2024/03/04

サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングのご報告





 2月にセッションをお受けくださったかたへの女神サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。


 先月のうちにこのメッセージを綴り終えていたかったのですが、この一斉遠隔ヒーリング後に深いデトックスがあって、心身をやすめることを優先しました。


 ご縁のあるかたたちそれぞれのなかでサラスヴァティのエネルギーが立ちあがることで、それが拡大され、わたし自身のなかにもおおきな浄化作用があったように感じました。


 ヒーリングをお受けとりくださったかたはいかがだったでしょうか。ヒーリングをお受けになられる前後で感じられたこと、肉体的、物理的、精神的に起こったことは、エネルギー的なシフトと関係していることが多々あります。


 というのも、エネルギーワークというものを意図して自分におこなうとき、それは結果的に自分自身が纏っている「玉葱の皮のごときものに働きかける」ということで、よくいわれるように、わたしたちの現実は自分の持っている内側のエネルギー、周波数が具現化してそれを見せてくれているだけなので(これが真の意味で腑に落ちるまで、わたしもおおきなエネルギー的シフトと浄化が必要でした)、自身のなかにある重さや軽さが、それぞれ立ちあらわれている。


 けれどもわたしたちは、自分自身のエネルギーがどのような状態であるか、ということに、ほとんどの場合無自覚です。


 そのため、“現実”によって自分のエネルギーがどのような状態であるかということを教えられます。意に沿わぬ現実の“重さ”をまえにしてわたしたちははじめて、自分をなんとかしよう、変化させようとすることがありますが、わたしたちにそのように思わせること、決意させることを目的に、その現実は立ちあらわれます。


 そして、ときにはその決意の“確認”のようにそれが立ちあらわれ、揺さぶられる、ということもあるでしょう。


 もちろん、個人の力ではどうにもならない出来事に遭遇し、心打ち砕かれて、ふたたび立ちあがること、再生の困難のなかにいるかたも、この地球においてわたしが理解しているよりも、おそらくはずっとずっと多くいらっしゃるのでしょう。


 そして、その「個人ではどうにもならないもの」のひとつとして、わたしたちはみずからの家系や過去生から引き継がれてきたものを、良くも悪くも受け継いでもいます。それも「自分のなかの“エネルギー”」であるといえます。そして“玉葱の皮”であるとも。皮であるのだから、それは「どうにもならない」と思っても、剥いでゆくことができます。ただそれには、“わたし”という個人の浄化がまずは不可欠であるともいえます。


 わたしたちの「エネルギーの重さ」とは、わたしたちがどれだけ自身に“玉葱の皮”を纏わせているか、ということでもあるのです。


 “玉葱の皮”はわたしたちの観念、常識、思考、感情、過去、家族、先祖、あるいはいまあなたの脳裏に浮かんだもの、それらのものからできています。


 今回の女神サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングは、このエネルギー的な重さ、玉葱の皮に働きかけた、ということがすごくつたえられています。


 誤解しないでほしいこととして、「エネルギーが重いから」「玉葱の皮をたくさん纏っているから」、だから“悪い”ということではないこと、そのひとが「自分に向きあってこなかった」ということでもないことは強調しておきたいのです。


 誰もが一生懸命生きてきて、そうでないひとはいない。いま軽やかで楽しく生きているように見えるあのひとも、そのひとがそのひとの心に沿って真に幸せであるならば、いつか自分自身の“重さ”と向きあい、それを浄めてきた過去があるのかもしれません。


 玉葱の皮をたくさん纏って「一生懸命に生きている」とき、負荷を引きずりながら歩いているのにいつまでも自分の望む目的地には辿りつけなくて、それどころか望まぬ現実がつぎつぎと立ちあらわれて、「どうしてこのような目に遭うのだろう」と思い、悲しくなったり、怒りを感じたり、ときに恨んでしまうようなことは、あたりまえの心の動きであると感じます。


 ただやはり、現実が“重さ”として圧しかかってくるとき、わたしたちの思考や感情はそれにあわせてさらに重くなり、エネルギーは“下がって”いきます。そのような現実は自分になにかをつたえてくれるために起きていることですが、思考が重くなりエネルギーが下がってゆくほどに、それに“気づく”ことは困難になっていき、スパイラルから脱出することは不可能であると、なにより自分が自分に定めてしまう、そういうことがあります。


 わたしたちはいくつ自分でないものを“自分自身である”と思って、それを荷物にしているか。それをみずからの“重さ”にしているか。そしてその“重さ”によってそれと引きあう現実を創造してしまっているか。――それが“玉葱の皮”


 「自分の人生」を生きたいと願うなら、わたしたちは自分がなにを“創造”しているのかに、もっと自覚的になる必要があります。


 自身の思考、言葉、行動(“行動しないこと”もまた行動であり、それはときによってとても必要になってくるものでもあります。けれどもときには“後悔”の原因になることもありますね)が、どのようにみずからの現実に影響をあたえているか、ということを。


 今回、サラスヴァティはとてもそれをつたえたがっていました。


 彼女のエネルギーは水ととても深い関わりがあり、水はわたしたちを祓い浄めて清潔にすることを助けてくれる地球の恩恵です。


 わたしたちがわたしたち自身の“聖なる場所”とつながるために、水は非常に大切なものであり、命の源でもあります。


 サラスヴァティはわたしたちのなかから、“現在”のわたしたちにとって古くなっているもの、過去からのエネルギー、痛み、喪失、わたしたちを“現在”に集中できなくさせているもの、そしてわたしたち自身の神聖さを侵食する“外”からのエネルギーとの境界の曖昧さのなかにある罪悪感、自他への赦しの領域に働きかけたとありました。


 また上記に綴ったことすべて、総じて“玉葱の皮”にアプローチする働きと作用がありました。


 今回、わたしはこの文章を綴ることにとても抵抗があったようです。


 記した文章のすべてに、魂としてのわたしは是といい、それを「つたえなさい」という。


 けれども人間としてのわたしが否といい、それを「書きたくない」という。そういう葛藤があったようでした。


 言葉は自分の意図したとおりにつたわらないことがあります。そしてそれが刃となって誰かの痛みを呼び起こすことも。


 わたしもそのような言葉の性質を理解していますし、わたしの人生において“言葉”というのはとても重要で大切なもののようですので、だからこそその刃で誰かを刺したり刺されたり、ということも経験しました。


 人間としてのわたしは、自分の記したものが誰かにとっての“刃”になることを怖れ、そのための抵抗と葛藤があったようだ、というのを感じながら、しかしサラスヴァティはそのわたしに、





 「あなたも知っている。


 どのように言葉を尽くしたとしても、それはあなたの意図したとおりにはつたわらない。


 相手は相手の受けとりたいように、見たいように読みたいように、あなたの言葉を見て、読むでしょう。

 だからこそ放った者の意図とかぎりなく近く受けとれること、見れること、読めることには、自分の“器”がどのような状態であるか、がもとめられるのです。


 起きていること、見えるものを歪みなしに観測するには、みずからの“歪み”を修正し、調えてゆくしかない。“真実”が知りたいなら、その“歪み”を取り除いてゆくしかない。それが“玉葱の皮”ということになります。


 だからあなたがどのように放っても、それをどのように受けとるかは相手次第です。どのように気をまわしてもそうなのです。だからこそ、それを“放つ”ことを躊躇うときがある。それは言葉のもつ効能、それが“刃”となるうることを知っているからこそ。


 あなたもすでに知っているように、相手があなたの言葉をどのように“受けとるか”その結果の責任まで負う必要はない。


 それは相手の領域で、それこそが神聖な境界線であることを、理解しているはずです。


 そして相手が自身のなかにある“歪み”によって“歪んで”捉えるならば、それこそが相手にとっては浄化作用として働きかけることができるのだ、ということも。


 あなたがかつて自身の“歪み”によって傷つき、そのようにして傷ついたことから自分を立て直していったことを思えば、それもまた誰かにとっては必要な経験である、そのように思いませんか?


 あなたは書きなさい、それがあなたに必要なことなら。その言葉に愛を宿すことだけ思い、そのあとの責任のことは手放して」


 ということでした。


 今回はほんとうに言葉を書き起こすことが“重く”、自分のなかのなにがそうしているか、ということもわかりすぎるほどにわかり、こういうときまだわたしのなかにこのような“重さ”が隠れていたのか、とやはり自身に生じていることによって確認することができます。これもまたひとつの“玉葱の皮”――このサラスヴァティの一斉遠隔はわたしのそのような部分にも作用してくれたようでした。


 さて、時は3月に移り、3月は女神ペルセポネとのつながりを深めていきますが、それもすでにはじまっています。


 この女神のことはまたあらためて綴りますので、今回は過ぎた2月とおおきくサポートしてくれたサラスヴァティに感謝を捧げて。