2022/09/14
尼僧
二十歳の刃を跨ぐころ、そして跨いだあと、だから十九歳くらいから数年、尼僧になりたいと思っていたことがあった。
その動機は単純に、わたし自身の厭世観によるものだった。
この世で生きてゆく自信がなく、自分のなかにそのための活力も気力も見いだせなくて、隠者のようにひっそりとどこかに籠って静かに生きていけたらという願望の、その“どこか”を寺院に当てはめてみただけの、儚く浅はかな願いだった。
そんなある意味での夢の風船を自身のなかでふくらませ、もし出家するとしたらどこの寺院がいいだろうと探しているうち、けれども気づいたことは、この世との関わりを倦んでそのような場所の門をくぐったとき、夢は現実となり、そしてその現実が自分に突き刺さるのだろうということだった。
そこはこの世との関わり、コミュニケーションを忌避するために入るには、もっともふさわしくない場所だろうと理解したがために。
なぜならそこは、あちらとこちらの橋渡しをする場所でもあるのだから、“こちら”――この世とも、“あちら”――あの世とも関わりをもつということで、“こちら”でのコミュニケーションがままならないからという理由で入ったなら、“こちら”はもちろんのこと、“あちら”とのコミュニケーション、関わりを学ばなければいけない、そしてそのためには“こちら”に対してすこやかな愛をもって見つめる眼差しが必要で不可欠になるいうあたりまえのことを突きつけられて、自身の甘さを知ることになるのだろうと。
そこはコミュニケーションや関わりを絶つ場ではなく、むしろその逆なのだろうから、いま現実から逃れたいからという理由でわたしが求めるべき場所ではない、それを求めて入ればわたしはわたしに裏切られることになる、という結論に至り、尼僧の夢は夢のまま胸にしまうことにした。
わたしの家系をさかのぼると僧侶や寺院に繋がる血があって、それをずっと自分の人生とあまり関係のないこととして感じてきたけれど、ここ何年かでそれが、もしかすると自身の形成に深く影響しているのかもしれないと思うようになった。
父方の祖父はある地方のお寺の跡継ぎとして生まれたけれども、宗教的なものへの懐疑の強いひとだったとのことで、その役目に背をむけ東京に出てきたという話を幼いころから漠然と聞いて育った。
祖父はわたしの生まれるまえ、父が子どものころに“あちら”の世の住人になってしまったので逢ったこともないひとだけど、でもそのひとにまつわるエピソードから自分の影を感じることもある。そしてたぶん祖父は“こちら”とのコミュニケーションが不得意なひとだったのではないかとも感じていて、「宗教的懐疑」と簡単にまとめられるかれが寺院を去った理由のなかに、個人的なものを超えたしがらみやもつれを感じたりもする。わたしはなにも見たわけでもなく聞いたわけでもないから、ただ想像として感じるだけ。
尼僧になりたいと思っていたころ、自分のなかに寺院に繋がる血があったことも忘れていた。寺院に繋がり、そこから去っていった者の血。
父が自分のルーツをこの目で見て知っておきたいというので、以前に祖父の故郷を旅してそのお寺を見にいったことがある。わたしは中には入らなかった。
祖父の妹にあたるひとがお婿さんを迎えて跡を継いだというそのお寺の門のまえから中にそそいだ自分の眼差しを、ときどき想い出すことがある。
尼僧になりたいと感じたことも、それは考えなおしたほうがいいと思ったことも、わたしの血のなかに眠るどこからかの囁きだったのだろうか。
2022/07/01
サティーが“還って”こなければ
「サティーが“還って”こなければ、シヴァ神の憎しみのフォースは消えない」
遠い昔、ふと強くそう感じたことを覚えている。そのとき自分がなにを思ってそのように感じたのかも。
インドの神さまであるシヴァには幾人もの妃がいて、彼女たちを総称して“シャクティ”と呼ぶことがある。そしてそのシャクティはみな、シヴァ神の最初の妻であるサティーの生まれ変わりの姿でもあった。
サティーが非業の死を遂げ、彼女を失ったシヴァは悲しみから狂気におちいり、その亡骸を抱きながら世界を破壊しはじめた。それを見かねたほかの神がサティーの亡骸をかれから引き離し、そして亡骸を破片にすると、シヴァは長い悪夢から覚めるように正気に戻った。
ばらばらになった破片が落ちた場所は聖地となり、その破片のひとつずつはその土地の女神として再生された。
死の眠りに就いたサティーはそのようにして、それぞれの女神をとおして戻ってきた。それが“シャクティ”。
シャクティのなかには白い面と黒い面がある。
美しく貞淑な女、穏やかでやさしい慈母。
鋭い刃に自らの怒りを解き放ち、荒れ狂う心がときに獰猛さをともなう側面。
そしてそのどちらもがおなじひとりの女性のなかに内在する白と黒でもあること。
シヴァ神のシャクティがひとりのおおきな女神のなかのさまざまな面をかたちにした存在であることを知ったとき、それはまるでそのひとりのおおきな女神が魂を回収する旅をしているようだと感じた。ばらばらに砕け散った自身の魂を癒し、ひとつに復元してゆく旅の途中のようだと。
そしてその回収の旅は、おそらく黒い面からはじまったのだろうこと。それが修復するまえに、まず女神は“砕け散る”ほどに衝撃と痛みをともなった分断によってもたらされた怒りや悲しみを回復させなければいけない。示される黒は、回復の必要性を暗示している。
シヴァ神の威力はシャクティをとおしてあらわされるので、彼女たちはかれの力の象徴でもある。
彼女たちの力がかれにパワーをあたえる。それが負のほうに傾けば、サティーを失ったときにかれがそれをしようとしたような世界を破壊してしまうほどの力を。
破壊に傾く力はパワーではなく負のフォースなので、かれのパワーがパワーとして真の意味で発露すること、正のフォースとして具現化することとシャクティの状態はつながっている。
彼女が散らばったパズルのピース、魂の破片を回収する旅を終えたとき、シヴァ神もまたみずからの最高のパワーを取り戻す。この神話に秘められた伝言はそういうことなのだと、わたしは理解している。
失われたものは、どのように修復しようとも失うまえとまったくおなじかたちとしては還ってはこない。
けれども再生の力はときに、喪失以前よりあたらしい息吹を宿すことがある。
そうした息吹を宿したサティーが“還って”きたとき、彼女の修復の旅が終わったとき、はじめてシヴァ神の彼女を“失った”痛みは癒える。癒えたものがパワーとなって増幅される。
そのように感じたとき、これはあらゆることに共通する手がかりなのではないかと思った。そしていま、その気持ちは漠然とそう思っていた当初よりますます強くなっている。
よく地球の状態はそこに住む女性たちの状態をあらわしているとつたえられる。
嘆き、疲れ、悲しみ、抑圧された女性たちの姿の反映だと。女性たちがみずからを癒すことを許可し受容すること、それを深部にまでいきわたらせることが、地球全体を窒息しそうなほどに覆った負の男性的なフォースの呪縛をほどき、この星の癒しともなるのだと。
昨夜、シヴァ神の“シャクティ”の一面であるドゥルガー女神に想いを馳せながら、そんなことを思い出したり感じたりした。
2022/06/25
“与えられなかった”もの
自分がそれを“与えられなかった”から、自身の周囲にはそれを与えたいと思うか、それとも自分が“与えられなかった”からこそ、他者もおなじ思いをするべきだと判断するか。
どちらの痛みのほうが深いかは誰にもいえない。でも自分が「どちらでありたいか」は、自身で選ぶことができる。
2022/06/16
千手観音
5月の終わりのころ、“夢”と“鏡”という言葉を鍵にして、招かれるように足を運んだ場所。
矢車菊の野原を飛びかう白い蝶は花から生まれているかのごとく空中にあふれ、長い散策のあとにそこから去るとき、今度は黒い蝶たちが梢に飛びかっていた神秘的なその場所。
そこにあった樹々でできたトンネルはあちらとこちらを繋ぐ橋のようで、このトンネルを渡るためにここに来たのかもしれないと感じたこと。
とても不思議な気持ちで頭上を仰げば、光がこぼれ落ちていくつもの色を交差させていたこと。――虹。
ふと、「千手観音」という言葉がおりてきた。わたしにはその樹が千手観音さまのお姿のように見え、そのときからなぜか、その名は思いがけないタイミングで受けとる手紙みたいに幾度もわたしの心に前触れもなく訪れるようになった。そのようにして訪れるものはいつも、なにかの知らせで予告だった。
そしてやはりそうだった、ということを感じるいくつかのこと。
自身の内に感じることを掬いとり、それにしたがって行動し、それでいながら行動を起こしたあとはその行動のゆくすえを自分の視野で限定したり修正したりすることなく、流れに身をまかせることを大切にしたい。
それがちいさなものであっても、それがささやかなものであるほどに、のちになって重要な意味をわたしの人生におよぼしてきた。自分にとっての喜びになることでも、都合が悪いことでも、どんなことでも。
はじまりはいつもささやかでちいさい。そのささやかなちいささに気づき、自身の内部から掬いとってあげることは時にむつかしいことでもある。ちいささ、ささやかさはよく見過ごされてしまう。けれども大事なことはちいさくてささやかなものに潜んでいることもまた、よく感じる。
そのようにして繋がり、巡るものがあることも。
2022/06/15
湯津爪櫛
満月の日、その“時”が満ちるまえに湯津爪櫛をいただいてきた。今年のはじめからずっと示されていた土地で、櫛稲田姫命の櫛を。
“櫛”をキイワードに年明けから暗示されていた場所はふたつあり、ひとつは櫛稲田姫、ひとつは大物主にまつわる場所だった。
櫛稲田姫と須佐之男命。大物主と百襲姫。たぶんどちらもおなじ意味をわたしに示唆し、それはとても重要なことで、どちらの櫛がわたしの“櫛”なのかずっと迷っていた。どちらもおなじ意味をもつのだから、どちらを選んでもおなじ。でもそれは、おなじでありながらおなじではないこと。
そして今月に入りわたしのなかで収束してゆくものとともに内側からの声が、櫛稲田姫の“櫛”のほうだといった。
それにしたがうことにした。
その土地には奇遇にも(そしてそれはおそらく偶然ではなく)、弟橘媛にまつわる伝承をもつ場所もあり、お寄りすることができた。「海神の怒りを鎮めるために海に身を捧げ、そのとき海辺に流れついた櫛をおさめた」という弟橘媛という名にかならず添えられるあの神話が綴られてあるのを読みながら、「“櫛”」とわたしの心に感じるものがあり、やはりこれでよかったのだと思った。
櫛稲田姫の櫛、弟橘媛の櫛。
奇魂と書いて「“くし”みたま」
クシナダヒメは奇稲田姫と記されることもある。
自分の文を読みなおしながらふと、「奇遇」という言葉にも“奇”の字が入っているのだと感じたりする。
2022/06/08
矢車菊
この春、矢車菊の青い花を幾度手わたされ、幾度見かけただろう。
今年になってから、矢車菊に女神イシスの気配を感じるようになった。あくまで自分のなかだけで感じることでもあるから、それを誰かにつたえるために言葉というかたちあるものにはしてこなかったけれど、なぜそう感じるのかという理由のひとつに若きツタンカーメン王の妃、アンケセナーメンが関係しているようだと、わたし自身のなかで点と点が結びつくようなひらめきがあった。
あるときクレオパトラ、古代エジプトと終焉をともにしたクレオパトラ7世のことがわたしの意識に入ってきて、この美の化身として語り継がれる女王のことは自分でも不思議なくらいにこれまでまったく興味をもったことはなく、エジプトとその王朝に心惹かれた子供時代からむしろ、その名を避けてきたところがあった。
エジプトといえばクレオパトラというような発想を、あまりよしとしていなかったのかもしれない。我ながらあまのじゃくなところがなきにしもあらずな性分だとは思うから(そのわりにはツタンカーメンという名にはなんらかの反応を自身のなかに感じたりもして、かの王も“エジプト”というキイワードから思い浮かべやすい名ではあるから、矛盾しているといえば矛盾してはいる。まあ、その矛盾自体はあまり深追いするものでもない)。
そのためクレオパトラ7世のことが意識に入ってきたとき、いささか驚きを覚えた。
『クレオパトラは女神イシスの後継者、イシスの魔術的な力の後継者としての教育を受けた女王であり、真の王や女王はみずからの国を統べる者でありながら同時に最高位の神官としての力をもつため、クレオパトラはイシスの女神官でもあった』
そのときわたしのなかで「ではアンケセナーメンは?」という問いが浮かんだ。なぜその瞬間、それが浮かんだのかはわからない。
なぜだか幼いころからアンケセナーメンには特別な思い入れが自分のなかにあるようにも感じるし、だからそれがとっさに出たのだろうと思う。
『アンケセナーメンもハトシュプストも、すべての王の娘(姉であり妹)たちはイシスの後継者であるといえる』
ツタンカーメンが死を迎えたとき、王妃アンケセナーメンがその棺に矢車菊の花束を捧げたという伝説がある。それはあくまで伝説の領域にとどまるひとつの逸話ではあるけれど、それを思い浮かべるとき、若き王の棺に矢車菊を捧げたアンケセナーメンに、オシリスと分かたれたときおなじようにその花を捧げたイシスが感じられるように思った。
イシスのエネルギーは青い色をしていて、それはあの花とおなじ色。もっといえば、アンケセナーメンが“イシスの後継者”ならば、オシリスを失ったイシスの姿に自分自身を重ねて、そののちの長い旅路のあとに伴侶を“復活”させた女神の姿に自身の愛を重ねるように、その棺に女神の青を捧げたのかもしれない。そのアンケセナーメンの気高さが、感じられるような気がした。
子供時代からかの王妃に思い入れがあったのは、その気高さをどこかで感じたがゆえ、あくまでも「わたしから感じられる視点」としての話ではあるけれど、それゆえだったのかもしれないと思ったりして。
この春、何度あの花をこの目に映し指先で触れただろう。
いくつか巡った古墳のそばにはいつも矢車菊が咲いていた。いにしえからの空気を色濃く残した場所に咲いている青い花を眺めながら、古い記憶とつながっている花であることを強く感じた。エジプトに咲いていた、あの花とこの花は結びついている。
そして矢車菊を目に映し指先で触れるたび、わたしの古い記憶にも働きかけてくれているような、そんな気がした。
2022/06/07
2022/06/05
ずっと願っていたこと
たとえば人間が「幸せになりたい」というとき、穏やかな安らぎや、大切なひとたちと過ごす時間のことを思い浮かべる。それを願ったなら、そのような日々をおくりたいというあらわれだとして、でも神は、「幸せ」は魂の成長のなかにあるのだとうながしてくる。そしてその成長する場をあたえることこそが愛なのだと。その愛は人間の目から見れば試練や不運にしか感じられないこともある。そしてさまざまな経験を得て、わたしに起きたことは不運ではなく、愛だったのだといまわたしは感じられる。それがすべて必要であったこと、それがなにかの返済のためにあったこと、その返済をすることをわたしが意識していないわたしが、ずっと願っていたこと。
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