2024/01/31

わたしの顔を覆うヴェールを暴いたら





 エジプトのイシス神殿に刻まれた碑文に、「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」というものがあります。


 ――わたしの顔を覆うヴェールを暴いたら、言葉にならないようなものを見ることになる。


 この文の意味を、「わたしの神秘を暴こうとするより、まずあなたはあなた自身を暴かなければならない。あなた自身の“神秘”をこそ暴きなさい」というふうに受けとっている。それこそがイシスの体現する“真理”であること。


 青い鳥を探して旅に出たきょうだいが、実は自分たちの探し求めていたものはすぐ近くにあったことを知る物語がありますが、青い鳥も聖杯もあらゆるものにおなじことがいえて、わたしたちは「未知のなにか」を求めて“外”にあるものの「ヴェールを暴こうとする」けれど、ほんとうに求めているものに手をのばすためには、それを受けとるためには、自分自身のヴェールをこそ暴く必要がある。


 そしてそこで目にするのは文字どおりの「語るべからざるもの」


 「言葉にならないもの」を視ずしてみずからの最奥には辿りつかないようになっているのかもしれない、とわたしは感じたりします。


 自分自身の段階に応じてその段階における制限、限界を突破するたびに(そのことを「ひとつのゲートをくぐり抜けるたびに」といういいかたもできるかもしれない)、イニシエーションみたいに「語るべからざるもの」「言葉にならないもの」を視る。


 「深淵を見つめるとき、深淵もまたこちらを見つめ返している」というニーチェの言葉がありますが、イシス神殿の碑文に刻まれたものも、これとおなじ示唆をあたえてくれているのだと感じます。


 イシスの“神秘”を知るには自分自身を見つめることが不可避であり、「語るべからざるもの」を通ることでしか彼女に辿りつけない。イシスの“神秘”を探るひとは必然的にみずからの内部に潜ることになり、おのれのなかに視た「言葉にならないもの」を通してのみ、彼女の叡智や真理とつながることができる。


 そういうことをつたえているのだと思っています。


 女神イシスはタロットカードの女教皇の原型となっているとされる説があります。


 歴史上に女性の教皇は存在しないとされていて(このことを歴史的に探ってゆくと「女教皇ヨハンナ」という名にいきつきますが、伝説であるとされています。そのようなかたが存在したか否かはさておき、その存在が議論されるほどに)、“ありえないもの”の象徴でもある。


 “ありえないもの”――つまり制限や限界をこえるとき、同時進行してみずからの内側を見つめ“言葉にならないもの”を視ることになる、と自分の経験からも感じていることです。


 そしてそこにこそ、わたしたちそれぞれの“秘密の鍵”があるのだと。


 それは“ありえないもの”である未知を可能にする鍵であると。