2024/03/18
暗い旅
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暗い旅の“かれ”がなぜ“失踪”したのかについて不意に考えてた。
そこに哲学的な理由はなく、むしろ哲学的な理由がないからこそ“かれ”は消え、“あなた”のなかに融けあうことが「文学」だったのかしら、などと。
あの書物のことをずいぶんひさしぶりに思い出した。少女のころの一時期熱病みたいに恋してた。
憧れというものは夏の盛りの太陽のごときもので、黄金色の輝きを放ち、その光線を浴びることで自身のからだにも熱をともなう。時が過ぎてその感染の名残が消えても、光の残滓が肉体のどこかと融けあっている。それならばわたしとあの物語の関係性は、“あなた”と“かれ”のそれと等しいのかもしれない。
あの熱をともなってあの書物を思い出すこと、そしてもしかしたら頁を開くことももうないのかもしれないけれども、「物語」はわたしのなかに“失踪”している。不在は存在していなかったこととは異なる。オゾンのような「不在」
“黄金色の輝きを放つ憧れ”がクリームみたいな甘さではなく、光線として貫く痛みをもって自身のなかの火にいのちをそそがれるからこそ「熱病」となることもある、というのはさまざまなひと、そこから醸し出される気配を感じながら思うこと。
クリームは心地よく甘く、生きてゆくうえでの栄養となってくれるものではある(美しいものを食むのは魂の滋養)。
しかし“憧れ”と名づけられるものには自身の細胞に呼応し刺激されるようななんらかの化学反応があり、クリームというよりは炭酸水のそれに近いのではないかと思う。
炭酸水を密封空間で振動させその蓋を開けると、とどめきれずに天にむかって噴き出す作用がある。“憧れ”もおなじように自身のなかに閉じ込めきれぬほど鼓動が高まれば、“あ”の蓋は外れ“焦がれる”となる。
あさきゆめみしの“あ”。
“焦がれ”たならばそれは、ひと夏の“憧れ”ではないあかしなのかもしれない。
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なにを思っていつ記したのかも不明だけれど、倉橋由美子の『暗い旅』について綴った覚え書きが出てきた。
このあいだ去年の秋に知りあったばかりのひと(けれどもとても深い縁を感じ、その出逢いの最初からすっかり気心が知れた相手のような気持ちになったひと)と、倉橋由美子の作品について話してすぐのことだったので(彼女も昔、著作を読んだことがあるとのことだった)、なんとなく懐かしくなってここに残しておこうと思った。
彼女との会話のなかで何気なくあらわれたその名をとおして、この著者のことや画家のクレーの話をしたことで、わたしのなかの“少女”を遠く想いだしたから。
“青春”というものがあるならば、わたしのそれとこの著者の作品は切り離すことができず、倉橋由美子の言葉はわたしの“思春期”を鎮静するための薬でもあった。
その美しさと甘やかさ、毒と絢爛を切に必要としていた時代は現在のわたしの背からはるかに隔てられた過去の記憶ではあるけれど、“言葉”というもののもつたしかな救いを教えてくれた書物たちのこと。
旧友と再会するように、想いだせてよかった。