2024/03/31
紅玉
「ルビーは愛を閉じこめた宝石だと、わたしは思う。」からはじまる言葉を綴って、青井さんのコラージュ作品と共作した、いつかの“りんごまつり”の展示のときから、ずっと印象的に心に棲みつづけてきたこのスノウホワイト、お迎えすることが叶いました。
ルビーは愛を閉じこめた宝石だと、わたしは思う。
血が燃えたつ情熱の一瞬が、永遠の眠りのように結晶化された、冷ややかに透きとおる鉱物であると。
あの女が差しだした林檎を見たとき、わたしはそんなことを考えていた。
そして魔にみちびかれるみたいに、わたしはあの赤く美しいものを受けとり、気がつけばひとくち齧っていた。
ルビーがわたしにとって特別なのは、それが生まれるまえから自分に望まれていた希望と烙印だったから。
雪のようにしろく、黒檀のようにくろく、血のようにあかい子。
その役割をご破算にするために、わたしは林檎に血を吸いあげられて、いま、永い微睡みのなかにいるのかしら。
待っているの。
蕾のごとく閉じたこの色褪せたくちびるが、紅い花となってふたたび目覚める日のおとずれを。
わたしの心をルビーの色に染めて、血がかよっていることを、思いださせてくれるひとを。
*
瞼の裏側にいまも、鮮明な赤。
あの女のくちびるの色。
奇妙にやさしい声でわたしに話しかけるのに、けっしてわたしの名を呼ぶことのない女。
わたしを愛しているふりをして、王を愛しているふりをして、そして自分を愛しているふりをして、偽りばかり虚しく言葉にしているうちに、おのれの本心に目隠しした憐れなひとのあのくちびるの色を、いつか薔薇のようだと誰かがいったわ。
血のように赤いブラッドローズ。
それはわたしという存在に刻まれていた、印だったはずなのに。
血のようにあかい子。
だからわたしはしろく、ひたすらに穢れないことを願われて、雪のごとき少女として育った。
あの女のくちびるはきっと、わたしの血を吸いあげていたんだわ。
わたしはわたしを護るために、だからもう、眠りに就くしかなかった。
わたしのなかの「血」が復活する日を、待っているの。
それはたぶん、くちづけからやってくる。わたしに愛を教えてくれる、わたしがルビーを捧げる、そのひとの。
*
スノウホワイトの独白、2018年の秋に草舟あんとす号さんで開催された「りんごまつり」に参加したときに綴った文章の一部です。後半の「瞼の裏側にいまも、鮮明な赤」からはじまる部分は展示終了後に「つづき」を思いついて遊びで記したもの。懐かしい記憶として。
この白雪姫、tegamiyaさんの林檎のオーナメントとともに飾りたいなと感じたので、そうしています。
目覚めは春の訪れとともに。
2024/03/30
ペルセポネの一斉遠隔ヒーリングのご報告
今月にセッションのご縁をいただいたかたへの女神ペルセポネの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回からこの一斉遠隔ヒーリングについては、ヒーリング後、該当するかたにお受けとりいただいたエネルギーがどのように作用したのかを簡潔に綴った共通メッセージでおつたえするかたちとなり、ご参加くださったかたにはすでにお送りしました文章と重複いたしますが、このたびのヒーリングについて簡単に。
このペルセポネの一斉遠隔ヒーリングは、
・ハートの回復
・セクシャリティの修復
・考えすぎ、思考の囚われの癒し
・優先順位をつける(自分にとって“必要”なものを理解する)
・ポジティヴな意図にフォーカスする(自分がフォーカスしているものが未来を創る)
・防御によって拒絶しているものへの根源の癒し
・現在に不調和をあたえている過去に光をおくる
・孤独感への祓い
というような部分にアプローチがあったようでした。
ヒーリング中、わたし自身ものすごく眠くなり、深いところにアクセスしていることを感じました。
おなか、第3チャクラのあたりにあたたかくやさしくエネルギーが流れこんでゆくのを感じ、自尊心、自己価値に対する癒しや修復も同時におこなわれていたようです。
ペルセポネは変容と再生の女神。
復活祭の前日にこの女神のエネルギーを今月ご縁をいただいたかたにお流しできたことは、とても意味深いことでした。
あらためましてありがとうございました。
よいイースターを!
2024/03/27
rubyBlossom*Debutantのための耳飾り
Debutante (デビュタント) のための耳飾り
はじめての舞踏会に臨むあなたは、白く淡く透明で、まだ何者でもない だからこれから何者にでもなれる
大広間の中心、運命の輪を描くようにして回転するひとたちの頭上高く輝くChandelier(シャンデリア)
そこに未来の可能性がきらめいている
こぼれる光とともに、耳もとを揺らして
あなたのDance(ダンス)をするために
*
乙女のための、淑女のための、貴婦人のための――
「誰かのための」という響きにはその“誰か”にむけた、目には見えない花束を捧げるような音がこめられている
「Debutant(デビュタント)のための耳飾り」で揺れるかがやきは、あなたのための花の“音”
未来の可能性の煌めきを宿して高鳴る鼓動の色を、耳もとで揺らして
あなたがDance(ダンス)をするために
*rubyBlossom*
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2024/03/20
春分
春分は春雷とともに。
雷はいつも、“はじまり”の合図。
“はじまり”のまえの浄め。
それはわたしにとってはいつだって、とてもやさしいもの。
今年の春分は、わたしの住むこの国の真上で起きた、めずらしく貴重なもの。
空に轟く光は祝福のあかし。
2024/03/18
暗い旅
*
暗い旅の“かれ”がなぜ“失踪”したのかについて不意に考えてた。
そこに哲学的な理由はなく、むしろ哲学的な理由がないからこそ“かれ”は消え、“あなた”のなかに融けあうことが「文学」だったのかしら、などと。
あの書物のことをずいぶんひさしぶりに思い出した。少女のころの一時期熱病みたいに恋してた。
憧れというものは夏の盛りの太陽のごときもので、黄金色の輝きを放ち、その光線を浴びることで自身のからだにも熱をともなう。時が過ぎてその感染の名残が消えても、光の残滓が肉体のどこかと融けあっている。それならばわたしとあの物語の関係性は、“あなた”と“かれ”のそれと等しいのかもしれない。
あの熱をともなってあの書物を思い出すこと、そしてもしかしたら頁を開くことももうないのかもしれないけれども、「物語」はわたしのなかに“失踪”している。不在は存在していなかったこととは異なる。オゾンのような「不在」
“黄金色の輝きを放つ憧れ”がクリームみたいな甘さではなく、光線として貫く痛みをもって自身のなかの火にいのちをそそがれるからこそ「熱病」となることもある、というのはさまざまなひと、そこから醸し出される気配を感じながら思うこと。
クリームは心地よく甘く、生きてゆくうえでの栄養となってくれるものではある(美しいものを食むのは魂の滋養)。
しかし“憧れ”と名づけられるものには自身の細胞に呼応し刺激されるようななんらかの化学反応があり、クリームというよりは炭酸水のそれに近いのではないかと思う。
炭酸水を密封空間で振動させその蓋を開けると、とどめきれずに天にむかって噴き出す作用がある。“憧れ”もおなじように自身のなかに閉じ込めきれぬほど鼓動が高まれば、“あ”の蓋は外れ“焦がれる”となる。
あさきゆめみしの“あ”。
“焦がれ”たならばそれは、ひと夏の“憧れ”ではないあかしなのかもしれない。
*
なにを思っていつ記したのかも不明だけれど、倉橋由美子の『暗い旅』について綴った覚え書きが出てきた。
このあいだ去年の秋に知りあったばかりのひと(けれどもとても深い縁を感じ、その出逢いの最初からすっかり気心が知れた相手のような気持ちになったひと)と、倉橋由美子の作品について話してすぐのことだったので(彼女も昔、著作を読んだことがあるとのことだった)、なんとなく懐かしくなってここに残しておこうと思った。
彼女との会話のなかで何気なくあらわれたその名をとおして、この著者のことや画家のクレーの話をしたことで、わたしのなかの“少女”を遠く想いだしたから。
“青春”というものがあるならば、わたしのそれとこの著者の作品は切り離すことができず、倉橋由美子の言葉はわたしの“思春期”を鎮静するための薬でもあった。
その美しさと甘やかさ、毒と絢爛を切に必要としていた時代は現在のわたしの背からはるかに隔てられた過去の記憶ではあるけれど、“言葉”というもののもつたしかな救いを教えてくれた書物たちのこと。
旧友と再会するように、想いだせてよかった。
2024/03/17
青い瞳
Miss MoppetさんのLover's Eye。
かつて想いあう恋人たちが自分自身の背負う背景において結ばれることが叶わず、みずからの瞳を装身具に仕立てて相手に贈り、それをとおしてふたりはいつでも“見つめあう”ことができた、という時代の秘密と記憶が託されたブローチ。
青い星のような目に惹かれて、
遠い記憶の彼方の幼少期に、この眼差しを見たような気がして、
わたしのもとに。
2024/03/14
rubyBlossom*花の種
これは花の種。
“あなた”のなかにある種、その花の色。
ガーネット(Garnet)は情熱
サファイア(Sapphire)は知性
シトリン(Citrine)は豊かさ
アメジスト(Amethyst)は高貴
アクアマリン(Aquamarine)は希望
ローズクォーツ(Rose Quartz)は愛
ダイヤモンド(Diamond)は純粋
そして、ブラック・スピネル(Black Spinel)は開花
*
女王(Queen)になるためにはね、自分のなかに虹をもっている必要があるの。
でも、それは誰にでもわかりそうなことでしょう? “花の種”を宿しているあなただもの、そんなことはすでに知っている。虹をもっているだけじゃ、まだすこし女王(Queen)にはおよばない。
あなたのなかに眠る花の蕾は、どんな色をしていると思う?
あなたはどういう種を宿しているの? そしてそれがどういった宝石に変貌するか。
まず、それを知ることよ、あなたの色を。
そしてそこから虹を育むの。だから女王(Queen)である者は虹よりひとつ多い、8つの色を自身のなかに抱いている。ひとつはみずからの“本質”をあらわす色、そしてそれをよりおおきな光にしてくれる、あざやかな彩り。
それはあなたの花の種を装飾品にしたもの。
イミテーション(模造品)? そうね、でもそれは“偽物”と同義語ではない。あなたの“種”が花ひらいたとき、あなたが女王(Queen)になったとき、それはジュエル(宝石)に進化するの。そのためのお守りのようなものよ。あなたの“未来”を守るための。
――あなたはどんな宝石の種かしら?
*
いつか、ルビー・ブロッサム(Ruby・Blossom)がいっていたこと。
装身具やお洋服をおつくりになられているrubyBlossomさんの作品たちに、ちいさな物語のかけらのような、ささやかな言葉をしたためることになりました。
rubyBlossomさんが「宝石の花束」と名づけてくださったそれを、ひとつの祈りのかたちとして。
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2024/03/12
セッションのお問い合わせ
ときどきお問い合わせをいただくこと。
現在、エネルギーのセッションは、対面、遠隔とも、それを「受けたい」と感じられ、お問い合わせくださったかたでしたら、どなたさまでもお受けすることになっています。
セッションを開始してしばらく、ある一時期の対面セッションは、面識のあるかた、また面識がなくてもSNSなどでやりとりをしたことのあるかた、ご紹介のかたにかぎらせて施術させていただいていましたが、いまはさらに扉をひらいて、ご興味がおありになってお受けになりたいかたなら、どなたさまでもご案内しています。
というのも、自分からわざわざ限定しなくても、なぜだかわからないけど興味がある、心惹かれると感じられて、その気持ちのままにお問い合わせまでくださるかたは、わたし自身と深いご縁のあるかたであることに気づいたからです。
そしてそういった縁をみずから制限したり退けたりすることをしないように、流れるままにまかせたいと感じるようになりました。
このBLOGのこのような記事に目をとおしてくださるかたも、おそらくなにかのご縁があるかたなのだと思います(だからこのことをここに綴りました)
つながってくださるかたは、みなさんなんらかの縁があり、そこにセッションを受けられる受けられないはまったく無関係ではありますが、心が「そうしたい」と思われるかたがいらっしゃれば、お問い合わせいただけましたらお受けできます。
ただ、状況によってご希望に沿えないときもありますので、そこだけどうぞご了承いただければ幸いです。
お心寄せてくださるかたに、感謝の気持ちでいっぱいです。愛とともに。
3月、ペルセポネ
Luna Somniumの3月は、女神ペルセポネとのつながりを深めています。
今月セッションをお受けくださるかたに施術させていただくエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わず女神ペルセポネのエネルギーが副次的にふくまれます。
ペルセポネはギリシアの女神で、ギリシアにおける天空の神、最高神ゼウスと大地の女神デメテルの娘であるとされています。
もともとは“乙女”の意味をもつ「コレー」という名であった彼女は、冥界の王ハデスに見初められて地上から地下の世界に連れ去られ、ハデスの妃となる道を辿りますが、「ペルセポネ」という名は彼女が冥界の王の妃となり女王になったあとの名でもあります。
古来よりさまざまな国で、そのひとの“切り替わり”のタイミング、たとえば元服など人生の重要な節目で名を変えることがありましたが、コレーからペルセポネへの移行のなかに、この女神の通過儀礼を見ることができます。
大地の女神の娘である彼女は、光や植物と非常に親しい女神で、“光の娘”のその美しさが安全に守られるよう、ひとかけらも損なわれないように、母神は彼女を誰の目にも触れさせぬよう、自然のゆりかごのなかで育てました。
彼女の友人は植物であり、動物であり、エレメントでした。
しかしその“ゆりかご”の境目から満ち足りた彼女の少女期のなかに侵入してきた“他者”がいて、それが冥王ハデスです。
ハデスは冥府、地下、黄泉の国の王であり、闇が集うその場所にあって、地上の光が結晶されたような“コレー”に、自分がもとめていたもの、足りないと思っていたもの、陰と陽の陽を見たのかもしれません。
かくして彼女は誘拐され、地上と、光と、大地の母と引き離されて、闇を知ることになりました。
わたしはこの女神をタロットカードの「女教皇」になぞらえることがありますが、それは女教皇が目に見えるものではなく、目には視えないもの、世界とつながるために、自分自身の内側に深く入り込むこと、答えは“外”ではなく“内”にあり、みずからの内側から湧き出るその“答え”を受けとるためには、自身の闇も光も知り、それを統合してゆく必要があることを、教えてくれるカードだからです。
ペルセポネは自分の意志ではなく冥界に連れ去られ、みずからが望んで招き寄せたわけではない出来事、状況、環境のなかで、それでも自分自身の光を信じつづけることをもとめられました。
闇を視て、そこから反射される自身の怖れ、諦め、絶望に苛まれるときでも、その奥にある光とつながること。自分の魂の本質である光と真につながるための、影であり暗闇の時間をそこで経験しました。
光だけの世界である“ゆりかご”の時代にいたときに知っていた光は、彼女がコレー(乙女)であるときの光。それはまだ闇を知らなかった段階の、無邪気さと無知からなる光。空を知らない雛鳥が巣のなかで得られた光。
それが真実の光に成熟されるためには、「無知の知」の段階まで自分の意識が否応なく引きあげるようなことが、自身の“外”の世界をとおして起きる。
無知の知。――「わたしはまだなにも“知らなかった”ということを“知る”」
ひとつの世界のなかにいるとき、それが自分のすべてであると錯覚することがあります。
その世界が罅割れたとき、良くも悪くもそれまで自分が「これが常識」「これが正しい」と思ってきたものが刷新され、それまでの古い価値観、真の自分から分離していた意識を浄め、それらを受けいれる空間をひらくため、自分自身も浄化されるようなことが生じます。
その浄めをとおして、奥深くに隠れていた自身の本心を炙り出されることがありますが、それは自分のなかに眠っていた闇を見つめる、ということと同義語であることもあります。闇は“外”からやってきたのではなく、みずからの“内”に隠れ、それが隠されていたことを、“外”からの現象をとおして教えてくれる。
光の娘であり冥府の女王であるペルセポネは、闇と光の統合の女神でもあります。
彼女はわたしたちの人生のボイドタイム、魂の闇夜のなかでも、わたしたちの影に寄り添い、そして光の方向を指し示してくれる案内人です。
わたしたちがその光を信じられないときでも、彼女はわたしたちの影のなかにいて、そうとは知らない「地下」で手助けしてくれている。
わたしたちがみずからの「地下」と「地上」、潜在と顕在を自分のなかに統べたとき、真実の自分自身になるのだと、教えてくれています。
だからペルセポネは死と再生の女神であり、冬のあとにかならず春がやってくること、季節がそうして巡るように魂にもそのような周期があること、わたしたちの闇や影に癒しをあたえることで、光をおおきくすること、それによって自身の“真実”にしたがい人生を生きることを見守ってくれます。そのために過去における体験、打ち砕かれた記憶、喪失、誇りを修復し、手放す必要のあるものは昇華することもサポートしてくれます。
また神話におけるペルセポネと母神デメテルとの関係は、一心同体である母娘が、お互いの自立のために「離れる」ことの重要性を暗示してもいると思います。
母と子の結びつきが強すぎるとき、そこに外部が入り込む隙間はありません。
それはそれで見方次第では幸せなことなのかもしれませんが、結びつきは呪縛となり、自分自身の世界がひろがることを妨げます。
自由がさまざまな視点からの眼差しを知っていることだとすれば、世界のひろがりを狭めることは、それだけ不自由であり、制限されている、ということでもある。
ペルセポネがコレー(乙女)からひとりの成熟した女性になるためには、母の“ゆりかご”から一度脱することも大事なことだったのだと思います。
母の価値観、母の掟、母の判断からできた“ゆりかご”の庭から離れ、自分自身に生まれ変わる過程で経験した闇が、母の“正しさ”から抜け出そうとするみずからの“誤り”を罰として突きつけているように感じられたとしても、それすらも“成熟”のために大切な栄養であったこと。
この母神デメテルとペルセポネを同一の女神として見ることもあり、そのときデメテルを光、ペルセポネを闇として、みずからの闇と光の分断、そして統合を暗示することがありますが、どちらであってもテーマはおなじであって、ペルセポネは真の自分自身になるための、死の眠りと目覚めの祝福をわたしたちに教えてくれる女神なのです。
今月は春分があり、冬から春へ、眠りから目覚めへ、ペルセポネが地上に還ってくる月でもあります。
そのための準備として、どうぞすべてのひとがみずからの“内”を見つめる静かな時間をもつことができますように、そして自分自身に力があること、どのような問題であれあなたのほうがその問題より“強い”のだということを想い出すことができますよう祈っています。
*3月、これからの予定*
3月30日(土・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の女神ペルセポネの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまも佳き3月をお過ごしになりますように。
あなたがいつもあなたでありますように。
*LOVE*
2024/03/04
サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングのご報告
2月にセッションをお受けくださったかたへの女神サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
先月のうちにこのメッセージを綴り終えていたかったのですが、この一斉遠隔ヒーリング後に深いデトックスがあって、心身をやすめることを優先しました。
ご縁のあるかたたちそれぞれのなかでサラスヴァティのエネルギーが立ちあがることで、それが拡大され、わたし自身のなかにもおおきな浄化作用があったように感じました。
ヒーリングをお受けとりくださったかたはいかがだったでしょうか。ヒーリングをお受けになられる前後で感じられたこと、肉体的、物理的、精神的に起こったことは、エネルギー的なシフトと関係していることが多々あります。
というのも、エネルギーワークというものを意図して自分におこなうとき、それは結果的に自分自身が纏っている「玉葱の皮のごときものに働きかける」ということで、よくいわれるように、わたしたちの現実は自分の持っている内側のエネルギー、周波数が具現化してそれを見せてくれているだけなので(これが真の意味で腑に落ちるまで、わたしもおおきなエネルギー的シフトと浄化が必要でした)、自身のなかにある重さや軽さが、それぞれ立ちあらわれている。
けれどもわたしたちは、自分自身のエネルギーがどのような状態であるか、ということに、ほとんどの場合無自覚です。
そのため、“現実”によって自分のエネルギーがどのような状態であるかということを教えられます。意に沿わぬ現実の“重さ”をまえにしてわたしたちははじめて、自分をなんとかしよう、変化させようとすることがありますが、わたしたちにそのように思わせること、決意させることを目的に、その現実は立ちあらわれます。
そして、ときにはその決意の“確認”のようにそれが立ちあらわれ、揺さぶられる、ということもあるでしょう。
もちろん、個人の力ではどうにもならない出来事に遭遇し、心打ち砕かれて、ふたたび立ちあがること、再生の困難のなかにいるかたも、この地球においてわたしが理解しているよりも、おそらくはずっとずっと多くいらっしゃるのでしょう。
そして、その「個人ではどうにもならないもの」のひとつとして、わたしたちはみずからの家系や過去生から引き継がれてきたものを、良くも悪くも受け継いでもいます。それも「自分のなかの“エネルギー”」であるといえます。そして“玉葱の皮”であるとも。皮であるのだから、それは「どうにもならない」と思っても、剥いでゆくことができます。ただそれには、“わたし”という個人の浄化がまずは不可欠であるともいえます。
わたしたちの「エネルギーの重さ」とは、わたしたちがどれだけ自身に“玉葱の皮”を纏わせているか、ということでもあるのです。
“玉葱の皮”はわたしたちの観念、常識、思考、感情、過去、家族、先祖、あるいはいまあなたの脳裏に浮かんだもの、それらのものからできています。
今回の女神サラスヴァティの一斉遠隔ヒーリングは、このエネルギー的な重さ、玉葱の皮に働きかけた、ということがすごくつたえられています。
誤解しないでほしいこととして、「エネルギーが重いから」「玉葱の皮をたくさん纏っているから」、だから“悪い”ということではないこと、そのひとが「自分に向きあってこなかった」ということでもないことは強調しておきたいのです。
誰もが一生懸命生きてきて、そうでないひとはいない。いま軽やかで楽しく生きているように見えるあのひとも、そのひとがそのひとの心に沿って真に幸せであるならば、いつか自分自身の“重さ”と向きあい、それを浄めてきた過去があるのかもしれません。
玉葱の皮をたくさん纏って「一生懸命に生きている」とき、負荷を引きずりながら歩いているのにいつまでも自分の望む目的地には辿りつけなくて、それどころか望まぬ現実がつぎつぎと立ちあらわれて、「どうしてこのような目に遭うのだろう」と思い、悲しくなったり、怒りを感じたり、ときに恨んでしまうようなことは、あたりまえの心の動きであると感じます。
ただやはり、現実が“重さ”として圧しかかってくるとき、わたしたちの思考や感情はそれにあわせてさらに重くなり、エネルギーは“下がって”いきます。そのような現実は自分になにかをつたえてくれるために起きていることですが、思考が重くなりエネルギーが下がってゆくほどに、それに“気づく”ことは困難になっていき、スパイラルから脱出することは不可能であると、なにより自分が自分に定めてしまう、そういうことがあります。
わたしたちはいくつ自分でないものを“自分自身である”と思って、それを荷物にしているか。それをみずからの“重さ”にしているか。そしてその“重さ”によってそれと引きあう現実を創造してしまっているか。――それが“玉葱の皮”
「自分の人生」を生きたいと願うなら、わたしたちは自分がなにを“創造”しているのかに、もっと自覚的になる必要があります。
自身の思考、言葉、行動(“行動しないこと”もまた行動であり、それはときによってとても必要になってくるものでもあります。けれどもときには“後悔”の原因になることもありますね)が、どのようにみずからの現実に影響をあたえているか、ということを。
今回、サラスヴァティはとてもそれをつたえたがっていました。
彼女のエネルギーは水ととても深い関わりがあり、水はわたしたちを祓い浄めて清潔にすることを助けてくれる地球の恩恵です。
わたしたちがわたしたち自身の“聖なる場所”とつながるために、水は非常に大切なものであり、命の源でもあります。
サラスヴァティはわたしたちのなかから、“現在”のわたしたちにとって古くなっているもの、過去からのエネルギー、痛み、喪失、わたしたちを“現在”に集中できなくさせているもの、そしてわたしたち自身の神聖さを侵食する“外”からのエネルギーとの境界の曖昧さのなかにある罪悪感、自他への赦しの領域に働きかけたとありました。
また上記に綴ったことすべて、総じて“玉葱の皮”にアプローチする働きと作用がありました。
今回、わたしはこの文章を綴ることにとても抵抗があったようです。
記した文章のすべてに、魂としてのわたしは是といい、それを「つたえなさい」という。
けれども人間としてのわたしが否といい、それを「書きたくない」という。そういう葛藤があったようでした。
言葉は自分の意図したとおりにつたわらないことがあります。そしてそれが刃となって誰かの痛みを呼び起こすことも。
わたしもそのような言葉の性質を理解していますし、わたしの人生において“言葉”というのはとても重要で大切なもののようですので、だからこそその刃で誰かを刺したり刺されたり、ということも経験しました。
人間としてのわたしは、自分の記したものが誰かにとっての“刃”になることを怖れ、そのための抵抗と葛藤があったようだ、というのを感じながら、しかしサラスヴァティはそのわたしに、
「あなたも知っている。
どのように言葉を尽くしたとしても、それはあなたの意図したとおりにはつたわらない。
相手は相手の受けとりたいように、見たいように読みたいように、あなたの言葉を見て、読むでしょう。
だからこそ放った者の意図とかぎりなく近く受けとれること、見れること、読めることには、自分の“器”がどのような状態であるか、がもとめられるのです。
起きていること、見えるものを歪みなしに観測するには、みずからの“歪み”を修正し、調えてゆくしかない。“真実”が知りたいなら、その“歪み”を取り除いてゆくしかない。それが“玉葱の皮”ということになります。
だからあなたがどのように放っても、それをどのように受けとるかは相手次第です。どのように気をまわしてもそうなのです。だからこそ、それを“放つ”ことを躊躇うときがある。それは言葉のもつ効能、それが“刃”となるうることを知っているからこそ。
あなたもすでに知っているように、相手があなたの言葉をどのように“受けとるか”その結果の責任まで負う必要はない。
それは相手の領域で、それこそが神聖な境界線であることを、理解しているはずです。
そして相手が自身のなかにある“歪み”によって“歪んで”捉えるならば、それこそが相手にとっては浄化作用として働きかけることができるのだ、ということも。
あなたがかつて自身の“歪み”によって傷つき、そのようにして傷ついたことから自分を立て直していったことを思えば、それもまた誰かにとっては必要な経験である、そのように思いませんか?
あなたは書きなさい、それがあなたに必要なことなら。その言葉に愛を宿すことだけ思い、そのあとの責任のことは手放して」
ということでした。
今回はほんとうに言葉を書き起こすことが“重く”、自分のなかのなにがそうしているか、ということもわかりすぎるほどにわかり、こういうときまだわたしのなかにこのような“重さ”が隠れていたのか、とやはり自身に生じていることによって確認することができます。これもまたひとつの“玉葱の皮”――このサラスヴァティの一斉遠隔はわたしのそのような部分にも作用してくれたようでした。
さて、時は3月に移り、3月は女神ペルセポネとのつながりを深めていきますが、それもすでにはじまっています。
この女神のことはまたあらためて綴りますので、今回は過ぎた2月とおおきくサポートしてくれたサラスヴァティに感謝を捧げて。
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