理解できるようになると、わたしたちの内側にこそ現実を変化させられるパワーがあるのだということに気づきます。


 わたしたちがすでに知っている法則というものを超えて、おそらくわたしたちが理解できる範囲も超えて、わたしたちの内側にあるけれども眠っている“叡智”こそが、錬金術、アルケミーというものへの真の理解である、といえます。


 自分の知っていることや、自分の理解できることを超えた物事があるということを受けいれられるとき、わたしたちははじめて制限のない、終わりのない可能性というものに対して“開く”ことができます。


 そしてわたしたちが想像力をつかって想像できるもの、アイディアとして思い浮かべることができるものは、現実として具現化できるものであるのだと、聖母マリアはつたえます。


 彼女は想いださせてくれます。


 すべてのことを可能にするのはわたしたちの“想像力”と、そして“意図”であるということを。


 そしてそれには、自分と自分を取りまく世界を信じることが“鍵”となります。


 だからそれを妨げているもの、想像力を正の力ではなく負の力として発現してしまっているものの原因、わたしたちが自分自身のためにならない創造とつながってしまっていることの、みずからのなかにある捩じれ、怖れ、幻想といったものを彼女は溶かしてくれます。


 “創造”に奇跡や魔法のエッセンスをもたらしたいと望むなら、わたしたちは自分が「なにを生みだしているのか」ということを知る必要があります。


 自分のなかにあるものが、わたしたちそれぞれの“現実”をつくるからです。







 冒頭の写真の聖母マリアは、わたしがはじめてお迎えしたロザリオのマリアです。


 ロザリオは薔薇の冠が語源であること、それすらも知らなかったころにとても惹かれてお迎えしたものの、ある節目のときに十字架が切れてしまい、わたしをたくさん護ってくれたこのロザリオは、当時のわたしのタイムラインが終わり、つぎに移行するときであることを教えてくれました。


 ローズクォーツで編まれた薔薇のロザリオ、王冠を戴いた美しきマリア。


 聖母マリアのヒーリングをセッションでご依頼くださったかたが、施術のさい、「王冠をした少女のような柔らかい面差しのマリアさまが視えた」というようなことをつたえてくださることがあり、このロザリオのマリアをお見せすると、「このかたでした」と口を揃えていってくださる、ということがあって、これも“奇跡”だと思うかたにはそのように感じられる現象なのかもしれません。


 しかし“奇跡”が自然なこととして受けいれられるなら、それは日常になります。


 それでいながらこのようなエピソードのたび、このロザリオのマリアがいまも見守ってくださっているのだなと感じられ、それは幸せでありがたいことだと思っています。







 *5月、これからの予定*    


  5月30日(木・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の聖母マリアの一斉遠隔ヒーリング

 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。





 それではどなたさまも佳き5月をお過ごしになりますように。


 あなたがいつもあなたでありますように。




 *LOVE*