2024/01/23
ユニコーン
この一年をともに歩んでくれる暦。
澄んだ青を纏った一角獣の角は聖なる剣みたいで、世界に降りそそぐ神聖幾何学としての雪の結晶とともにわたしのゆく道を守ってくれる、そんなふうにも感じられるお守りのカードが添えられて。
ユニコーンの傍にはやはり雪の結晶が、とこのカードを見たとき感じたこと。
なにが「やはり」なのかといえば、わたしも去年『天の花 地の星』のなかでユニコーンと雪の結晶のことを言葉として書いて、それをひとつの絵にしてほしいと挿絵を引き受けてくださったharumieさんにお願いしてかたちにしていただいたことがあったから。
この暦でありカードであるつくりてのyukaneさんのユニコーンの傍にも雪の結晶があって、わたしの“あの子”とつながってくれているように感じた。
どちらもおなじようにユニコーンのエネルギーを受けとって描かれたものなので(わたし自身もそれを受けとってユニコーンと雪の結晶をひとつの絵に、とお願いしたのでしょうし)、当然といえば当然だと思うのだけれど、そのような“つながり”を発見すると嬉しくなってしまいます。
ユニコーンは雪の結晶と、そして聖母マリアと深く結びつく生き物。
その生き物に「架空の」という確認が入るとき、ただたんにわたしたちがそれを視たり感じたりする能力を失っただけだと思うひとたち、かの生き物はとても強い光を放っているので地球に棲息することができなくなったのだ、と思うひとたち、でもその存在を近くに感じるひとたち、そういうひとたちが自分の“仲間”なのだと思う。
“仲間”にしか通用しない言葉はたくさんあって、「通用しない言葉」は胸の内に秘めるしかない。
――というよりも、「言葉を共有できない」といったほうがただしいのかもしれない。「通用しない」では自分の領域から除外しているようで、すこし気になる。べつに誰かを排斥したいわけでもなければ、どちらが上か下かという話を繰り広げたいわけでもない。ただ、「自分がどのようなエネルギーを放っているか」「それがどのように現実創造されているか」ということは、すべてのひとが知っておいたほうがいい。
それも頭ではなく心で知る必要がある(そしてそれをわたし自身完全にマスターしたわけではないこと、学びのなかであることはつけ加えておかなければいけません。でもそれらのことを知らなかった数年まえといまとでは、まったく違う人間であると感じているし、それはわたしが「変わった」のではなく「還った」のだと思っている。)
おなじものを見たり聞いたりしても、捉えかたがまったく異なることがある。自分がそれを「どのように捉えるか」「どの角度から見るか」がそのひとの現実を創る。
だから「現実は幻想」であるともいえる。
「いま見ているもの」が自分の幻想であるかもしれないのに、その現実はたしかにあってユニコーンは“幻想”だとする根拠はどこにあるのだろう?
自分の見ているものを疑え、という教えは、「それはほんとうにあなたの“視ている”ものですか?」と問いかけている。
“あなた”ではなく“だれか”の常識、価値観、習性ではないですか。
この目で見たことがないから「ユニコーンは存在しない」――それもそのひとの“現実”
そしてきっとこの目で“見たとしても”、「夢だったのだろう」と自分にいい聞かせるのだろう。そしてやがて忘れてゆく。そのほうが都合がいいから。
未知のもの、常識をくつがえすものは「都合が悪く」、脳はそれを避けようとする。わたしたちは変化を怖れる生き物だから、なにかに固執して滞っているとき、循環が妨げられているとき、「変化しなければ苦しい」と“現実”が幾度もかたちを変えて訴えてくる。
ひとついえることは、誰にとっても大切なのは罅割れた鏡の歪みを修正し、自分自身になってゆくことだけ。そのほかに「大切なこと」はないのかもしれないとも思ったりする。